スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡十七&第二部定義二の解釈

2016-04-19 19:10:05 | 哲学
 スピノザとバリングPieter Ballingの間の書簡で遺稿集に掲載されたものは1通だけ。それが書簡十七で,1664年7月20日付でスピノザからバリングに送られたものです。
                                    
 内容だけでいうと,この書簡が掲載されたのは意外に思えます。ただ,元々はオランダ語で書かれたものをスピノザがラテン語に訳し,それがラテン語版に掲載されたとのことで,スピノザが訳しておいたのだから掲載に値するのだろうと編集者が考えたのかもしれません。オランダ語版に掲載されたのは,スピノザのラテン語訳をさらに編集者がオランダ語に訳し直したものだそうで,原書簡ではないと解説されています。
 この手紙を送る前に,バリングの子どもが死にました。バリングはそれを嘆き,子どもの死の前にその予兆があったということを手紙で伝えたようです。つまりバリングからスピノザに送られた手紙があったということもここで確定できます。ただそれは遺稿集には掲載されなかったのです。
 バリングがいっている予兆というのが具体的にどういうものであったか,スピノザが書いていることだけでは判然としないのですが,そこでバリングがいっていることが,十全な認識に基づくものでなく,表象によって生じたものであることだけは確かだったといえます。あるいは迷信めいたものであったかもしれません。
 そこでスピノザは,そうした表象というものがなぜ生じるのかということ,そしてバリングが認識した表象をなぜバリングが自分の子どもの死と結び付けるのかということを説明します。ここは哲学的な説明になっていて,もし掲載に値するということが内容によって判断されたのなら,この部分がその理由でしょう。他面からいえば,単にスピノザがバリングに慰めのことばをかけただけであれば,掲載はされなかったかもしれません。
 表象像の連結がどう生じるかは,『エチカ』でも説明されています。スピノザはここでその具体例に言及しているということは可能でしょう。

 第二部定義二の意味は,事物の本性は,その事物の存在を定立するのであり,排除するものではないということでした。したがってある事物を個物に限定したときに,その個物の存在がその個物が様態となっている神の属性を表現するのであれば,その個物の本性もその個物が様態となっている神の属性を表現するのでなければなりません。そうでないとその個物の本性は,その個物の存在を排除してしまうか,排除はしないまでも存在を定立することはできなくなるからです。よって第一部定理二五系は,単に個物res particularisの存在だけが神の属性を表現するのではなく,そのres particularisの本性も同じように神の属性を一定の仕方で表現すると解するべきだという結論になります。
 ところで,この第二部定義二というのは,それ自体で事物の本性は事物が存在するといわれるのと同じ意味において固有の存在を有していることを示していると僕は考えます。なぜなら,この定義の文言のうち,後半部分で,そのある物がなければそれが在ることも考えられることもできないようなもの,といわれているときの「それ」というのは,本性であると考えなければなりません。したがってスピノザはここでは,存在するものであると同時に概念されるものとして本性を定義していることになります。つまり第一部定理二五を論証するときのスピノザは,第一部定理一五を援用しつつ,本性が存在するということについては何も言及せず,本性が概念されるものとしてのみ言及していたのですが,この定義においては,本性が存在するものとしても概念されるものとしても言及しているのです。いい換えれば本性はそれ自体で形相的有として実在するものであり,客観的有すなわち観念としても実在するものであると言及しているのです。これが僕がスピノザの哲学においても事物の本性は事物の十全な観念を離れても形相的に存在すると解釈するふたつめの理由であり,また最大の理由となっているのです。
 この解釈によれば,人間の身体の本性というのは,その観念すなわちその人間の精神と別に,形相的にも存在することになります。

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