妙政寺の大仕事は後世の瓦屋さんへのメッセージ
昨年の8月・・・370坪ある大きな屋根、3尺3寸もある大きな鬼瓦、そしてカネ勾配よりもきつい屋根。素屋根が掛かりクレーンも使えない、人の手作業でしか仕事は進まない、そんなことを考えると怖いくらいだった妙政寺の瓦降ろしも「案ずるより産むが易し」9月の初めには無事終える事が出来た。備後福山藩第二代藩主水野勝俊公の菩提寺、江戸時代初期建立され、文化財に登録されていてもおかしくない妙政寺の本堂。その本堂の屋根瓦葺き替え工事も足かけ1年、どうにか無事終えることが出来た。
38年前の瓦の葺き替え工事、当時、社寺の瓦工事が出来る職人は、奈良、京都、岐阜の一部にしか居らず、国宝や国の重要文化財あたりでないと、地方の仕事にそのような職人が来るということは稀なことだった。妙政寺も、当時、瀬戸内沿岸では日本一と言われた愛媛県の「菊間の瓦」を使用し、菊間から職人に来てもらって瓦を葺き替えたと聞いていた。
10年以上前から、妙政寺の修理に行くようになる。そんな中、御住職と時々世間話をするようになったのだが、まさかこんな大仕事をするようになるなどとは思ってもいなかった。一昨年、御住職から見積もりの依頼を受けた。前回の大改修から40年も経っていない、巴釘は鉄製でそれが腐食して瓦を割っている。葺き替えるには少し早い気もするが、これも致し方無い事か・・・
何社かの競合はあったものの、御住職を始めとする妙政寺の役員さんの強い推薦を頂いて、元請けの㈱鈴木工務店の下で瓦工事をさせていただくことになった。御住職からは、「笹原さんが思うように、思いっきりやってください」と全幅の信頼を頂いた。その思いに応えるには仕事で返すしかない。
本堂は南向きの370坪の大きな入母屋、南の向拝は唐破風、そして谷が。北面にも入母屋があり、やはり谷がある。この南北の谷を瓦で納めることが仕事を面白くし、さらに価値あるものに変えて行く。それは150年後、200年後の改修工事になるか?後世の職人へのメッセージだ。
6間お堂、3棟分の仕事はうちの単独では荷は重く、文化財も経験豊富な京都の甍技塾徳舛瓦店㈲(社長は義弟・先代は師匠)とJVで。今回の原寸図を書いた徳舛瓦店の成松秀麻を棟梁に工事は12月1日から始動した。谷回り、箕甲、野棟の大工工事が全て終わったのは1月の末。成松の仕事は原寸図に忠実で、「そこまでやるのか}と半分あきれるくらい頑固に瓦を葺くための下地作りに徹し、時折、人を寄せ付けないくらいの雰囲気を出しながら、この大仕事に入っていった。だから戸惑うことも多々あった。毎日10人くらいの職人が入る。人工数は飛ぶように消えていく。
12月からの人工数は3月末で600人を数えた。GWまでには丸瓦を納めておきたかったが、オーダーした谷瓦が遅れたため予定は狂う。工期のプレッシャー、出来ないものは出来ないのだが、出来ることはやっておかねばならない。
応援は岐阜から屋根島工務店さんが2人で3月(2週間)、5月(8日間)と来てくれた。片岡洋瓦の広兼篤ちゃんは最初から最後まで、慧瓦の須澤君は3月から最後まで。そんな多くの人達の応援があって確実に仕事は進んで行った。5月の22日には大棟の足場も上がりいよいよ終盤戦へ。25日から兵庫の大原さんが2人(2週間)応援に駆けつけてくれた。甍技塾の後輩、吉盛幸一も2人で6月15日から1週間応援してくれた。本当に多くの人に支えられながら、大棟、降棟、隅棟と順調に進み、瓦の仕事はどうにか6月24日、無事終えることが出来た。
その後、屋根の上の足場の解体、屋根掃除、付帯屋根の修理、既存瓦の収納と全て終わったのは7月25日。現場での人工数は1200人を数えた。昨年の8月9月の既存瓦の解体の180人、さらに言えば、のし瓦の選別、銅線通し他の人工数を加えれば、足かけ1年、1400人もの人が関る大工事となった。
既存瓦解体においても多くの応援を貰った。笠岡の平田洋瓦さん、岡山の広安瓦建材さん、総社の岡本工業所さん、さらには早川建設さん、小田板金さん、左官の佐藤さん等々、本当に多くの人達のお陰で、この大仕事が出来上がった。
しかし、この現場の決算には、厳しい現実を突き付けられた。大きな課題が残されたが、今は、この大仕事を無事終えることが出来た事に感謝したい。
2015年7月28日 笹原 真二
追伸 32年前、広島県の甲奴の西教寺で甍技塾の仕事に入らせてもらった。素丸瓦の選別を初めてした・・・帰ってからは、皆に任せ、私自身やったことが無かった。しかし、2月には2週間くらい?約7割7000本の素丸を1人で選別した。一番大きい丸と一番小さい丸では18mmも違う。慣れた頃には計らなくても見ただけで、このパレットは5寸6分~7分の素丸が多いとか、5寸3分~4分が多いとかが分かるようになった。そんなことが単純作業を面白くさせてくれた。主に使用される素丸瓦の種類は20種類くらいなのいだが、全てのねじれ、寸法で選別した素丸瓦は50種類近くになった。それはのし瓦においてもそれ以上の種類に分けられた。軒瓦、巴瓦、全ての瓦を選別して基本に忠実に葺く瓦の場所が決められて行った。
32年前の仕事とは、明らかに違った。理想はそうだとして、予算のことも考えれば、現実はそこまでしない。しかし、成松の指示は下地作り同様、基本に忠実だった。「頭では知っているが・・・そこまではやらなかったこと」を実践することが出来た。
昨年の8月・・・370坪ある大きな屋根、3尺3寸もある大きな鬼瓦、そしてカネ勾配よりもきつい屋根。素屋根が掛かりクレーンも使えない、人の手作業でしか仕事は進まない、そんなことを考えると怖いくらいだった妙政寺の瓦降ろしも「案ずるより産むが易し」9月の初めには無事終える事が出来た。備後福山藩第二代藩主水野勝俊公の菩提寺、江戸時代初期建立され、文化財に登録されていてもおかしくない妙政寺の本堂。その本堂の屋根瓦葺き替え工事も足かけ1年、どうにか無事終えることが出来た。
38年前の瓦の葺き替え工事、当時、社寺の瓦工事が出来る職人は、奈良、京都、岐阜の一部にしか居らず、国宝や国の重要文化財あたりでないと、地方の仕事にそのような職人が来るということは稀なことだった。妙政寺も、当時、瀬戸内沿岸では日本一と言われた愛媛県の「菊間の瓦」を使用し、菊間から職人に来てもらって瓦を葺き替えたと聞いていた。
10年以上前から、妙政寺の修理に行くようになる。そんな中、御住職と時々世間話をするようになったのだが、まさかこんな大仕事をするようになるなどとは思ってもいなかった。一昨年、御住職から見積もりの依頼を受けた。前回の大改修から40年も経っていない、巴釘は鉄製でそれが腐食して瓦を割っている。葺き替えるには少し早い気もするが、これも致し方無い事か・・・
何社かの競合はあったものの、御住職を始めとする妙政寺の役員さんの強い推薦を頂いて、元請けの㈱鈴木工務店の下で瓦工事をさせていただくことになった。御住職からは、「笹原さんが思うように、思いっきりやってください」と全幅の信頼を頂いた。その思いに応えるには仕事で返すしかない。
本堂は南向きの370坪の大きな入母屋、南の向拝は唐破風、そして谷が。北面にも入母屋があり、やはり谷がある。この南北の谷を瓦で納めることが仕事を面白くし、さらに価値あるものに変えて行く。それは150年後、200年後の改修工事になるか?後世の職人へのメッセージだ。
6間お堂、3棟分の仕事はうちの単独では荷は重く、文化財も経験豊富な京都の甍技塾徳舛瓦店㈲(社長は義弟・先代は師匠)とJVで。今回の原寸図を書いた徳舛瓦店の成松秀麻を棟梁に工事は12月1日から始動した。谷回り、箕甲、野棟の大工工事が全て終わったのは1月の末。成松の仕事は原寸図に忠実で、「そこまでやるのか}と半分あきれるくらい頑固に瓦を葺くための下地作りに徹し、時折、人を寄せ付けないくらいの雰囲気を出しながら、この大仕事に入っていった。だから戸惑うことも多々あった。毎日10人くらいの職人が入る。人工数は飛ぶように消えていく。
12月からの人工数は3月末で600人を数えた。GWまでには丸瓦を納めておきたかったが、オーダーした谷瓦が遅れたため予定は狂う。工期のプレッシャー、出来ないものは出来ないのだが、出来ることはやっておかねばならない。
応援は岐阜から屋根島工務店さんが2人で3月(2週間)、5月(8日間)と来てくれた。片岡洋瓦の広兼篤ちゃんは最初から最後まで、慧瓦の須澤君は3月から最後まで。そんな多くの人達の応援があって確実に仕事は進んで行った。5月の22日には大棟の足場も上がりいよいよ終盤戦へ。25日から兵庫の大原さんが2人(2週間)応援に駆けつけてくれた。甍技塾の後輩、吉盛幸一も2人で6月15日から1週間応援してくれた。本当に多くの人に支えられながら、大棟、降棟、隅棟と順調に進み、瓦の仕事はどうにか6月24日、無事終えることが出来た。
その後、屋根の上の足場の解体、屋根掃除、付帯屋根の修理、既存瓦の収納と全て終わったのは7月25日。現場での人工数は1200人を数えた。昨年の8月9月の既存瓦の解体の180人、さらに言えば、のし瓦の選別、銅線通し他の人工数を加えれば、足かけ1年、1400人もの人が関る大工事となった。
既存瓦解体においても多くの応援を貰った。笠岡の平田洋瓦さん、岡山の広安瓦建材さん、総社の岡本工業所さん、さらには早川建設さん、小田板金さん、左官の佐藤さん等々、本当に多くの人達のお陰で、この大仕事が出来上がった。
しかし、この現場の決算には、厳しい現実を突き付けられた。大きな課題が残されたが、今は、この大仕事を無事終えることが出来た事に感謝したい。
2015年7月28日 笹原 真二
追伸 32年前、広島県の甲奴の西教寺で甍技塾の仕事に入らせてもらった。素丸瓦の選別を初めてした・・・帰ってからは、皆に任せ、私自身やったことが無かった。しかし、2月には2週間くらい?約7割7000本の素丸を1人で選別した。一番大きい丸と一番小さい丸では18mmも違う。慣れた頃には計らなくても見ただけで、このパレットは5寸6分~7分の素丸が多いとか、5寸3分~4分が多いとかが分かるようになった。そんなことが単純作業を面白くさせてくれた。主に使用される素丸瓦の種類は20種類くらいなのいだが、全てのねじれ、寸法で選別した素丸瓦は50種類近くになった。それはのし瓦においてもそれ以上の種類に分けられた。軒瓦、巴瓦、全ての瓦を選別して基本に忠実に葺く瓦の場所が決められて行った。
32年前の仕事とは、明らかに違った。理想はそうだとして、予算のことも考えれば、現実はそこまでしない。しかし、成松の指示は下地作り同様、基本に忠実だった。「頭では知っているが・・・そこまではやらなかったこと」を実践することが出来た。
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