一瞬をていねいに生きるといえば かなり苦しい
一年をていねいに生きるといえば 続かない
一日をていねいに生きる これがいい
人類を愛するといえば 矛盾も多い
隣人を愛するといえば 具体的だ
徳のある人間になりなさい
わたしの胸で 繰り返し響く声
一瞬をていねいに生きるといえば かなり苦しい
一年をていねいに生きるといえば 続かない
一日をていねいに生きる これがいい
人類を愛するといえば 矛盾も多い
隣人を愛するといえば 具体的だ
徳のある人間になりなさい
わたしの胸で 繰り返し響く声
ファウストといえば
ワーグナーの歌劇・タンホイザーも似たような話である
快楽の限りを尽くしたタンホイザーが
清らかな乙女の無限の愛で
魂の救済に至る
ドイツ人はこんなのが好きなのだろうか
罪と罰と苦悩により魂が浄化される道もある
愛により魂が浄化される道もある
愛による浄化は たとえば ゲーテのファウストである
しかしなぜファウストが村娘の無限の愛で救済に至るのか
男性にとってだけ無限に都合のいい話だと思える
それはおいても 愛による魂の浄化という道もあるのだと思うだけで
充分に慰められる
この世界に生きる意味は、魂の浄化である。
浄化された魂は軽くなり天に昇る。
この世界に生きる意味は、心を空っぽにすることである。
空っぽの空間には風が吹き渡り、ときどきイエス・キリストが入り込み、ひと休みし、またすぐに飛び去る。
心の空間にある、無用の私物をすっかり片づけることである。イエス・キリストのためにいつも空けておくことである。
知識もプライドもちっぽけな感情も、偉大なイエス・キリストに比較すれば、無限に小さい。ただ隣人を愛する心だけがあればいい。
言語の限界が思考の限界である。
日本語の限界に縛られていることが残念でもあり心地よくもある。
このように書いていることさえ、日本語というシステムに内蔵されている思考なのだ。
殺人事件で「心の闇」という。
愛の言葉で「言葉にならない想い」という。
意識と無意識
言葉とその外側
無意識を意識化し、言葉にならないことを言葉にする。そんなアクロバットを毎日の仕事としている。成功することもある。言葉の外側の事象を言葉の内側で表現する時はまず象徴化することになる。イメージの連鎖をたどることだ。そのとき、患者さんの内部のイメージシステムと治療者の内部のイメージシステムの一致度が問題となる。そんなことに頼らない確実な治療システムが望ましいのだが、現状では難しい。
言葉と言葉の外側の境界線を考える。言葉の範囲が患者さんの場合に狭く、治療者の場合に広いときには、治療者はある程度患者さんを導くことができる。導くことができなくても、待つことはできる。