スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&マシュレとの関係

2012-04-30 18:39:43 | 競輪
 今年から年1回に戻った第28回共同通信社杯は,名古屋競輪場を舞台に27日に開幕し,有力選手が相次いで脱落していく中,今日の決勝を迎えました。並びは佐藤-渡辺-成田の北日本,鈴木ー望月の南関東,脇本-稲垣-南-柴崎の中部近畿。
 スタートは南が取って脇本の前受け。鈴木が5番手で7番手から佐藤の周回。残り3周のバック,脇本が誘導と接触したようで落車。稲垣が誘導との車間を開けると,後方の佐藤が発進し,ホームでは叩いて前に。佐藤はそのままほとんどスピードを落とさず,残り2周から先行という形に。稲垣が4番手で7番手に鈴木で一列棒状。残り1周のバックに入ると後ろの動きを待たずに渡辺が番手捲り。こうなっては別ラインは手も足も出ず,そのまま渡辺の優勝で,マークの成田が2着に続いて北日本のワンツー。捲り追い込みをかけた稲垣が外に行ったので,北日本2車の間を突こうとした南が3着。
 優勝した福島の渡辺一成選手は昨年12月の伊東温泉記念以来のグレードレース制覇。ビッグはこれが6度目の決勝で,初優勝。脇本のアクシデントは関係なく,後ろ攻めとなった時点で佐藤は行く気満々だったよう。後続に反撃させないような先行となりましたし,持ち味はスプリント能力ですので,半周くらいならば問題ありません。競技にも力を入れていて,今年の目標はむしろオリンピックであったと思いますが,その前に本業の方で結果を出しました。オリンピックに出るようなら,そちらでの活躍にも期待したいところです。

 『短論文』の「認識は純粋な受動である」という一文をどのように解釈するのかという立場の相違とは別に,スピノザの哲学の認識論のこうした側面が,マシュレによる属性の認識の理解に,深く影響しているということは間違いないところだと思います。すなわち僕はこの一文があってなお,スピノザの認識論には重大な変更はなかったと考えるわけですが,そうであるならば,少なくともそれを一般的な意味において理解すれば,人間の精神による属性の十全な認識を,人間の精神による受動であるとみなすことは,大いに可能であると考えられるからです。
                         
 マシュレは第一部定義四における知覚を,第二部定義三説明における知覚であると解することから訴訟を開始しました。しかしその訴訟過程において,むしろそれを撤回するかのように,人間の精神による神の属性の認識は,受動であるとも能動であるともいえないような認識であるといっています。僕は人間の精神による認識作用は,あるいはもっと広くどんな事物のどんな作用も,能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えますから,そのこと自体には同意できません。しかし一方で,最初はそれを人間の精神による受動であるといっていたマシュレが,中途からはそれを能動でも受動でもないような思惟作用であると主張するようになったのは,マシュレがそれを,単に受動であるとは解せないと考えたからだろうと思うのです。いい換えればマシュレにとって,たとえそれがオートマティックな,あるいはシステマティックな思惟作用であるとしても,ただそれだけを理由としてその認識を受動であるとはいえなかったのだろうと思うのです。したがって逆にいうなら,こうしたマシュレの訴訟過程というのは,少なくともスピノザの哲学の認識論に関しては,そのどこが重要な点であるのかということについて,よく気が付いていたことの証明であるように思います。だから僕は,何を能動と解し何を受動と解するのかという点ではマシュレには同意できませんが,たとえそれが一般的な意味では受動としか理解できないような思惟作用について,受動であると断言しなかった点では,むしろマシュレの考え方に同意したいくらいなのです。

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