博多住吉通信(旧六本松通信)

 ブログ主が2022年12月から居住を始めた福岡市博多区住吉の生活や都市環境をお伝えします。

赤頭巾ちゃんの時代 その後

2006年10月21日 | 思い出
 このグループの特色は、必ずしも思考が一枚岩でなかったことです。ですから社会問題について議論するときはいつも白熱していました。例えば自衛隊長沼ナイキ訴訟問題では、自衛隊違憲派の私と合憲派のS君とは、自転車で走りながら議論を闘わせ、最後はお互いに田んぼに落としっこになりました。S君はお父さんが自衛隊の幹部で防衛大志望でした。旧ソ連のミグ25亡命事件とか何か事件があると議論を闘わせていました。こういうことを2年位やっていたわけです。
 さて皆がコミューンや社会について熱心に語り始めるようになると、私自身は逆に冷静になっていったから勝手なものです。
 ある日、私は皆を集めて言いました。
 「ぼくらはまだ、あまりに社会についての経験が少なすぎると思う」「ついては各自が思う所の道を進んで、社会について十分な経験を蓄積し十年後に再会し、そこでまだ現在の志が持続しているようであればコミューンを建設しよう」
 結論から先に申しますと十年後の再会(この時点からすると1987年ということになるのですが)という場面はありませんでした。
 しかし・・・「各自が思う所の道」は十分過ぎるくらい十分に実践されたのでした。
 例えば、地域FM局のアイディアを語っていたY君。彼は1年後、卒業とともに実家を出て東京都下の某所で3畳一間に下宿し新聞配達をしながら予備校に通いはじめました。T君(プログレの魅力を私に伝えた人物でもあります)は大阪の国立大学に通いながら、これまた実家から仕送りなしで生活を始めました。S君は結局防衛大には進学せず違う道を進みました。
 どうも私だけが実家から通える都内の大学に進学するという、最も安易な道を進んだのでした。
 1979年3月15日、卒業式の後、大宮と川越の真ん中のドライブインで、議論をした仲間、十数人で集まってうどんを食べました。そしてこの日を最後に「各自の道」へと去って行きました。

 ちなみにY君は後にイギリスに渡って社会的なボランティア活動に従事するなど様々な経験を蓄積し、外資系証券会社を30代半ばで退職し、あの日々から二十数年後に北関東の山奥に本当に私たちが思い描いていたような土地を購入して(近所に自然の温泉まで湧いていました)、そこに自力で家を建て始めました。重機をレンタルして、木の根を除去して整地をして基礎を打ってと本格的な作業を一人で遂行していたのです。何だか申し訳ない気持ちで一杯になった私は連休のときに屋根に防水シートを貼り付ける仕事を手伝いに行きました・・・
  そして大学卒業後、実家も引っ越して全く音信不通になってしまったT君。どこで何をしているだろう。また会いたい気持ちで一杯です。

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