スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽生善治論&モナドと属性

2015-01-11 19:27:18 | 将棋トピック
 四冊目は加藤一二三の『羽生善治論』。2013年4月10日に角川書店より発行。僕が持っているのものには同年4月25日再販とあります。これは重版とは違って,何らかのミスを手直ししたものと思われます。
                         
 副題に“「天才」とは何か”とあります。つまり本書の意図は,羽生の「天才」について多角的に分析しようというもの。分析自体が成功しているか否かは各々の読者が判断するところでしょう。多角的であることは間違いありません。
 加藤の著書を読んだり,映像を見たりした経験がある方にはお分かりでしょうが,加藤は基本的に自分自身について語ることを好みます。本書も羽生論ですが,随所で加藤自身のことも語られています。また,映像から判断する限り,加藤は常に躁状態にあるのではないかと感じられる人物です。それは文章になっても同様。たとえば自戦記のようなものでも加藤の文章はハイテンションで,早口でまくしたているという趣があり,それもこの本でも同様です。
 本の意図は,単なる羽生論ではなく,羽生の「天才」論です。こういう場合に,だれが「天才」について論述する資格があるのかということが問題となるでしょう。この本が優れているのは,確かにそのような問題があるということに加藤自身も気付いていて,具体的な「天才」論に入る前に,加藤自身がその資格を有しているということを論証している点にあります。結論からいえば,それは加藤自身もまた「天才」であるということ。つまり「天才」は「天才」を語る資格があるという前提からの論述です。よってこれは「天才」による「天才」論です。このように断言して構わないのは,「天才」とは何であるのかということを,加藤がきちんと定義づけているからです。
 これでみれば明らかなように,これは羽生論といより加藤による「天才」論であるという側面の方が大きくなっています。つまり加藤がどういう事柄を「天才」と解し,加藤が解する「天才」がどう羽生に表出されているかが示されているといえるでしょう。

 個々の属性に関連する第一部定義六の名目性については,そのように把握しておけば安全であるという以上の意味はありません。別にそれが実在的にもこの定義に含まれているのだと考えたとしても,そんなに大きな過ちを犯していることにはならない筈だからです。というのも,絶対に無限な実体というのが必然的に存在しなければならないのであれば,無限に多くの属性もまた必然的に存在するのであって,個々の属性というのはこの無限に多くの属性の中からだけ抽出され得るのであり,それ以外に何らかの属性が存在するということはあり得ないからです。このこと自体は第一部定義六説明から明白だといわなければなりません。神に比重を置くならば,このゆえに神は自己の類において無限といわれるのではなく,絶対に無限といわれなければならないのです。よって,個々の属性の第一部定義六における名目性と実在性について,僕は争うことはしません。ただ,少なくとも名目的には,無限に多くの属性が存在するということが前提されているということだけ示すことができれば,これから後の考察にとっては十分です。そしてこの点について異論が出るということはないでしょう。
 ライプニッツの規定のスピノザの形而上学への置き換えの可能性は,この点に着目するのでない限り,不可能ではないかと僕は考えています。つまりライプニッツが無限に多くのモナドの実在を主張している点と,スピノザが無限に多くの属性の存在を主張している点に着目し,これを一致させるような形で,ライプニッツの形而上学をスピノザの形而上学に当て嵌めるのです。
 スピノザの形而上学では,無限に多くの属性が神という実体の本性を構成します。ライプニッツはモナドについては形而上学的には実体であるという意味のことをいっていて,たぶん属性をどのように規定するのかはスピノザとは異なっているものと思われるのですが,スピノザの哲学では実体と属性の区別が理性的区別であると考える限り,無限に多くの実体が神という「唯一」の実体の本性を構成すると考えて,表現上は変であっても,矛盾を来すとまではいえないと考えて構わないと僕は思います。
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