富士門流(日蓮法華)の皆さんやFBIさんに連絡。
犀角独歩さんのブログや富士門流信徒BBSに既に記載があったらゴメンなさい。
密教修行を知りたくて探したけど知りたかったテーマはなかったです。>FBIさん。
1.曼荼羅と烏と玉兎
はじめての「大日経」入門 (セルバ仏教ブックス) [単行本]
越智 淳仁 (著)
この初心者向きの本を立ち読みすると
>3 大悲胎蔵生曼荼羅の三部と9曜(曼荼羅の中尊をなぜ法身と呼ぶのか三密行と3種曼荼羅 ほか)
中尊、つまり大日如来を法身と捉える解釈がある。
つまり、初心者本でこの解説があるのだから探せばいくらでも文献や研究所に同等のことが出てくる様な気がします。
中尊、つまり真ん中に法を表現する点についても日蓮曼荼羅に特別なオリジナリティがあると思えません。私は、ですが。
もう一つ大事な点、この本のたしかP72から3ページに渡って真言曼荼羅と金烏(色はたしか黒)玉兎の記載あり。
はじめての「大日経」入門 書目明細
>曼荼羅と三つ足カラスと玉兎
に記載あり。カラスと玉兎について年代は敦煌壁画まで遡れる。
パラパラと見た限りではこの書籍に日蓮への言及はなし。
FBIさん必読かと。あとよろしく。FBIさん(笑)。
私はもう仏教者ではないので、1円なら買ってもいいんだけど。。。。
2.梵字をまとう不動明王。
実修 真言宗の密教と修行 (わたしの家の宗教) [単行本]
大森 義成 (著)
パラパラめくると、この書籍にはお遍路さんのコースがあり
体が梵字で出来ている本尊(お札)がある。
詳細は「独鈷山 青龍寺 不動明王」でgoogle画像検索か
第三十六番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺
例によって例のごとく、本尊の年代がはっきりしない。
ほとんどお伽話風味なので。
ポイントは四国八十八箇所 お遍路のうち、不動明王の本尊が2つ(たしか2つ)あるうち、一つが梵字で、もう一つが密教曼荼羅のよくある絵画風。
日蓮曼荼羅では愛染と不動のみが梵字だが、不動がなぜ梵字で書かれるのか?
という理由がこの辺りからさぐれそう。
梵字が多少崩れた書き方をしているのもポイントか?
もう一つ。愛染は密教の中で格下の存在。これは密教の書籍を読むとわかります。
私の印象でしか無いが、少なくとも
【大日≧不動>>>>>>愛染】
こんな感じのはず。
格下の愛染が梵字となって描かれる理由が不明。
→日蓮が愛染不動のみしか相承を受けなかった?
→私度僧ならぬ、私度相承の為か?
空海の流れをくむ高野山の正統派の曼荼羅の相承(儀軌など)を日蓮が受けたとは思えない。
最澄の流れをくむ比叡山の正統っぽい?密教の相承(儀軌など)を日蓮が受けたとは思えない。
密教では格下の愛染が曼荼羅に必要な理由が不明。
→?
不動明王だけが梵字の体で出来ている理由がわかると、愛染の理由もわかるのかもしれません。もちろん逆もあり。
FBIさんの日記の一部、理趣経の説明あたり?を公開したほうがいいような気がします。
というわけで、日蓮さんは真言密教僧だったけど、真言宗や大日経などの問題点、疑問点に気がついて儀礼や作法、曼荼羅など表現方法は真言風だけど、法華経の内容が大事だと気がついた。
儀礼や作法、儀軌などを表現方法は曼荼羅(真言風)として経文は法華経を採用した?
●笑えたので、おまけ。
弘法大師空海の金言をひらく (セルバ仏教ブックス) [単行本]
静 慈圓 (著)
空海さんの言葉は学会指導そっくりです。
嘘だと思うなら読んでごらん。>バリさん達。
犀角独歩さんのブログや富士門流信徒BBSに既に記載があったらゴメンなさい。
密教修行を知りたくて探したけど知りたかったテーマはなかったです。>FBIさん。
1.曼荼羅と烏と玉兎
はじめての「大日経」入門 (セルバ仏教ブックス) [単行本]
越智 淳仁 (著)
この初心者向きの本を立ち読みすると
>3 大悲胎蔵生曼荼羅の三部と9曜(曼荼羅の中尊をなぜ法身と呼ぶのか三密行と3種曼荼羅 ほか)
中尊、つまり大日如来を法身と捉える解釈がある。
つまり、初心者本でこの解説があるのだから探せばいくらでも文献や研究所に同等のことが出てくる様な気がします。
中尊、つまり真ん中に法を表現する点についても日蓮曼荼羅に特別なオリジナリティがあると思えません。私は、ですが。
もう一つ大事な点、この本のたしかP72から3ページに渡って真言曼荼羅と金烏(色はたしか黒)玉兎の記載あり。
はじめての「大日経」入門 書目明細
>曼荼羅と三つ足カラスと玉兎
に記載あり。カラスと玉兎について年代は敦煌壁画まで遡れる。
パラパラと見た限りではこの書籍に日蓮への言及はなし。
FBIさん必読かと。あとよろしく。FBIさん(笑)。
私はもう仏教者ではないので、1円なら買ってもいいんだけど。。。。
2.梵字をまとう不動明王。
実修 真言宗の密教と修行 (わたしの家の宗教) [単行本]
大森 義成 (著)
パラパラめくると、この書籍にはお遍路さんのコースがあり
体が梵字で出来ている本尊(お札)がある。
詳細は「独鈷山 青龍寺 不動明王」でgoogle画像検索か
第三十六番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺
例によって例のごとく、本尊の年代がはっきりしない。
ほとんどお伽話風味なので。
ポイントは四国八十八箇所 お遍路のうち、不動明王の本尊が2つ(たしか2つ)あるうち、一つが梵字で、もう一つが密教曼荼羅のよくある絵画風。
日蓮曼荼羅では愛染と不動のみが梵字だが、不動がなぜ梵字で書かれるのか?
という理由がこの辺りからさぐれそう。
梵字が多少崩れた書き方をしているのもポイントか?
もう一つ。愛染は密教の中で格下の存在。これは密教の書籍を読むとわかります。
私の印象でしか無いが、少なくとも
【大日≧不動>>>>>>愛染】
こんな感じのはず。
格下の愛染が梵字となって描かれる理由が不明。
→日蓮が愛染不動のみしか相承を受けなかった?
→私度僧ならぬ、私度相承の為か?
空海の流れをくむ高野山の正統派の曼荼羅の相承(儀軌など)を日蓮が受けたとは思えない。
最澄の流れをくむ比叡山の正統っぽい?密教の相承(儀軌など)を日蓮が受けたとは思えない。
密教では格下の愛染が曼荼羅に必要な理由が不明。
→?
不動明王だけが梵字の体で出来ている理由がわかると、愛染の理由もわかるのかもしれません。もちろん逆もあり。
FBIさんの日記の一部、理趣経の説明あたり?を公開したほうがいいような気がします。
というわけで、日蓮さんは真言密教僧だったけど、真言宗や大日経などの問題点、疑問点に気がついて儀礼や作法、曼荼羅など表現方法は真言風だけど、法華経の内容が大事だと気がついた。
儀礼や作法、儀軌などを表現方法は曼荼羅(真言風)として経文は法華経を採用した?
●笑えたので、おまけ。
弘法大師空海の金言をひらく (セルバ仏教ブックス) [単行本]
静 慈圓 (著)
空海さんの言葉は学会指導そっくりです。
嘘だと思うなら読んでごらん。>バリさん達。
どうか、これからもよろしくお願い致しますね。
m(_._)m (^^)/
いろいろと忙しくて、最近は、ここを見ていませんでした。
わたしは、米山さんに対して、説明責任のようなものを感じていましたので、できるだけここに参加して、自分の考えについて説明してきたわけですが、それなりに、米山さんに対する説明責任は果たすことができたのではないかと思っています。
もしまだ何か疑問などがありましたら、拙ブログにでもコメントして下さればいつでも応答いたします。
こんばんは。
>A:呪術というのは、そもそも、仏教の開祖ゴータマがはっきりと否定したものであるから、仏教徒としてはむしろ否定すべきものである。仏教の呪術化というのは、仏教の非仏教化である。
>B:密教とは仏教の呪術化(仏教の非仏教化)の完成である。
>C:仏教徒であるわたしが、密教の呪術を「良いところ、肯定的なところ」として述べない(=「肯定しない」)ことに、いったいどんな問題があるのか不明である。
Aについては私も賛成です。
Bについてはどうでしょうか?
松長 有慶(まつなが ゆうけい、1929年(昭和4年)7月21日 - )は日本の宗教家。高野山真言宗の僧侶。僧階・大僧正。高野山・補陀落院住職。高野山大学元教授、名誉教授、同大学学長。高野山真言宗総本山金剛峯寺・第412世座主、高野山真言宗管長。
この方、長生きされていますね。素晴らしい。まだお元気なんですかね?
話をもとに戻しますが、
仏教の呪術化(仏教の非仏教化)されたものが100%密教、そう断定していいのかは疑問です。
Libraさんは松長有慶さんの本など密教を勉強してますが、全体としてLibraさんのHPやブログを読むと日蓮肯定ありきで、密教の問題点を取り上げています。ま、当然といえば当然、自然といえば自然です。
---------------------------------------------------------
神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
http://fallibilism.web.fc2.com/046.html
松長有慶『密教』(岩波新書・新赤版179)、岩波書店、1991年、pp. 95-96
>ヨーガの観法は、みずからが修することが必要であるが、そのためには、宗教体験を積んだ師匠から、その方法が伝授されねばならない。このような意味から、神秘主義的な傾向をもつ宗教は、宗教的な生活だけではなく、日常生活においても、師に対して絶対的な服従を求めるのである。
---------------------------------------------------------
但し、少なくとも密教のお坊さん(第412世座主なんですから)は承知の上で書いているのではないでしょうか?
あるいは、問題点だと考えてないのかもしれません。私は読んでいませんが、
それくらい真面目に取り組み、厳しい修行なんですよ。厳しく生きてますよ、って意味かもしれません。
なんにせよ、我々は密教の書籍を読む程度でど素人ですから、日蓮肯定と1セットで密教問題点の指摘は、ある程度慎重にすべきと思います。
それと、私個人の意見でしかありませんが、犀角独歩さんのご研究を読むと、この流れからは日蓮さんが密教の影響を大きくうけていたことは避けられない事実だと思います。
Cについては
>密教の呪術を「良いところ、肯定的なところ」として述べない
呪術であればAのとおり問題でしょう。でもそう言い切るのは危険かと。
私の意見では 呪術 というキーワードを外し、
密教の「良いところ、肯定的なところ」という脈絡でお話したかったのです。
でも、ちょうどLibraさんが書いてくださったとおりですが、
「鎌倉時代に限れば」
>そして、日蓮はそれを肯定しています。日蓮は、呪術化された仏教を完全に否定しているわけではありません。
>米山さんのおっしゃるような意味での、当時としての宗教性は、もちろん、日蓮にも認められるでしょう。
>日蓮の時代においては、「陀羅尼品」的な「まほり」も、米山さんのおっしゃるような意味での宗教性を持ちえていたという面はたしかにあると思います。
僧侶が他者の願望達成や幸せを祈る。
このポイントに限ればですが、書いて頂いたとおりかと。
鎌倉時代の密教も鎌倉時代の日蓮も現代人の我々から見れば、「僧侶が他者の願いや幸せを祈る。」という肯定点、共通点が見つかりますね。
ここでは原始仏教から続く正統性の%をあまり問題視しないことで見えてくるポイントだと思います。
あまり、です。ちょっとは時々必要かも。この辺が宗教のややこしいところ。(^^ゞ
というわけで、別記事コメントに書いたとおり、
>数字は適当ですが、独歩さんの答えが1でも2でも3でも密教の影響度にかかわらず、Libraさんのご意見は100%に近い形で信仰と>して成り立つと思います。
>最近続いている、これらの議論では「曼荼羅の真言密教の影響度%」と「現代人がする信仰のあり方」は分けて考えたほうがいいと思います。
密教の皆さんには悪いですが(仮に空海の教えを基準として)空海の教えそのままの密教が現代に残っている、、、とはとても思えません。
仮に空海さんの教え100%でも90%でも残っていても祈って何でも叶うとは到底思えません。
原始仏教とは異なっていて、新たに宗教的な祈りの発明があったとしても、祈って何でも叶うとは到底思えません。
原始仏教と矛盾がありますが、宗教者の問題言動がなければ、日本人的な許容で見つめたいですね。
積極的な社会貢献のある言動を求めたいところです。全然期待していませんけど。
(私は謝罪のない池田氏や創価を許す気はありませんが。)
以前記した天台と高野山の交流ですが、なんと松長有慶さん!?
お互いに大切にして欲しいですし、仲良くして欲しいですね。
天台座主が高野山参拝 これまで記録なし:中外日報社
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0905/news090523/news090523_02.html
>そのような宗教性は、呪詛とか調伏というような非宗教性と表裏一体であるというのもまた事実です。
>宗教性の面だけを見て、「呪術の肯定は、当時としては問題がなかった」と単純に評価してしまってよいのかという問題はあると思います。
同感です。
呪詛とか調伏とかは問題外ですが、これからも加持祈祷(祈って叶えたい)はなくならいと思います。
学校の入学試験とか就職試験とか安産祈願とかお葬式の成仏祈願とか、色々ありますし。
私個人は宗教はなくなったほうがいいと思いますが、それが無理なら宗教法人法の廃止をして営利団体として存続するのが一番かと思います。今のままでは弊害や危険が多きすぎると私個人は考えます。”お金をいただくお客さん”という意味合いが強くなり、必然的にお坊さんは一般人を大切にするでしょう。お坊さん自身の欲で。(笑)
米山さんのこれまでのコメントをもう一度読み直してみましたら、米山さんがおっしゃるとおり、わたしの「2011-02-21 20:28:25コメント」は、米山さんのコメント「2011-02-20 22:19:17」とかみ合わないところがあるようです。
しかし、少しはかみ合っていると思います。少なくとも、「全然…かみ合っていない」ということはないように思います。
まずは、かみ合っているという面を指摘し、その後で、かみ合っていない面を反省したいと思います。
1.かみ合っている側面
わたしが「2011-02-21 20:28:25」で「肯定しない」とか「問題点」とか言っているのは、米山さんの以下のご発言によります。
───────────────
Libraさんのコメントで、2011-02-14 21:48:24、2011-02-17 19:55:44、
1,密教の問題点を取り上げ、良いところ、肯定的なところが書かれていない。
2.1の問題点に断定的。等々
これらについては私も問題を感じています。
(米山、2011-02-19 13:35:01)
───────────────
ここで、米山さんは、「Libra の発言には2つの問題点があると感じている」と言われているようにわたしには読めます。
少なくとも、わたしの「2011-02-14 21:48:24」および「2011-02-17 19:55:44」に「密教の…良いところ、肯定的なところが書かれていない」のは問題であるというのが米山さんのご認識に含まれるということでしょう。
わたしにはそのように読めたので、米山さんに以下のような質問をしたわけです。
───────────────
米山さんは、密教には「良いところ、肯定的なところ」があるというのを当然の前提にされているようですが、密教の肯定的なところとは具体的にどういうところなのでしょうか?
(Libra、2011-02-20 20:14:16)
───────────────
で、その質問を受けて、米山さんが「良いところ、肯定的なところ」と評価される密教の内容を具体的に述べられたのが「2011-02-20 22:19:17」です。
で、そこには、密教の祈祷が述べられていたのです。
密教の祈祷は明らかに呪術です。
で、それを受けて、わたしは、「2011-02-21 20:28:25」を書いたわけです。
「2011-02-21 20:28:25」でのわたしの主張は、噛み砕いて言えば、以下の3つです。
A:呪術というのは、そもそも、仏教の開祖ゴータマがはっきりと否定したものであるから、仏教徒としてはむしろ否定すべきものである。仏教の呪術化というのは、仏教の非仏教化である。
B:密教とは仏教の呪術化(仏教の非仏教化)の完成である。
C:仏教徒であるわたしが、密教の呪術を「良いところ、肯定的なところ」として述べない(=「肯定しない」)ことに、いったいどんな問題があるのか不明である。
2.かみ合っていない側面
少なくとも、前項(1.)に書いた流れで言えば、わたしの「2011-02-21 20:28:25コメント」は、米山さんのコメント「2011-02-20 22:19:17」とかみ合っていると思いますが、かみ合っていない側面もどうやらあるようです。
一つは、米山さんのコメント「2011-02-20 22:19:17」では、密教の呪術を「当時の人達にとって…肯定的だった」とされている点です。
この点については、わたしの応答「2011-02-21 20:28:25」の中の「実際、わたしは、日蓮の罰論を肯定しないわけですが」という文章は、かみ合っていないというか、説明不足だったと思います。
少なくとも、拙文「日蓮の罰論の問題点」の URL くらいは書いておくべきだったと思います。
「2011-02-21 20:28:25」に引用しておいた松本史朗の文章から明らかなように、『法華経』には呪術を肯定する「陀羅尼品」があります。
そして、日蓮はそれを肯定しています。日蓮は、呪術化された仏教を完全に否定しているわけではありません。
米山さんのおっしゃるような意味での、当時としての宗教性は、もちろん、日蓮にも認められるでしょう。
日蓮の時代においては、「陀羅尼品」的な「まほり」も、米山さんのおっしゃるような意味での宗教性を持ちえていたという面はたしかにあると思います。
しかしながら、そのような宗教性は、呪詛とか調伏というような非宗教性と表裏一体であるというのもまた事実です。
なので、宗教性の面だけを見て、「呪術の肯定は、当時としては問題がなかった」と単純に評価してしまってよいのかという問題はあると思います。
そのような評価は、呪詛とか調伏というような非宗教性をも含めて、「当時としては問題がなかった」と評価してしまうことになってしまうのではないかという問題です。
>そのわたしが密教の呪術を肯定しないとして、そこにどんな問題点があるとおっしゃるのでしょうか?
「肯定しない」とか「問題点」とか
Libraさんの2011-02-21 20:28:25コメントは全然私の話とかみ合っていません。
無理して出来ないことをしてはいろいろな意味で危険です。
この件はもうやめましょう。
このまま進めても自分にもLibraさんにも責任が取れません。
先月の私の提案自体が無理なものでした。
わたしは、松本史朗の以下のような考えに賛成です。
───────────────
釈尊の教えである縁起説を純粋に知的なものと考える筆者より見れば、“釈尊が呪術を否定した”という伝承は、仏教の知性主義的性格を語るものとして、本質的な意義をもっている。しかるに大乗仏教は、上述したように、呪文・呪術を認め、“雑密”と呼ばれる種々の陀羅尼経典を制作した。また、ヒンドゥー教の様々の神々をも大乗経典の中に自由に登場させるようになった。それ故、いかなる大乗経典といえども、ヒンドゥー教の呪術的世界から切り離されてはいない。例を『法華経』にとるならば、羅什によって漢訳された『妙法蓮華経』の第二六品は、多くの呪文を含む「陀羅尼品」であり、第二五品は、観音菩薩に対する信仰を説く「観世音菩薩普門品」である。観音の名を念ずるならば、諸の現実的な苦から即時に解脱すると説く観音信仰が、呪術的なものであることは明らかであろう。
かくして、仏教の呪術化、ヒンドゥー教化が進められ、その最後に行き着いた先が、七世紀における『大日経』『金剛頂経』の編纂によって端的に示される純粋な密教、所謂“純密”の成立だったのである。
(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、http://fallibilism.web.fc2.com/001.html)
───────────────
実際、わたしは、日蓮の罰論を肯定しないわけですが、そのわたしが密教の呪術を肯定しないとして、そこにどんな問題点があるとおっしゃるのでしょうか?
ちゃんとわたしにわかるように説明して下さらないと、問題点を解消すべく努力しようにも、やりようがありません。
それを読み飛ばして、あっちの記事にコメントを書いてしまいました。
もうすぐ家をでないといけないので、また夜にでも改めてコメントします。
で検索するとお産の様子がネットでも読めます。
結論ありき、ではなくて、どの宗教にも宗教性は見つけられるでしょう。という推測と期待です。厳密には、ですが。
具体的には、例えば、真鍋俊照さんの書籍ですが、「曼荼羅に描かれている 諸尊や如来の笑顔」これは見た人を温かい気持ちにさせてくれる宗教性だと思います。
平安時代の文献を読むとマンダラでも祈祷して縋りたい人には意味があったようです。
曼荼羅の世界 真鍋俊照
P14
ここに平家物語を引用して密教の祈祷の様子が書かれています。曼荼羅があった、とは明確に書かれていませんが。
現代でもお産は女性や家族にとってちょっとした(こんな言い方マズイかな?)不安なことだと思います。
こうした儀式を行うことで安心材料としたのでしょうね。
安心立命につながるとおもいます。
現代ではこれらを本気にして病院で密教祈祷をする人はいませんが、当時としては問題ないか、当然の風習だったみたいですね。
当時の人達にとって密教が肯定的だったわけです。
現代ではどうなんでしょうね。。。。
どの宗派も本質的なポイントは失われている気がしてならないのは私だけでしょうか?
空海さんの悟りや修行が現代までそのまま残っているとも思えませんし。。。
日蓮正宗、創価はダメダメですし。
現代の宗教を調べつくしたわけでもないので断言できませんが、私はあまり期待していません。出来ません。
でも現代の宗教者でもいい人はいますし、お互いに問題ない形で認め合うことが、いいのかもしれませんね。
難しいご質問なので、これが回答できるイッパイイッパイのコメントです。
すでに書かれているのなら、米山さんの文章のどこにそれが書かれているのかを具体的に教えて下さい。読んでみますので。
コメント有難う御座います。
今後とも宜しくお願いいたしますネ。
(^^)/ニコニコ。
独歩さんのブログに返事を投稿しようとしたらエラーが出て投稿できなかったので、仕方がないので、「日蓮法華 掲示板」の「雑談室」スレッドにお礼のコメントを残しておきました。
http://bbs.2ch.co.jp/user/nichirenhokke/test/read.php/bbs1/1261727374/64
2.「曼荼羅」は音写
「曼荼羅」は、サンスクリット mandala の音写ですから、あてる字によって意味が変わるものではありません。
『大日経』でも、一箇所、「曼荼羅」の方が使われています(31c)。
富士門流信徒(日蓮法華)、独歩さんのブログ、Libraさんにしても無償で時間やお金をかけているでしょう。
◯
富士門流信徒(日蓮法華)、独歩さんのブログ、Libraさんにしてもネットの記事に貴重な時間を割き、書籍などお金をかけているでしょう。これらを読むのに有償ではなく無償なわけです。
犀角独歩さん
>ここの管理人であるそううそさんも、投稿者が、他の投稿者を無知呼ばわりしても、放置するというのは、どんなものでしょうか。
私自身のことですが、ちょうど今、真鍋俊照さんの本を読んでいて、新しい発見があります。
つまり、ついさっきまで無知でした。(^o^)/
先日、FBIさんにもTELで話していると「鎌倉時代の某宗教の記録があった、」と聞いていますので、新しい発見というよりひとつの事実において無知だった、ともいえるわけです。
独歩さんのブログも次々に研究成果が書かれていますので、読んでいる人は自分の無知を感じるでしょう。
日蓮墨筆自体を目に出来ること、この事一つ取り上げても、自分の無知を痛感させられます。
身口意を大事にするはずの宗教者が仮に「お前は無知である」そう言うのはどうなんでしょうね?自然と自覚させる気がつかせる必要があるように私は考えています。
放置については、独歩さんに不愉快な思いをさせて申し訳ありません。
私は”特に末端の”正宗系信徒会員には「自身達が無知であることを痛感して欲しい」そう考えています。
ですので、お二人のレベルの高い議論は私の望むところでもあるわけです。
ずっと以前から、末端の正宗系信徒会員が、お二人レベルの議論であったならどれだけマトモだったか。
富士門流信徒(日蓮法華)、独歩さんのブログ、Libraさんにしても無償で時間やお金をかけているでしょう。そもそも本来、過去の正宗系教学について「土下座謝罪を前提に」正宗系僧侶、学会本部幹部が実名かつ無償で情報公開や議論するべき内容だと私は思っています。
現在進行形で末端は白い目で見られ恥をかいて世間から相手にされないでしょう。
創価公明が相手にされるのはお金と権力が理由です。
あ、いかんいかん。腹が立ってきた。。。。(-_-;) (^_^;)
話を元に戻すと、あと一ヶ月くらい待てば議論が終わっていると考え、その後に真鍋俊照さんの本を紹介するつもりでした。
Libraさんのコメントで、2011-02-14 21:48:24、2011-02-17 19:55:44、
1,密教の問題点を取り上げ、良いところ、肯定的なところが書かれていない。
2.1の問題点に断定的。等々
これらについては私も問題を感じています。
元々、先月のLibraさんのコメントにも見るべき点と問題点がある、そう私は感じました。いつも私に親切にしていただいている他ならぬLibraさんなので密教を肯定しつつ、議論ができるかな?と考えました。
それで色々な人に期待を込めて315の記事になったわけです。
あの記事を誰に向かって書いているかは皆さんの想像にお任せします。
単に問題ある正宗系信徒会員だけでないことは明白です。
>こうした自分の管理下の過ちを批判できないほど、なにをそんなにLibraさんに遠慮しているのでしょうか。
真鍋俊照さんの本を2冊紹介しつつ、私の考えを書くことにします。
少なくとも「マンダラと変相図について」はこれで終わらせます。
Libraさんのコメント次第で方針を変えるかもしれませんが、今回は本の紹介で留めようと考えています。今のことろ、議論をする気はありません。
読書や私用もあるので記事アップの日時は未定です。>ALL
よねやま
ではでは
あなたは、このまえ、わたしのブログにやってきて、人に答えさせて、それに返事もなし。そうした自分のことは棚上げと言うところが如何にもあなたらしい。
くだらない言い合いではなく、無知呼ばわりされる筋合いはないと言っているのですよ。
日蓮は文永年間から「曼陀羅」の図示をはじめ、建治年間から、「漫荼羅」と改めます。そして、弘安年間から、今度は花押を換えます。
そうして変化を、なぜしたかを考えることが日蓮の事実を見ると言うことです。その変化をしても意味を同じだと言えば、事実が見えないと言っているのです。
ですから、日蓮においては曼陀羅と漫荼羅は、意味が違っているといったわけです。
浄土教の話をしているわけではありません。日蓮の話をしているのです。
浄土経で本尊がマンダラと呼ばれるのは、マンダラという言葉が密教で先行して使われたことを踏襲したので、日蓮を考えるうえでは関係ありません。
脈絡を考えずに自分に都合の善い言葉で切り貼りは、Libraさんの常套手段ですが、そうして、人の言葉を引っ張るたびに事実からかけ離れていっています。
浅井師は「聖人の仏身論は当然のことながら純天台的・反密教的でなければならない」と、ここでは“仏身論”とことわっているのであって、それが漫荼羅を反密教であるといっているわけではないでしょう。こうして、あなたは言葉を切り貼りしますね。都合のいいとこどりのパッチワーク引用は卒業したほうがよろしい。
日蓮は虚空蔵求聞持法、不動愛染感見記の脈絡で漫荼羅を図示します。
よって、密教の影響があった。ただし、法華経という顕教を表にしたということです。
いずれにしても、異論を唱えると、すぐに無知だなんだとすさんでいるようでは、議論にはならず、すべてくだらない言い合いとしかとれないのでしょ。
ここの管理人であるそううそさんも、投稿者が、他の投稿者を無知呼ばわりしても、放置するというのは、どんなものでしょうか。
創価学会の過ちを批判することは大いにけっこうですが、しかし、こうした自分の管理下の過ちを批判できないほど、なにをそんなにLibraさんに遠慮しているのでしょうか。それとも、無知というのは悪いことではないというわけでしょう。なんですか、まったく。
日蓮が生まれる前から、変相は曼荼羅と呼ばれていました。これは、わたしの思い込みなどでは全然なくて、現実の言語現象です。
───────────────
浄土曼荼羅のうち、もっともはやく文献にあらわれる智光曼荼羅の場合、『時範記』承徳三年(一一〇六)八月八日の条に、「今日有御法事、其義□母屋中央間立仏台、懸極楽変曼荼羅[智光マンタラ也]」とあって、変と曼荼羅とを並記している。当麻曼荼羅も、その初出である『建久御巡礼記』には、「抑極楽変相感仏事」と記し、寺僧の談として「曼荼羅」と、両者を併用している。また当麻曼荼羅が善導の『観経疏』にもとづくものであると認識された後成立した『当麻曼陀羅縁起』、『曼陀羅聞書』も「変相」と「曼陀羅」の語を併用している。浄土変相が曼荼羅・曼陀羅と呼ばれたのは、日本仏教の密教化により、諸経典の変相も曼荼羅と称せられたことによると考えられる。
(加藤善朗「当麻曼荼羅研究の意義」、『西山学苑研究紀要』第2号、2007年3月、p. 33)
───────────────
『時範記』も『建久御巡礼記』も日蓮が生まれる前に成立した文献です。
あー、時間がもったいない(涙)
───────────────
日蓮が【密教化した日本天台】から出発しているいうのはたしかに事実です。
しかしながら、彼の到達点はぜんぜん密教的ではないのではありませんか?
むしろ、彼の仏教者としての一生とゆーのは、【密教からの脱却の軌跡】だったのでは?【密教化する前のほんらいの天台宗への回帰】だったのでは?
「真言宗と申すは一向に大妄語にて候」というのが日蓮の到達点でしょう。そんなのは彼の遺文を時系列的に追いかけてみさえすれば明らかです。
少なくとも、「日蓮は密教化した日本天台から出発している。ゆえに、彼は生涯密教的であった」などとゆーのは、論証としてはぜんぜん成りたちません。
(Libra「日蓮の曼荼羅と密教」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-25.html)
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三師以来、意識的無意識的に密教化された法華教学、乃至密教々学そのものを法華の教学として全面的に伝承し展開したのが、院政期以降勃興したいわゆる中古天台であつて、その仏身論が密教的法身を中心とすることは縷説するまでもない。そして、漸く隆盛の緒に就き、漸く成文化の第一歩を踏み出した中古天台の観念論的な絶対観に対する反省の上に成立したのが鎌倉新仏教であるから、日蓮聖人は中古天台色の排除を意識していた。ましてその仏身論は寧ろ密教のものであるから、折伏を表とする日蓮聖人としては法華教学に混入した密教的色彩を能う限り払拭すべく志向した。この点から予想すれば、聖人の仏身論は当然のことながら純天台的・反密教的でなければならない。
(浅井円道「日蓮聖人の仏身論の特徴」、『印度学仏教学研究』第28巻第2号、1980年3月、http://fallibilism.web.fc2.com/106.html)
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2.『大日経』には「本尊」という語が27箇所にあります。
『大日経』は大正蔵第18巻所収です。以下が検索結果です。
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0017b19 - 0017c20: 提心第二名爲聲句想爲本尊而於自處作第二句當知
0036c28 - 0037a07: 以爲■幟圖具漫荼羅如本尊相應若依法教於眞言門
0041a08 - 0041a27: 生彼即如影像生是故諸本尊即我我即本尊互相發起
0041c29 - 0042a02: 就最正覺是故此字即爲本尊而説偈言
0044a09 - 0044a09: 説本尊三昧品第二十八
0044a10 - 0044a22: 門修菩薩行諸菩薩觀縁本尊形故即本尊身以爲自身
0044b21 - 0044c04: 相續住種子字句或心隨本尊故説有攀縁出入息爲上
0046a08 - 0046a20: 佛心目現觀諦明了當依本尊所在方至誠恭敬一心住
0051b03 - 0051b22: 應生決定意先當一縁觀本尊持彼眞言祕密印自作瑜
0051b24 - 0051b29: 本尊三昧相應者以心置心爲種子彼應如是自觀察安
0051c22 - 0052a22: 猶明燈大空無垢字住於本尊位正覺當現前乃至諦明
0052b13 - 0052b28: 力所持故與自身無異住本尊瑜伽加以五支字下體及臍上心頂與眉間於三
0052c25 - 0053a06: 如前方便以字門觀轉作本尊身住瑜伽法運布種子然
0053a07 - 0053a23: 復次本尊之所住漫荼羅位之儀式如彼形色壇亦然依
0053c28 - 0054a05: 得當離魚肉薫菜及供養本尊諸佛之餘乃至種種殘宿
0054a06 - 0054a12: 次奉摶食用獻本尊又作隨意食法若故有餘更出少分
0054a16 - 0054a19: 如是住先成就本尊瑜伽飯食訖已所餘觸食以成■諸
0054b16 - 0054b23: 世眞言密印護方等住於本尊自性觀復當三轉持淨土
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3.浄土変は浄土曼荼羅とも呼ばれます
浄土変を「本来の曼荼羅の語義からはずれて〈浄土曼荼羅〉と称することもある」(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 442)
)のです。これが、現実の言語現象です。浄土教は顕教です。
あとは、すでに書いたコメントで十分だろうと思います。笑いたかったらどうぞご自由に。
先ず、一つ。『大日経』に「本尊」という言葉があるそうですが、どこにあるんですか。
また、日蓮は、特に「漫荼羅」という表記を、自身の図示に用いました。
どう書いても、意味は同じというのは、それはLibraさんの考えであって、、日蓮とは関係がありません。自分の考えに日蓮を押し込むやり方では事実は見えません。
> 現実の言語現象に無知
無知ねえ。これはその上に引いているのがわたしの言葉ですから、わたしのことを言っているわけですね。
ずいぶんと口の悪い言い返しですね。こんな言い方しかできないとは、Libraさん、ずいぶんとすさんでますね。お気の毒です。
「現実の言語現象」ではなく、自分(Libra)が固執している言語認識を現実と思い込みたいわけでしょう。それでは事実は見えませんね。
> 「顕教の漫荼羅本尊」…論理矛盾…ない
漫荼羅は、密教大日経の用句ですから、その語を持ってきて顕教といえば論理的に矛盾する。こんな明快な説明がわからないのは驚きです。
> 独歩さんは、「日蓮に影響を与えた大日曼陀羅」ということを当然の前提であるかのように書いておられますが、一体どういう影響を受けたというのか全く不明です。
漫荼羅という言葉自体が『大日経』の用句で、真言宗で始められたことであれば、その言葉を採って、日蓮が図示した段階で影響を受けたというのは当たり前のことでしょう。
ここでいう『大日経』とは『大毘盧遮那成佛神變加持經』のことです。
http://www.cbeta.org/result/normal/T18/0848_005.htm
それとも『法華経』のなかに、漫荼羅、大日という言葉があるんですか。あるならば、明示したらどうでしょうか。
日蓮は、自身の漫荼羅について、それほど、遺文に書いていません。
しかし、図示した漫荼羅は遺っています。つまり、その影響はその図上でも確認できます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50832083.html
そもそも不動・愛染が漫荼羅に図示されることは、広く真言曼荼羅の影響を受けている証左でしょう。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51822895.html
> 具体的に日蓮の遺文を用いて論証
不動愛染感見記、日蓮が大日経の用句「漫荼羅」、不動愛染を書いたこと。すでにそうしたところに日蓮への真言宗の影響は明確です。
反面教師とは批判的に用いることですが、日蓮は肯定的に用いています。
「一閻浮提之内未曾有之大漫荼羅」とは、それ以前のマンダラを超えたという自負の表現で、批判というより、優位を示すものでしょう。
それから、Libraさん、「日蓮の遺文を用いて論証」ということですが、では、あなたは日蓮の漫荼羅が日蓮の遺文を用いて論証できるのですか。できるのならばやってもらいたいですね。
左右に書かれている図が不動・愛染であり、梵字である。この説明は、日蓮遺文のどこにあるんですか。
日蓮は漫荼羅は、どのように書いているかといったい、どこに書いているんでしょうか。
そんなことが書かれていないのは、日蓮門下ではわかりきったことですね。日蓮の遺文で、というのならば、Libraさん、あなたは日蓮漫荼羅をすべて日蓮遺文で説明できるといっているわけですね。では、やってご覧なさい。自分にできもしないことを人に課すとは、なんともはや。人を無知呼ばわりしたり、自分にもできないことを人にやれといったり、議論以前に、あなた、感情的に「自分は絶対に正しい」、犀角独歩は無知だといっているだけではしようがないでしょう。
> 神秘主義的宗教にとっては、「言葉で説明することができない」
言葉で説明ができないことが無内容なのですか。何を言っているのやら。
言葉ができないほど、内容があるということではないですか。
だいたい、言葉で説明できないと神秘主義だというならば、天台も神秘主義で無内容ということになりますね。
「言語道断」は天台の用句ですね。
http://www.cbeta.org/result/normal/T34/1718_009.htm
ここでいう「言語道断」を現代語の意味で解釈してはいけません。
それでは、それこそ、言語道断の所業ということになります(大笑)
×:真言宗の千二百余尊も「法華経の二処・三会の座にましましし」(「開目抄」)というのが日蓮の認識
↓
○:真言宗の千二百余尊も虚空会の座にいたというのが日蓮の認識
真言宗の千二百余尊は「過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人」(「法蓮抄」)であるというのが日蓮の認識ですが、当然、彼らは、三変土田によって虚空会の座にも来集しているというのが日蓮の認識でしょう。
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礼拝の対象として尊崇する仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと、密教の経典である大日経や瑜■〔示+氏〕経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた。
(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 751)
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ある用語が、後に、それがもともと意味していた範囲をこえるものまでをも指し示すようになるということは、実際によくある言語現象です。
「曼荼羅」という用語もその一例です。
「曼荼羅」は音写ですから、「漫荼羅」と書いても、「曼陀羅」と書いても、その違いに特別な意味などありえません。
「曼荼羅」はもともと密教の用語です。しかし、日本においては、変相も「曼荼羅」と呼ばれるようになりました。変相は、密教で用いられている曼荼羅(狭義の曼荼羅)とはとてもいえません。しかし、日本においては、現実に、変相も「曼荼羅」と呼ばれるようになりました。
別に、「顕教の漫荼羅本尊」と言っても、論理矛盾などありません。
そこに論理矛盾があるかのように見えてしまう人がもしいるすれば、それは、その人が現実の言語現象に無知であるというだけの話でしょう。
日蓮は曼陀羅に両部の大日を書くことがあるというのはたしかに事実ですが、そのことは日蓮の思想が密教的であることをなんら含意しません。
真言宗の千二百余尊も「法華経の二処・三会の座にましましし」(「開目抄」)というのが日蓮の認識ですが、曼陀羅においては、両部の大日は多宝の郎従として描かれているにすぎません(↓)。
問答迷人さんとの対話
http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html
独歩さんは、「日蓮に影響を与えた大日曼陀羅」ということを当然の前提であるかのように書いておられますが、一体どういう影響を受けたというのか全く不明です。
具体的に、日蓮の遺文を用いて論証されるべきではないでしょうか?
仮に影響があったとしても、せいぜい反面教師的なものでしかなかった可能性もあると思いますが、もしそうではないと主張されたいのなら、具体的に日蓮の遺文を用いて論証すべきだと思います。
わたしが「無内容」と言ったのは、「言葉で説明することができない」ということです。わたしがそういう意味で「無内容」であると言っていることは、文脈から明らかでしょう。
そういう意味で、大日如来を「無内容」と言ったとしても、密教徒をけなしたことには全くなりません。なぜなら、彼らは、「言説の及びえない、神秘的なもの、特殊な行法によって直接体験されるのみの深遠なる真理」をありがたがるのですから(↓)。
タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
http://fallibilism.web.fc2.com/022.html
神秘主義的宗教にとっては、「言葉で説明することができない」というのはほめ言葉です。
だいたい、「漫荼羅」とは『大日経』に典拠のある用句であり、本尊もまた、密教の用語です。
であれば、顕教の漫荼羅本尊では論理矛盾を来します。
日蓮は漫荼羅は金胎大日を置くこともあり、その延長にあります。それを法華経宝塔品から事寄せて、併せ持たせたところでオリジナリティがあります。
どう思うかは、ご当人の勝手ですが、日蓮に影響を与えた大日曼陀羅を無内容は、日蓮漫荼羅には意味があるというのはおかしな話でしょう。換骨奪胎、取るものを、元をけなすといった日蓮門下発想は卒業されないと、見えるものも見えず、無内容と感じてしまうのではないでしょうか。
> 中尊…に法を表現する点についても日蓮曼荼羅に特別なオリジナリティがあると思えません。
密教と顕教では、「法」についての考え方、理解が根本的に異なります。
密教においては、「法」とは、不可説の真理です。言葉で説明することが不可能であるとされる点に最大の特徴があります。理性によって到達しうるものではなく、ただ「ヨーガ(瑜伽)の観法」によって体験できるのみとされます(↓)。
神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
http://fallibilism.web.fc2.com/046.html
顕教においては、「法」は真理という意味もありますが、それは言葉で説明することが可能であるとされています。また、真理を言葉で説明した「教法」や「法門」や「経」も「法」といわれます。
日蓮は法華経を本尊(中尊)としていますが、この本尊は「経」であって、釈尊の言葉です。ちゃんと内容がありますし、その内容を言葉で説明することができます。
一方、密教曼荼羅の中尊である大日如来は無内容です。言葉で説明することができません。
密教の曼荼羅と日蓮のそれとでは、性格が根本的に異なります。