2013年最初のビッグとして8日から松山競輪場で争われてきた第28回全日本選抜競輪の決勝。並びは鈴木ー成田の福島,武田-平原で関東,深谷に神山,藤木ー村上の京都となり,海老根は単騎。
スタートは取り合いの様相でしたが,成田が先んじて鈴木の前受け。3番手に藤木,5番手に武田,海老根が追走して8番手から深谷という周回に。動きは残り2周のホームからで,深谷が上がると鈴木はすぐに誘導との車間を開けて深谷が前に。これに続いたのが武田で,バックでは深谷を叩いて先頭に。引いた鈴木が巻き返す構えも打鐘で武田がスピードアップし断念。ホームに戻って緩んだところを外からかましにいきました。かまし自体は決まったのですが,平原が成田を牽制し単騎に。位置を確保しに戻った成田は接触があり,藤木と神山は落車。武田は直線手前から本格的に鈴木を抜きにかかりましたが,平原がその中を割って強襲。これが決まって平原の優勝。大外を捲り追い込んだ深谷が半車輪差で2着。深谷と武田の間を伸びた海老根が8分の1車輪差で3着。
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優勝した埼玉の平原康多選手は年頭の大宮記念で優勝。ビッグは2010年の高松宮記念杯以来で5勝目。GⅠは4勝目。年頭の記念制覇で復活を予感させましたが,その通りにすぐにビッグを優勝しました。ここは武田に前を任せてのものなので,完全復活とはいい難い面があるのは事実ですが,当面は注目し続けなければならない選手ではないかと思います。
人間の精神mens humanaが悲しみtristitiaを知覚するpercipereとき,同時にその知覚自体をその精神が認識し得るということについては,これで明らかになったと思います。つまり人間の悲しみを観念ideaとしてみた場合,その観念の観念idea ideaeもその人間の精神のうちにあるということになります。
ところで,スピノザの哲学において,ある人間の知性intellectusのうちのAの観念の観念とAの観念の関係は,その人間の意識と無意識の関係に該当するということは,今回の考察の中で説明しました。したがってある人間が自分の精神の悲しみを認識するcognoscereということは,他面からいうならば,自分の悲しみを意識するという意味であることになります。しかるに第四部定理八によれば,人間が悲しみを意識するということは,何らかの悪malumを認識するということにほかなりません。よって悲しみの場合の実在性の変化の認識は,悪の認識として人間には意識されるということになります。
消化不良によって人間の本性humana naturaが変化する場合の認識cognitio,いい換えるなら人間の実在性realitasがより大なる状態からより小なる状態へと移行する場合の認識を例材とすれば,これは確かにその通りであるということが,経験的な視点からも明瞭なのではないかと思います。僕たちは消化不良を,たとえば腹痛とか吐き気といった形で認識し,具体的に自分の身体corpusを構成する部分で生じている運動motusとしては認識しないと僕は結論しましたが,このときに,腹痛とか吐き気といったものを,僕たちはそれ自体でみるならば,僕たちにとって悪しきこととして意識するといえるからです。
消化不良というのが,人間の身体humanum corpusにとって悪であることは間違いありません。第四部定義二により,悪とは善bonumの妨げです。善は第四部定義一により僕たちに有益なものです。そしてこの有益性は第三部定理七に依拠します。つまり自己保存の法則ないしは個物res singularisの現実的本性actualis essentiaに依拠します。この場合の消化不良が,それらに反するということはとくに説明するまでもなく明らかだといえるでしょう。したがって消化不良は人間の身体にとって悪です。そして人間の精神の秩序ordoと身体の秩序は第二部定理一三と第二部定理七により一致します。したがってそれは人間の精神にとっても悪なのです。
スタートは取り合いの様相でしたが,成田が先んじて鈴木の前受け。3番手に藤木,5番手に武田,海老根が追走して8番手から深谷という周回に。動きは残り2周のホームからで,深谷が上がると鈴木はすぐに誘導との車間を開けて深谷が前に。これに続いたのが武田で,バックでは深谷を叩いて先頭に。引いた鈴木が巻き返す構えも打鐘で武田がスピードアップし断念。ホームに戻って緩んだところを外からかましにいきました。かまし自体は決まったのですが,平原が成田を牽制し単騎に。位置を確保しに戻った成田は接触があり,藤木と神山は落車。武田は直線手前から本格的に鈴木を抜きにかかりましたが,平原がその中を割って強襲。これが決まって平原の優勝。大外を捲り追い込んだ深谷が半車輪差で2着。深谷と武田の間を伸びた海老根が8分の1車輪差で3着。
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優勝した埼玉の平原康多選手は年頭の大宮記念で優勝。ビッグは2010年の高松宮記念杯以来で5勝目。GⅠは4勝目。年頭の記念制覇で復活を予感させましたが,その通りにすぐにビッグを優勝しました。ここは武田に前を任せてのものなので,完全復活とはいい難い面があるのは事実ですが,当面は注目し続けなければならない選手ではないかと思います。
人間の精神mens humanaが悲しみtristitiaを知覚するpercipereとき,同時にその知覚自体をその精神が認識し得るということについては,これで明らかになったと思います。つまり人間の悲しみを観念ideaとしてみた場合,その観念の観念idea ideaeもその人間の精神のうちにあるということになります。
ところで,スピノザの哲学において,ある人間の知性intellectusのうちのAの観念の観念とAの観念の関係は,その人間の意識と無意識の関係に該当するということは,今回の考察の中で説明しました。したがってある人間が自分の精神の悲しみを認識するcognoscereということは,他面からいうならば,自分の悲しみを意識するという意味であることになります。しかるに第四部定理八によれば,人間が悲しみを意識するということは,何らかの悪malumを認識するということにほかなりません。よって悲しみの場合の実在性の変化の認識は,悪の認識として人間には意識されるということになります。
消化不良によって人間の本性humana naturaが変化する場合の認識cognitio,いい換えるなら人間の実在性realitasがより大なる状態からより小なる状態へと移行する場合の認識を例材とすれば,これは確かにその通りであるということが,経験的な視点からも明瞭なのではないかと思います。僕たちは消化不良を,たとえば腹痛とか吐き気といった形で認識し,具体的に自分の身体corpusを構成する部分で生じている運動motusとしては認識しないと僕は結論しましたが,このときに,腹痛とか吐き気といったものを,僕たちはそれ自体でみるならば,僕たちにとって悪しきこととして意識するといえるからです。
消化不良というのが,人間の身体humanum corpusにとって悪であることは間違いありません。第四部定義二により,悪とは善bonumの妨げです。善は第四部定義一により僕たちに有益なものです。そしてこの有益性は第三部定理七に依拠します。つまり自己保存の法則ないしは個物res singularisの現実的本性actualis essentiaに依拠します。この場合の消化不良が,それらに反するということはとくに説明するまでもなく明らかだといえるでしょう。したがって消化不良は人間の身体にとって悪です。そして人間の精神の秩序ordoと身体の秩序は第二部定理一三と第二部定理七により一致します。したがってそれは人間の精神にとっても悪なのです。
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