本日は、草加文化会館でハートフルコンサート。今回、私は歌劇カルメンに登場。
約4ヶ月ほどの練習を重ね、今日本番を迎える。4部構成。なにがなんだかわからなかった。音もとれない。リズムも。歌詞を覚えられない。・・しかしなんとか追いついた感じ。少々音はずれている部分があるが、堂々とうたうしかない。
オペラ塾の魅力はなんと言っても、オーケストラをバックに歌えることと、プロ歌手とともにできることである。自分 . . . 本文を読む
わたしのフトンでねるラブ。本当は人間といっしょに寝るなんて、犬の習性からいってダメというのは、本で読んだ。でもいつの間にかいっしょ。しかしため息をしたりいびきをかいたり、仰向けで無防備にねている姿はなんともいえずかわいらしい。そしてオシッコをしたくなると、わたしの顔をなめて外に出たいと催促。朝おきるときはかならずストレッチ。行動開始のたびにストレッチする姿は学ばされる。本能に組み込まれているんだ。 . . . 本文を読む
以前他人からイヤナ思いをなんどかさせられたことがある。「なぜ?」とそのことをだれかに話すと「それはしっとよ!」とかえってきた。「しっと?」。わたしは、信じられなかった。嫉妬によっていじわるをされることがあるのかと。それまでわたしは、嫉妬という感情をもったことがなかったからだ。しかし、いま「このことが嫉妬なのか?」とおもいあたることが、自分におきている。いっしょに趣味の世界でがんばっている彼女に対し . . . 本文を読む
草加市の母親大会。その分科会で従軍慰安婦問題に14年間取り組んできた信川さんが、講師となって話された。94年の5月、韓国の日本軍「慰安婦」被害者のハルモニ(おばあさん)15人が、政府に訴えようと來日した。右も左もわからず、ただ政府の「軍の関与はなかった。」という態度に、自ら名乗りを上げ、謝罪と賠償を要求しにきた。しかし門前払い。総理府の門に施錠をかけ、警官が立ちはだかり一歩も入れない。誠意のかけら . . . 本文を読む
ある大手百貨店のお客様苦情相談室長だった方の書いた本。最初の本は「苦情学」=その筋のひとたちのための本。今回は、一般のひとたちにおいても、人間対応で苦しんでいるひとがいるということで、私など一般人でも、参考になるという内容になっている。だれもが苦情を言う立場、言われる立場にあるということで「となりのクレーマー」。苦情学は人間学。人間をどう見るか。その点で私は疎い。「みんなオンナジ!」なんて、のんき . . . 本文を読む
お盆休みは、山梨県の道志村で。一泊は、私の姉妹とともに。もう一泊は、娘の夫のご両親と。道志川でます釣り大会が行われるが、その翌日はその残りのますがつれるはずと夫がやったところ、4匹つることができた。凍らせてあるやまめとともに、燻製にして食べた。あゆも、春つくっておいた蕗味噌をおなかに入れて塩焼きに。「おいしい。おいしい。」と絶賛。さらに気をよくして、あれこれと料理する。道志村でのオススメは、道の駅 . . . 本文を読む
いやはや、ひざが痛いということで、あれこれサプリメントを飲んだところ、今度は手の指がふくれあがる始末。原因はわからないが、とりあえず、サプリメントを中止した。あれから1ヶ月近くたち、なんとなく沈静化しているように思えるが、ひざがイタイ。手がイタイ。そんなことから腰がイタイ。あれこれ痛みがともなうことが多くなった。リュウマチで苦しんできた姉や友人のことを思い出す。よく「イタイ。イタイ。」と泣かれた事 . . . 本文を読む
甲子園高校野球大会。事務所の当番をしながら、野球のテレビ観戦。
常総学院対京都外大西。桐光学園対日南学園の2試合をじっくり見ることが出来た。ピッチャーもいい。守りもいい。かつては高校野球といえば、エラーで得点を許すなんていう場面もあったが、ここにいたっては、そうした未熟さはまったく感じられない。きびきびとした動き。点を許せば、すぐ取り返す。気落ちということもまったくない。見ているうちに「どっちも勝 . . . 本文を読む
8月4日、暑い中、娘の結婚式が行われた。総勢119名。横浜の某所。
わたしも留袖を張り込み意気揚々。夫もバージンロードを娘とともに歩くと言う事で緊張気味。娘と彼とが、すべて企画したということだが、配慮の行き届いたものとなった。座席にはひとりひとりに感謝のメッセージがあった。披露宴冒頭の新郎のあいさつは「本日はのんでたべて楽しんでください。」その言葉でみんながなごむ。お色直しのための退場も、両母親が . . . 本文を読む
「その時歴史は動いた」(NHK)で、沖縄返還のその時をやった。
太平洋戦争で大きな犠牲をはらった沖縄。戦後も米軍に占領され、住民に自由はない。1972年5月15日に本土に返還された。その時までの住民の苦難、そしてたたかいが放映された。カメさんことカメジロウさんが、米軍におどされ、転向を迫られ、牢獄につながれ・・意志を曲げずに、県民を励まし続けた。那覇市長となり、そして国会議員となり、共産党の幹部と . . . 本文を読む