3月11日、この日は私にとっていつもとは違っていた。
今度小学校に入学する長男をお世話してくださる地区の方達との顔合わせというか会合があった。
これから6年間お世話になるのだからと、仕事を3時間休暇をもらっていたのだ。
3時間休みをとると退社時間は午後の2時半になる。
保育園は3時半には終わるので、
ガス欠寸前の車に燃料を入れて約20キロ先の保育園に向かうには充分時間があった。
2時半過ぎにタイムカードを押して、同僚や上司に挨拶をして職場を出た。
はじめにいつも通っているガソリンスタンドに燃料を入れに行こうと
高台にある住宅団地の坂を登った。
ウチの娘も障害児だが、この道に面したところにも支援学校がある。
その横を通った時だった。
途端にハンドルは取られ、一瞬タイヤがバーストしたのだと思った。
しかし、辺りを見ると電柱も前の車も揺れている。
地震だと察知して、ハザードランプを点けて路肩に寄せた。
結構ひどい揺れだったが、すぐに収まると思っていた。
しかし、揺れは横揺れから始まり縦揺れ、そしてまた横揺れ縦揺れを繰り返しながら、
体感的には4分以上は続いたように思えた。
33年前に体験した宮城県沖地震よりも長く強く感じられ、
このままでは日本が壊れてしまうとさえ感じた。
余震は続いていたが、強い揺れが収まると冷静に戻った。
「職場で車をリフトにあげて作業していた!」
その事を思い出し、急いでまた職場まで戻った。
車はリフトに上がったままで落ちはしなかったが、停電でリフトが下げられない状態でいた。
まだ強い余震が続いていたので、とにかく最悪車は落ちても仕方が無いが、
怪我や死亡事故が起こらないよう、近づかないよう指示してあとは副工場長に任せた。
それからスタンドには向かったが、停電で営業は停止していた。
それどころか、道路の普段邪魔臭く思っている信号が一切点いていない。
道路は交差点ごとに普段の秩序は失われて混雑をしていた。
かろうじて主要道路同士がぶつかる交差点だけは点いていて、
この時ほど信号を見てホッとしたことは今まで無かっただろう。
1時間半程で息子の保育園に辿り着いた。
職場と保育園が街中だったらと思うと何時間もかかったかもしれないと思いゾッとした。
保育園に着くと園児は全て園庭の方に避難していた。
御座を敷いてもらって、その上にお昼寝の布団を被ってみんな居た。
中には恐怖で泣いている子、強がって泣かなかった事を自慢する子が居た。
息子は強がっているグループで、泣かなかったことを自慢した。
相変わらず強い余震は続いていたが、道路がひどく損傷していたりはしてなく、
そこから30分ほどで家に辿り着いた。
家族は全員無事。家屋も無事。ただ家の中が散乱しているだけだった。
家に着いて、まずは水が出ないこと、電気が来ていないことを確認した。
ガスはプロパンなので大丈夫。暖房も薪ストーブなので大丈夫だった。
娘の人工呼吸器はとりあえず非常用バッテリーが作動していたが、
バッテリーが切れたら止まるので、翌日職場からバッテリーを借りてくることにした。
水は食器洗い用に近くの沢水を、トイレを流すための水は浴槽の水を、
そして飲料水や料理用の水は雪を溶かしたり、
冷凍庫の氷を薪ストーブで煮沸して使うことにした。
冷蔵庫が動かないので食材は悪くなりやすい物から食して、
生肉は外の雪の中に埋めて保存した。
夜になって昔使っていたガスボンベ式のキャンプ用ランタンを出して過ごした。
これもガスが残り少なく、どのくらい持つものやら・・・
とにかく早く寝ることにした。
余震はその後も続いて、結局熟睡できることはなかった。