緑の道を進むと、川の柵に絡まる蔓が実を付けていました。
ミツバアケビの実です。
しかし、こんなところでミツバアケビを見るとは思いませんでした。
小さな広場でイチジクとモモが緑の実を付けています。
そう言えば、今の中野駅の南側一帯に八代将軍吉宗が植えたモモが、広大な桃園を作り、春になるとモモの花が咲き広がり、江戸の花見の名所となっていたそうです。
中野駅前に、山梨笛吹市のようなモモの花の景色が広がっていたようです。
「神田川はなひろば」と名付けられたスペースがありました。
初夏の陽射しの中でハナミズキが枝を広げ、ベンチで本を広げる人の姿を見かけました。
側道と川岸の柵との間にヒュウガミズキやハナツクバネウツギなどの植え込みが続きます。
側道に人と自転車以外は入れないよう、さりげなくゲートが施されていました。
ほどなく相生橋の袂に出ました。
昭和の末まで、この橋の付近には幾つかの水車が回っていたそうです。
相生橋から通じる道の先の、右岸の新宿区の背の高い建物が気になっていたので、自転車を走らせ、60階建ての高層マンションであることを確認してきました。
そのマンション脇の緑地の中に旧けやき橋通り商店街のモニュメントが設置されていました。
【・・・、昭和の面影を色濃く残していたけやき橋商店街がここにあっ
た。
・・・新宿周辺が次々と再開発されるなか、最後迄残っていた西新
宿のけやき橋商店会もついに再開発の波に飲み込まれる。
2017年に60階建てタワーマンションが竣工された記念として設立す
る。 平成28年3月吉日】
と記されていました。
昭和の頃は、八百屋、魚屋、大衆食堂などが並ぶ商店街で買い物をするのが当たり前でした。そんな光景も今は昔となってしまいました。
相生橋の次の豊水橋(とよみずはし)から見た神田川は川幅一面に水を湛えていました。
水の流れも緩やかに見えます。
川の傾斜に合わせ、神田川は表情を変えるようです。
川底と両岸をコンクリートで固められた川でも、緩やかな流れは淵を作り、急流は瀬を見せるのでしょう。
豊水橋を左岸に渡り、側道を進んでゆくと、
300m弱で淀橋に出ました。
淀橋の右岸に「淀橋の由来」が掲げられていました。
【淀橋の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名付けたと云われます。
古くからあるこの橋は、昔は『姿みずの橋』とか『いとま乞いの橋』
といわれました。
この辺りで中野長者と云われていた、鈴木九朗が、自分の財産を地中
に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投
げ込みました。
九朗と橋を渡るときには見えていた人が、帰るときには姿が見えなか
ったことからその名が付いたと云われます。
江戸時代の初め、鷹狩りのためにこの地を訪れた将軍家光はこの話を
聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改
めるよう」に命じ、それ以降、その名が定まったそうです。】
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