五輪教会から戻る途中、島の東側の尾根に設けられた折紙展望台に登ってみました。
この展望台は、島民の皆様の手作りなのだそうです。
展望台から南東方向を見下ろすと、眼下に蕨の港が見えていました。
尾根をまたいだ反対側には、久賀湾が島の中心部へ水面を伸ばしていました。
画像が暗くて分かり難いのですが、展望台の周囲はヤブツバキに覆われ、葉の間から赤いツバキの花が顔を覗かせていました。
展望台直下から、島の北の方角へ伸びる舗装された道が見えたので、電気自動車でその道を走ってみましたが、10分程先で突然道が途絶えました。
島の東側尾根の先端の折紙鼻と呼ばれる場所に行きたいと思ったのですが、ちょっと残念でした。
展望台で島の眺望を楽しんだ後、「牢屋の窄」に向かいました。
路肩に車を止めて階段を上り、振り返ると、久賀湾が静かに水を湛えていました。
「牢屋の窄殉教記念聖堂」を説明する表示に
「明治元年(1868年)長崎の浦上でキリシタン迫害が始まると、五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。
久賀島では、6坪ほどの牢屋に八ヶ月間200名の信者が押し込まれ、悲惨な拷問が行われた。
その結果、在牢中39名、出牢後3名の死者でるという悲惨な弾圧であった。
その状況は外国使節団の知るところとなり、明治新政府の外交問題に発展し、明治6年ついにキリシタン禁制の高札が下ろされ、信者達は進行の自由を勝ち取った。・・云々」 と記されていました。
世界遺産 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
久賀島の集落⑩ の解説には
「久賀島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、移住先として選んだ4集落のうちの一つである。
18世紀後半以降、外海(そとめ)地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は五島藩が久賀島に開拓民を受け入れていることを知り、既存の集落と漁業や農業で共存関係を築きながらひそかに共同体を維持した。
牢屋の窄殉教地 の解説には
久賀島の潜伏キリシタンの指導者たちは密かに大浦天主堂の宣教師に接触し、帰島して公然と自らの信仰を表明するようになりました。
その結果、1868年に五島列島一円で弾圧が行われ(五島崩れ)狭い牢屋に多数の信徒が監禁され多くの死者が出ました。
牢屋の窄殉教地はキリスト教解禁直前に潜伏キリシタンへ弾圧が加えられた最後の場所です。
と記されていました。
「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」に記されていた内容が悲惨でした。
明治元年九月久賀島の信徒が捕えられ、激しい拷問を受け、十月には信徒の家をこの地に移し、牢として老若男女200余名が収容された。
この牢屋は六坪の家牢で、さながら人間の密集地獄であった。
食べ物は芋の小切れを朝夕一個ずつ、飢えと苦痛のため死者が続出した。
死者は踏みつぶされて腐敗するが五日間も放置され、蛆がわいて人体に這い上がり、放尿排泄物の蓄積による不潔さと臭気は言語に絶する惨状であった。
十三歳のドミニカたせは、蛆に下腹部を食い破られて死亡した。
十歳のマリアたきは熱病に冒されて髪の毛は落ち、それでも『パライゾ、パライゾ、わたしはパライゾ(天国)に行きます』といって息を引き取った。
その妹マリアさもは七歳の幼女であったが、『イエズス様の五つのおん傷に祈ります』と言い残して亡くなった。
かくして、在牢八ヶ月殉教者39名、信徒の頭九名はそのまま牢に残され、全員の出牢が許可されるまでには三ヶ年を要した。
明治政府は、絶対主義神道国家確立をはかり、祭政一致を唱え、その政策の犠牲となったのがカトリック信者である。
と記されていました。
牢屋の窄の地に、犠牲となった信者を弔う数多くの石碑が並んでいました。
言葉もありませんでした。
宗教とはいったい何なのでしょう。
ちなみに、私は無神論者ですが、
キリスト教もイスラム教も仏教も、人間の命以上の絶対的なものとして神を認識しているように思うのですが、この判断は正しいでしょうか。
そして人間は、神教も含め、宗教であれ道徳律であれ、理屈が立てば他者の命を奪うことを厭わない事実を、多くの歴史が証明しています。
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