スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&律法の有意味性

2023-12-06 19:30:50 | 競輪
 昨晩の伊東温泉記念の決勝。並びは吉沢‐武藤の関東,松井‐佐々木‐和田‐五十嵐の南関東,林‐伊藤の九州で渡部は単騎。
 松井と武藤でスタートの取り合い。松井が誘導の後ろに入って前受け。松井の後ろに伊藤が続いていたので5番手は林。7番手に渡部で8番手から吉沢の周回に。残り3周のホームから吉沢が上昇開始。バックで松井に並び掛けましたが,松井が突っ張りました。残り2周のホームに入って今度は林が発進。バックから松井と先行争いになりましたが,これも松井が突っ張って打鐘。林が不発になったので伊藤が和田の外に下りてきたのですが,ここは和田が守って伊藤が5番手に。バックに入って吉沢が発進したもののこれは脚が残ってなく,松井には追い付けませんでした。吉沢の捲りがあったので番手の佐々木は外の方から松井を差しにいき,開いた松井と佐々木の間を突き抜けた和田が優勝。松井が4分の3車身差の2着に逃げ粘り,佐々木が1車輪差の3着で南関東の上位独占。
 優勝した千葉の和田健太郎選手は9月に京王閣のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年12月の佐世保記念以来の優勝で4勝目。伊東温泉記念は初優勝。この開催は犬伏が途中欠場となってしまったため,松井が断然のシリーズリーダーに。そのラインが4人になりましたから,よほどのことがない限りこのラインから優勝者が出るだろうとみていました。前受けして吉沢,伊藤とそれぞれを突っ張って2着に残ったのですから,松井は確かな力をみせたといえるでしょう。吉沢の2度目のアタックのタイミングから,佐々木の進路が外目になってしまったのは仕方がないと思いますし,あれだけの距離を駆けたのですから松井が逃げ切れなかったのも仕方がないと思います。和田の直線の切れ味が最も強みを発揮する展開になっての優勝といえそうです。

 各地に散り散りになったユダヤ人がモーセの律法を遵守することによってユダヤ人であり続けることができたこと,他面からいえばそのことによってユダヤ人の共同体が存続し,ユダヤ民族が他の民族と同化しなかったということはスピノザは認めているのです。そのことを認めた上で,スピノザは律法は人間の法lexであって神Deusの法ではないといっているのです。そして神の法ではなく人間の法だから,ユダヤ人の国家Imperiumが消滅した時点で,この律法は無効になったといっているのです。
 ただしこの結論は,論理的に必然的なものであったといえます。というのはスピノザがいうように,律法の有効性が,ユダヤ人がユダヤ人であり続けること,いい換えればユダヤ人がアイデンティティを確立しそれを保持し続けることにのみ有効であったのであれば,それはユダヤ人にとっては意味のあることですが,ユダヤ人でない人には何の意味ももたないことになるからです。もしも律法が神の法であるのなら,その法はユダヤ人にだけ通用するような法であってはならず,万人に通用するような法でなければならないというのが,スピノザにとって神の法と人間の法とを峻別する規準であったのですから,ユダヤ人にとってのみ有効な律法について,それを神の法というのは無理があるからです。実際にウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaは,ユダヤ教の信者ではあったけれども細かい律法,これはモーセの律法というよりラビたちが決定した生活の諸規則といった方がよいのかもしれませんが,そうした規則というのは必要とはしていなかったのであって,それはスピノザがいうように,律法が人間の法であるということの証明になるであろうと思います。
                                   
 したがってスピノザは律法が無効であると『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で主張することになりました。しかしこれは,現実的な意味ももっていた筈です。というのもスピノザはユダヤ人共同体で産まれ育ったわけで,スピノザが自分のことをどのように規定していたのかということは別に,明らかにユダヤ人とみなされるような存在であったからです。つまりこの結論は,スピノザ自身がそういうアイデンティティを必要としていないという宣言とみなせます。

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