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川は歴史を語る

2021-07-08 22:35:50 | 自転車で神田川

 石切橋を渡ってみました。

 

 

 左岸の橋の出入り口に、可動式のゲートが設けられていました。

 

 水嵩が増した時、このゲートは閉められるようです。


 右岸の目白通りは、下に江戸川分水路を通すときに、嵩上げされたのかもしれません。

 


 次の西江戸川橋から下流を眺めると、ピンクの小桜橋と青い凸版印刷本社ビルが見えていました。


 凸版印刷は明治33年の創業で、現在の売上高は1兆円を優に超えます。


 初めて西江戸川橋の名を耳にする人は、何で神田川に江戸川なのかと訝るかもしれませんが、明治後期の資料によると、この橋は、左岸の旧西江戸川町と右岸の旧牛込五軒町の間に架かる木橋だったそうです。

 

 

 小桜橋を過ぎて中ノ橋が近づく頃、護岸壁は更に高さを増してきました。


 江戸時代、この辺りには鯉が多く、1mを超える鯉もいたようです。


 鯉は将軍家が放流したので、禁漁区となっていましたが、味が抜群で、紫鯉の名で呼ばれていたそうです。

 


 中ノ橋に上がると、車専用で一方通行の新白鳥橋が見えました。


 この場所の右岸に、江戸川橋分水路一列分の吐口があり、その流水を引き受ける形で、左岸に新に水道橋分水路が設けられましたが、その吞口が新白鳥橋の下に見えています。


 水道橋分水路を整備する時、その上に都道が作られ、その道へ車がスムーズに入れる為の新白鳥橋です。

 

 

 下が新白鳥橋から白鳥橋を眺めた写真です。


 この場所で神田川は大きく曲がるので、江戸時代には「大曲(おおまがり)」と呼ばれていました。


 明治19年(1886)に、ここに「大曲橋」が架けられましたが、その後架け替えられ、この辺りにあった白鳥池に因んで「白鳥橋」の名が付けられました。

 

 
 そして白鳥橋から下流の眺めは・・・

 

  
 新隆慶橋は、文京区役所などの後楽園エリアから、大久保通りを抜け、新宿方面に至るルートを繋ぐ、片側3車線の大きな橋で、私も時々利用しますが、たしか去年頃、大久保通りに繋がる道の整備が終わり、かなり使い易くなりました。


 新隆慶橋のすぐ下流に隆慶橋が架かります。

 


 今の隆慶橋は昭和10年(1935)頃に架けられましたが、1644年頃の江戸時代初期の資料は、同じ場所に橋が描かれています。

 

 


  JR飯田橋駅前の交差点に架かる船河原橋に着きました。

 

 上流を振り返ると、神田川が高速道路の下で水を湛えていました。

 

 右岸に江戸川橋分水路の吐水口がみえています。


 江戸時代はここまでを江戸川、この下流を神田川と呼んでいました。


 この交差点で目白通りは外堀通りが交わりますが、外堀通りは、東京都内を同心円状に繋ぐ8本の環状道の一つで、環状2号に相当します。


 そして、目白通りは環2を超えて中心部に向かい、九段下交差点で内堀通に接続します。


 この内堀通りこそが環状一号なのです。

 

 

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神田川が江戸川であった頃

2021-07-08 15:02:32 | 自転車で神田川

 江戸川橋の下に江戸川橋分水路の吞口が見えます。


 神田川沿いに建造物が密集する為に、物理的に川幅を広げることができません。


 そこで治水対策として、目白通りの下に二列の分水路が作られたのです。

 


  江戸川公園を出るとき、「目白台・関口の歴史」が掲示されていました。


 その中に記された「大井玄洞の胸像」の説明に


 「明治43年(1910)の大洪水の後、大井玄洞は人々の治水の願いを叶えるために尽力しました。

 

 大正2年(1913)に護岸工事に着手し、大正8年(1919)に完成させています。

 

 人々は、この治水事業の功績を称え、昭和3年(1928)神田川沿いの江戸川公園に玄洞の銅像を建てました。」とあります。

 

 自転車で神田川沿いを走っている時は、殆ど説明文を読まずに、写真だけ撮って済ませていました。


 そして今初めて、この説明文を読み、先のブログに書いた「神田川の不思議な現象(区の一部境界が川とズレる)」は、この時の玄洞の治水事業による可能性が高いと考えました。


 何だか、もやもや気分が晴れて、スッキリしました。

 


 江戸川橋の上に突然、高速道路が現れました。


 首都高速5号池袋線です。


 この高速道は神田川に沿って進み、日本橋川の上に抜け、あの天下の日本橋の上で悪名高い景観を作りだします。

 


 江戸川橋から下流を眺めると、両岸に桜並木が続く風情は消え、運河のような姿の神田川が水を湛えていました。

 


 江戸川橋の下流の二つ目の橋が掃部橋(かもんはし)です。

 

 フリガナが無ければ、どう読むのか見当も付きませんが、江戸時代には、橋の傍に吉岡掃部という紺屋(染物屋)があったそうです。

 

 江戸時代はこの辺りで染物を晒すほど水が綺麗だったのです。


 ちなみに掃部は昔、宮中で掃除や儀式時の設営を行ったスタッフの役職名だそうです。

 

 


 掃部橋から二つ目の橋が石切橋です。


 この辺りは、左岸にビルが並び、右岸を高速道が覆う、代り映えのない景色が続きます。


 石切橋の袂に、橋の由来が記されていました。


 そして掲示板に、問い合わせ先は、新宿区 道とみどりの課とあります。


 実は、この石切橋の上流50mほどからの右岸は新宿区となり、その状態が飯田橋まで続きます。


 掲示板には、「この橋は江戸時代の初期、寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ、橋の周辺に石工が住んでいたと伝わります。

 

 明治時代の記録では、橋の長さ15m、幅5m強の木橋で、当時この付近で最も幅広の大きな橋で、当時は江戸川大橋と呼ばれていたそうです」

 

 と記されていました。


 江戸の初期から大きな橋が架かっていたとすれば、ここから先の流路に、時代による変化は生じなかったのでしょう。


 そして現在、石切橋の長さは20mですから、江戸川と呼ばれていた頃の、凡その状況を思い描くことができます。

 

 

 

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わが国最初の神田上水

2021-07-08 00:00:48 | 自転車で神田川

 細川庭園を出て神田川沿いを進むと、庭園の塀を過ぎた辺りに胸突坂の説明が示されていました。


 「坂下の西に水神社が(神田上水の守護審)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。」とあります。

 

 東京は川が台地を削った街ですから、山手は坂が多いのです。

 

 
 川に沿う遊歩道の脇にサツキが紅色の花を咲かせ、正面にホテル椿山荘が見えています。

 

 
 椿山荘の冠木門は閉じられていましたが(ご入館は正門玄関へお廻り下さいと記されています)、その横の関口芭蕉庵の紹介に、「俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画しこの地に住んだ。後に芭蕉を慕う人々が「龍隠庵」という家を建て、これが現在の芭蕉庵につながる。」

 等が記されていました。

 

 
 そして再び、里程標 「すみだがわ6.5㎞ みなもと18.1㎞」を目にしました。

 

 
 その先の大滝橋の袂に、神田上水 取水口大洗堰跡の説明が掲げられていました。


「徳川家康の江戸入りの直後、井の頭池からの流れを、関口に取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で取水された水は水戸殿に給水し、云々」とあります。

 

 
 大洗堰は、大滝橋の少し下流にあったようですが、橋の上から川を眺めても、今は堰の気配を感じさせるものはありません。


 また、1965年(昭和40年)に河川法が改正されて、井の頭公園の源流から、隅田川の合流地点までの流路が全て、神田川の名に統一される前は、この堰から下の流れは江戸川と呼ばれていました。


 その当時は、源流から堰までの流れと、堰で取水した後の流れを神田上水と呼んだのです。


 源流からこの堰までの流れを神田上水と呼べば、水を汚すことへの妨げとなった筈です。


 そして、そのことに思い至る時、大洗堰ができる前、井の頭公園からの上流部の流れに、別の名もあった可能性がありそうです。
   

 

 

 椿山荘が建つ関口台地の丘裾に、江戸川公園が細長い姿を見せ、左側に石の構造物が見えています。
 

 

 石の構造物は神田上水の取水口の石柱だそうです。


 「わが国最初の神田上水は、大洗堰で水位をあげ、上水路で水戸上屋敷(現後楽園)に入れた。そこから地下を樋で神田、日本橋方面に給水した。

 大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するための「角落」と呼ばれた板をはめ込む石柱が設けられた」の説明が付されていました。

 

 
 神田上水の一部が、江戸川公園内に復元保存されていました。

 

  
 細く続く江戸川公園の形は、明治時代に廃止した神田上水跡地を、大正8年(1919)に公園として整備したことに因ります。

 

 
 江戸川公園の中から神田川を覗くと、川の中に鯉の群れを認めました。

 

 江戸時代のこの付近の流れは、名品の鯉が泳ぐことで知られていました。

 

 
 そしてその付近に、餌となる小魚の存在を示すコサギの姿がありました。

 


 

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