田老(たろう)町の三王岩の後、宮古市の浄土ヶ浜に足を向けました。
浄土ヶ浜は5年前に立ち寄っています。
その時目にした、真夏の太陽の下、碧い海に白い岩が立ち連なる景観が、今でも印象深く脳裏に残ります。
あの美しい海はどうなったかと心配しながら、浜へ向かいました。
海に下る途中、歩道から見えた浄土ヶ浜は、記憶の中の風景と変わらぬ穏やかな渚を見せていました。
安堵の思いで浜に下ると、5年前と同じように、多くの親子連れが水辺で遊ぶ姿を目にしました。

浜辺の岩に、名も知れぬ黄色い花が咲き、津波の爪痕を感じさせるものは目にしませんでした。
しかし、浄土ヶ浜を出て、釜石市を過ぎた辺りで、山間の高台に仮設住宅が建ち並ぶ姿を目にしました。
震災から4年半が過ぎても、以前の生活を取り戻せない方達の現状を知らされました。

陸前高田市に入ると、今も津波の恐ろしさを如実に示す集合住宅の残骸を目にしました。
5階建ての集合住宅の4階から下の窓は全て破壊されています。
津波はこの建物の4階にまで達したのです。

周囲の旧市街地には、付近の丘陵地からベルトコンベアが伸びて、土地を嵩上げする作業が進んでいました。

奇跡の一本松をシンボルに、復興作業は着実に進められている様子でした。
2011年の6月に訪ねた被災地は、何から手を付けたら良いのかさえ分からない状況でしたが、その時に比べれば、良くはなってきています。

2011年6月の当該地区の様子
当時は、東京、大阪は勿論、長崎の島々から駆け付けた、百人を超えるボランティアが、体育館の床に寝泊まりしながら、復旧作業に汗を流しました。

ボランティアが宿泊した体育館
被災地では、「日本加油(=日本頑張れ) 台湾より」とボディーに記載されたワンボックスカーを目にしました。
台湾の人々から暖かい援助を頂いたことを思い出します。
二度と再び、このような悲惨な状況を目にすることのないよう、後の世代に記憶を語り伝え、対策を怠らないようにしたいものです。
そう、比較にならぬ程に悲惨だったあの戦争の記憶と共に。
そして悲しいことに、今の世界秩序の契機となった70年前を記念して、人間を殺傷する道具を揃えて軍事パレードを行う国の為政者が何を意図しているかを、冷静な目で、注意深く見つめ続ける必要があります。
地震が避けて通れないなら、対策を準備する心構えだけは忘れないようにしたいものです。
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