穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ポール・オースターのニューヨーク三部作の三作三様について

2018-03-24 13:58:31 | 書評

  作品の骨組みが見えやすいということはその後の「幽霊」でも「鍵のかかった部屋」でも同じだった。骨組みが見えやすいというのは要約しやすいということだ。

  彼の作品は時系列的に「孤独の発明」それからニューヨーク三部作(ガラスの街、幽霊、鍵のかかった部屋)と続くようだ。それ以外にも作品はあるのかもしれないが習作的な評価なのだろう。

  ニューヨーク三部作もある意味で発展途上のものと言えるかもしれない。最初の「ガラスの街」は小説たらんとして、いささかシッチャカメッチャカになっている。二番目の「幽霊」は小説というよりも詩的韻文的でそれだけに「ただずまい」は整っている。三作目の「鍵のかかった部屋」は再び小説たらんとして第一作よりも小説らしくなってきた。これはその次の「ムーンパレス」においても引き継がれているようだ。

  その後の作品は読んでいないが、彼の文章の特色は改行が少なく、会話を現代風にかっこに入れていちいち改行することが少ない。そういう意味では古典的というかドストエフスキーに似ている。村上春樹なんかと同世代だと思うが、この辺は全然ちがう。

  村上春樹で思い出したが、彼の「多崎つくる君」では登場人物の名前がみんな色で出てくるが「幽霊」では登場人物全員が色で呼ばれている。偶然の趣向の一致かな。

  特徴的なのはセックス描写で、「鍵のかかった部屋」と「ムーンパレス」には初めてセックス描写が出てくるが、改行なし、会話なし(擬音なし、うめき声なし、痴話なし)だから数ページで終わるが、迫力はある。オースター風というのだろう。

  さて、「ガラスの街」と「幽霊」では、探偵が相手の行動に変化がないので、しびれをきらして(頭にきて)探偵本人が相手に接触していく。依頼人の同意もなしに。どうしても物語の転換場面でこのシーンをいれたいらしい。

  作風に固定観念というのがあるかどうかしらないが、「ガラスの街」と「幽霊」には共通なところがある。また、鍵のかかった部屋とムーンパレスにもそういったところがある。

  「ガラスの街」と「幽霊」はミステリーでいえば、尾行、張り込みものだが、「鍵のかかった部屋」は失踪人探しというミステリーの本筋だ。枠組みだけはね。

  ナレイターで探偵役は失踪者の子供の時からの友人である。こういう指摘をする評論家はいないかもしれないが(というより居ないと確信するが)、この小説は失踪者の「表現欲」がテーマではないか。表現とは、とくに作家では自分を消して作品だけで表現したいというところに行きつく。実際の小説業界、出版業界ではそうもいかないのだが、この論理的必然を追求したのがこの作品ではないか。

  失踪者ファンショーは失踪する際に自分の書き溜めた原稿を友人に渡してどう処分してもいいといい残す。本当は出版してほしいのである。また数年後友人に連絡してきて、自分に会いに来た友人にまたその後に書いた原稿を渡すが、自分の姿を見せない。つまり鍵のかかった部屋のドアを隔てて友人に原稿を渡すのである。これこそ究極の表現欲ではあるまいか。

 そういえば、「ガラスの街」で探偵役を演じるクインはミステリー作家で、もちろんペンネ

―ムで執筆している。アメリカだから出版エージェントを使っているが、彼とは会ったこともない。つまりこれは後の「鍵のかかった部屋」のファンショーに通じるタイプである。これもオースターの隠れた固定観念の一つだろう。

 上記で「幽霊」は「幽霊たち」とお読みください。

 


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