6月7日
久しぶりに、息苦しいメッセージを聴いたのだ。
で、なんでそんなに息苦しかったのかと考えてみたら、
イエス様像がものすごく浪花節だったからではないかと・・・
「こんなに苦労して~、苦労して~~、愛するがために
耐えて~~、耐えて~~~・・・だから
私たちも『行け』と言われたら応答しましょう!
モーセのように」
と、微妙に私的にはモーセはとってつけた気分で・・・
いやはや、ひっさしぶりに、ブブ~な「頑張りなさい」を
講壇から聴いたさ。
そりゃあ、みんな「頑張れアレルギー」になるわいな・・・
尻をたたいて「私も頑張ってるんだから、あなたも頑張りなさい」は
う~~~ん・・・福音書ってそういう世界観か???
私は、そういう世界じゃないから、クリスチャンがいい!って
いろいろな思想とか宗教書とか読んで思ったのは、
この、浪花節じゃない、きらっきらの自由、希望、生きるが
満載だったから。まあ、11歳の子供の目からみてだけどね。
でも、今でもそれは変わってないってか、
深みを増していると思うんだよね。この45歳のコドモ的には。
イエス様は確かに十字架を背負って歩かれた。
でも、単純に「は~い!」って言ったのか?
モーセは単純に「はい!いきま~す!!」って言ったか?
で、「えんやこ~ら」だったか???
そうかぁ~?とか思うわけ。
大事なエッセンスが抜けきってるんじゃないの?と。
関係(リレーションシップ)。
マコトさんが、「リレーしている船」だねって上手いことを言ってたけど、
そうなんだよね。
モーセも神様と格闘するし
イエス様もゲッセマネで神様と格闘する。
イスラエルって言う名前自体が「神と格闘する」っていう意味で
神の民になるとは、そこから逃げられないのかもしれないし
むしろ、格闘できる相手が居るって幸せじゃない?
小さいころ、お父さんとお相撲とったこと思い出しません?
負けても楽しい。だってお父さんってこんなに強いんだ~!って
それが嬉しかったりする。
それが確かめたくて又、相撲をしよう!って言いたくなる。
負ける相手だから、強いって知っているから、
それを確認しているから
だから、思いっきり信頼できるって違いますかねぇ・・・
一緒だから、「頑張れる」。だってこんなに凄い、強い存在が
一緒に居るって言ってるんだから。
それはそこに目をしっかりと向けて
しっかりとたっているから
だから耐え抜けるし、そこに本来の「喜び」を見出せる。
生きるって手ごたえが在ることだと思うんだよね。
自由は手ごたえがある。
喜びも同じ。
ふわふわ無重力だと、それが味わえないわけで。
クリスチャンはジャズ的人生を送っているわけで
浪花節じゃないぞ!!
豊かさを選ぶか、それとも、カツカツを選ぶか・・・
豊かさを選び取ることが出来る自由を持っているのが
本来の自由じゃないのか?
ふわふわの無重力から
しっかり重力によって、思いっきりジャンプできる
そんな重力を選び取る自由こそが本来の自由じゃないか?
型にはめるんじゃなくて、
型があるからフリースタイルが可能になる。
フリージャズだよ、人生は。