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熊本市の梅林

2015-04-04 15:50:19 | 九州の梅を訪ねて

 

 熊本に入り、市内西部の百梅園を訪ねました。

 

 ナビに熊本市西区島崎4丁目と入力したのですが、着いてみると周囲に住宅が並ぶばかりで、梅園らしきものが見当たりません。

 

 犬の散歩をしているご婦人に道を訪ね、ようやく百梅園を探し当てました。

 

 百梅園は住宅街を見下ろす小山の斜面にあり、視界の先の市街地にビルなどが見えていました。

 

 右手前方の、緑に包まれた丘辺りに熊本城があるのでしょうか。
 

 

 

 梅園を登って行きますと、遠くに白煙を上げる山が見えました。

 

 阿蘇山のようです。

 3~4日前には、あの山の向こうで梅を訪ね歩いていました

 

 

 このブログ「花の旅」の楽しみの一つに、旅を終えた後、訪問先を再度調べ直す作業があります。

 

 ブログを書くことで、調べざるを得ない状況になるのですが、その作業を経ることで、初めて知ることや、認識を改めることが多々あります。

 

 今回も、上の写真に阿蘇が写っていることで、阿蘇は熊本のほぼ東の方向に位置することを再認識しました。

 

 何となく私は、今まで阿蘇は熊本の北、福岡は北西のようなイメージがあったのですが、今回は九州の地理を認識し直しました。

 

 地図を見ると、九州の中央をほぼ「南北」に山稜が通っています。

 

 今朝見て来たように、気象条件によっては、中央山稜西側の、鹿児島県北西部に雪が降っても、おかしくないのかもしれません。


 そして肥後は、稲作に必要な水に恵まれているだろうと推測します。

 

 人々の暮らしの中で、農業のウエイトが高かった数百年前は、地形と気象が人々の生活に与える影響が今以上に大きかった筈です。

 

 夫々の地理の特性を知ることで、歴史をより深く理解することになる気がします。

 

 そのような「実際にその場所に立つ」ことで得る知識の面白さが、私に季節外れの梅園巡りを続けさせているのかもしれません。

 

 

 百梅園のある熊本市島崎は、江戸時代中期から別荘地として開け、百梅園の地も細川藩家老の別荘地だったそうです。

 

 後に、細川藩士の漢学者「兼坂止水」の所有となり、止水は明治3年に家禄を奉還して私塾(兼坂塾)を設け、茶や梅を多く植栽して百梅園と名づけました。

 

 兼坂塾には徳富蘇峰が通ったこともあるそうです。

 

 

  

 百梅園から10分程車をはしらせ、谷尾崎梅林公園にやってきました。

 

 梅園の入口に「妙解寺別院谷隠軒跡 宮本武蔵座禅石」と記された石碑が建っていました。

 

 

 今回の旅の最初に、門司の和布刈公園から、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島を眺め、国東半島の杵築城跡で宮本武蔵の足跡を知り、そしてまた、熊本でその名に再会しました。

 

 

 今までは、宮本武蔵の名前しか知らなかったのですが、これを機に調べ直しますと、

 

 宮本武蔵は1584年に兵庫県播磨ないし岡山県美作で生まれ、美作の新免氏の養子となりました。

 大阪の陣で徳川方に参陣し、その後、江戸や尾張、明石などに足跡を残しています。

 1640年に熊本城主 細川忠利に招かれ、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、5年後の1645年に62歳で亡くなりました。

 

 杵築城跡にあった、宮本武蔵に関する記述に「決闘後、養父無二斉のいる豊後へ送り届けられた。」とあったので、私はてっきり、武蔵は大分県出身と思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。

 

 

 その宮本武蔵が、座禅を組んだとされる、上面畳二枚程の広さの巨岩が、梅園を見下ろしていました。

 

 

 

 谷尾崎梅林公園は、古くは加藤清正が軍用梅を栽培した地で、その後細川家菩提寺の別院がありました。

 

 昭和58年以降に市が公園として整備し、公園愛護会が平成3年から約20年を掛けて梅の植栽を進め、現在では約300本の梅が2月中旬に谷を飾るようになったそうです。

 

 

 

 

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