穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

幸田文「おとうと」にぶったまげる

2016-03-23 08:18:29 | 書評

 「カントのアクメ」と題して書こうと思っているが、其の前に小説の書評、といってもまとまったものではないが、どうせ日記風に書くのがブログなどらしいから、思いついたまま、感じたまま書く。「なんとかナウ」なんてノリでね。

いや驚いた(もちろん良い意味で)。それで関連したテーマ、つまり自分や家族を私小説風に綴るという、の作品をいちどに3、4冊買った。 

発表年次順にならべると、

1949 父、、、

1951 みそっかす

1956 流れる

1956 おとうと

まず「おとうと」を読んだ。ナラティヴというのか記述法や訛?がユニークなので面食らった。寺島村なまりというのかな、いまの墨田区向島あたりの言葉らしいが。

これに驚いて次に「父」を読んだが最後まで読めなかった。習作というのかな。それにしても此れは父の臨終の看病を執拗に赤裸々にながながと描写するものである。「おとうと」も結核で二十歳そこそこで結核で亡くなる弟の看病記である。

習作「父」の経験の上に書いたのだろうが、こちらは迫力満点である。飛躍的な成長がみられる。ナラティヴが超ユニークなのは共通する。それに対して今の所拾い読みした「みそっかす」は両作に比べれば常識的な書き方で短いエッセーを集めた感じだ。

未読の「流れる」は著者が芸者置屋の仲居(女中)をした経験を描いたというし、ま、私小説と言えよう。しかし、彼女のことを私小説作家とは言わないね。女性だし、「文豪」幸田露伴の娘だからだろうか。とにかく、私小説というイメージにつきまとう一種の「ひねくれ、うさんくささ」とは違うようだ。勿論彼女風にひねくれてはいるのだが。「3月23日朝の日記終わり」

 


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