すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

場を生きる

2019-03-17 | サンガ
「私」という個人はいなかった

ちょっと静かに止まってみれば感じれるよ

言葉を用いずに
ただ内側を観じてみれば・・・

「これ」をなんと説明できようか


定点観測のように

「これ」に気付いているその気付きを持ち歩こう



気付いているとは
醒めているということ


不断の気付きを生きるって
愛を生きることとくっついてるんだな



これを指針に進むと決めたなら
例外はありえないのだ 


愛を生きる、けど
自我の要望もちょっとくらいは聞いてあげて、、なんて
夢の中にいて「目覚めていよう」と言ってるようなものなんだ



「ちょっとくらい」と耳を傾けようものなら
あっという間に思考の世界(=ストーリー)に引き戻される
ほんとあっという間に(*_*)



ここを進むと決めたなら
例外なんて認めない


愛と自我は反対語
気付きと自我は反対語




自我の言い分も聞こえてくるときもある
たまに騒いでるのは自覚してる

「ああ また言いよる」と
聞こえつつも立ち止まることなく

壁を踏み倒して進む



感情が湧けば
感情を感じ
通り過ぎていくのを待つ







ストーリーに追いつかれないくらいに速く
振り切って進む

ストーリーに取り込まれないくらいに油断なく
気付き続ける

と同時にリラックスしている


気付きとリラックスは共にあるものだから




これやってると内側がシンプルになる



単純明快矛盾ナシ

あっけらかんと笑い飛ばす




「私」という思い込みが落っこちたら
場が私になる

場を生きる
場が必要としていることを生きる


そうすると何が起きるかっていうと・・・・


元気が湧いてくる

これぞフリーエネルギーだよ



「愛と自由は肩を並べて行く

そのふたつは同じ鳥の双翼だ

自分の愛が自分の自由に逆行するのが見えるようだったら

そのときには、あなたは

愛の名のもとに何か別なことをやっているのだ」 

                    ~ Osho







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