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蜜蜂と遠雷 (ネタバレ)

2016年09月30日 | クラシック音楽
蜜蜂と遠雷 (ネタバレ)
 
恩田睦
幻冬舎
 
タイトルからはわかりにくいのだが国際ピアノコンクールを舞台とした小説である。もう徹頭徹尾コンクールである。第一次予選、第二次予選、第三次予選、そして本選と進んでいく。このコンクールを舞台として、とある4名の参加者を中心に群像劇がくりひろげられる。
大長編であるから、ピアノコンクールというものにどっぷりとひたるにはこれとない小説である。しかし、あまりこの世界になじみがないと、あまりの長丁場にダレるかもしれない。なにしろ、500ページにして2段組という分量なのだ。
 
言わば本作は国際ピアノコンクール追体験小説であり、コンクールに挑む主要登場人物の誰に肩入れするかも、読み手の好みがいかせて楽しい。あえて主人公をあげるとすると、元天才少女であるところの栄伝亜矢ということになるだろうが、歳のせいか、僕は最年長の高島明石をひいきしてしまいたくなる。
素直に小説の世界にひたってしまってもちろんよいわけだが、せっかくなので、ここはあえて本作品から、隠された文学的主題を読み取ってみようと思う。
 
というのは、この小説のタイトル「蜜蜂と遠雷」というのが気になったからである。

なぜ、これが国際ピアノコンクール小説のタイトルになるのか。

 
 
 
 
このタイトルがコンクール参加者のひとり、「蜜蜂王子」こと風間塵にちなんでいることは想像に難くない。
 
この物語では、風間塵はトリックスターとしての立場で登場する。それ以外の参加者たち、亜矢もマサルも明石も、コンクールを通じてそのピアノの出来具合から人徳に至るまで、目覚ましい成長を遂げていくが、風間塵だけは彼らの成長の触媒であり続け、彼自身は一見すると、初めから終わりまで何も変わっていないように見える。天衣無縫のまま走り抜けたように思える。
 
しかし、風間塵もまた実は変容したのである。それこそがこの小説の奥底にある文学的主題だ、と僕は断定してみる。
 
風間塵こそは本小説の問題提起的存在であるが、ではいったい彼の何がそんなに問題提起なのかは、わかるようでわかりにくい。なぜ審査員はあんなに葛藤するのか。あれだけまわりを熱狂させておいて優勝でも準優勝でもなく、第3位という結果は何を意味しているのか。
 
もちろん、このピアノコンクールという世界のことをよく知っている人ならば、なぜ彼のピアノが聴衆をあれだけ熱狂させながらつねに審査の場では賛否真っ二つとなり、ついには第3位で終わったのかについて、まあそんなところだろうなと非常にリアリティを感じられる。しかし、普通の物語的カタルシスでいえば、彼こそが優勝であろう。むしろ、優勝者であるマサルは「フラグ的」には優勝を逃すようにさえ思える。
しかし、クラシック音楽におけるピアノコンクールという場ではやはり、優等生マサルのタイプが優勝をするのだ。風間塵は優勝できない。公算としては本選進出さえ危ないはずなのである。
 
なぜならば、彼の音楽の由来は、「蜜蜂」にあるからだ。
風間塵が「蜜蜂王子」と呼ばれるのは、彼の家が蜜蜂農家であるからなのだが、彼に音楽的才能を与えた由来が「蜜蜂」を象徴とする自然世界の音と律動にあったからでもある。ここから導かれるテーゼは、美しい音楽は「初めからそこにある」とあう哲学である。彼の神に見初められたといってもよい、音に対しての繊細な神経と指先の身体能力は、すべて自然の森羅万象と接点をもつ日々から生まれた。
しかし、クラシック音楽という世界はそれだけでもない。インスピレーションとはむしろ遠いところにあり、本能的才覚だけで、クラシック音楽は完成しないのである。
 
西洋音楽であるところのクラシック音楽というものは徹底的な考察と考証を重ね、前人の検討と様式を踏まえ、人智と信仰までも包摂させた規定演技の芸術の世界にあると言ってよい。極端な言い方をすれば、風間塵のピアノは「芸」ではあっても「芸術」ではない。それがどんなに人の心をとらえ、狂わせようとも。それだけではイージーリスニングとみられてしまうのである。
 
しかし、初めから天才少年のように現れた風間塵は、物語の中で一度だけ変容をする。
それが「遠雷」に関わってくる。
実はこの物語。「蜜蜂」は何度も登場するが、「遠雷」という言葉は一度も登場しない。ただ一度だけ、第3次予選のまえ、風間塵はコンサートホールを出て、冬の雨が降る街の中を彷徨う。その空間は蜜蜂の音など聞こえない、寒々しい空の下だった。風間塵は孤独を感じる。亡き師匠の不在を強く意識する。このとき「遠いところで低く雷が鳴っている」。
この、雨の中の孤独の彷徨を経て、風間塵は覚醒するのだ。彼は亡き師匠のもとに音を届けようと思い至るのである。
 
 
「蜜蜂」に象徴される自然の律動の申し子、風間塵は遠雷のシーンを経て覚醒する。この覚醒の意味は、音楽を奏でることの、単なる喜びの発露ではなく、それを「誰かに聞かせたい」というメッセージ化にある。
もともと風間塵は「観客が誰もいなくても、無人島にピアノがあれば、楽しんでそれを弾く」人であった。美しい音楽は初めからそこにある。しかし、遠雷で覚醒した彼は、その音楽を誰かの元に届けたいと思うようになる。
彼が「3次予選」を通過し、「本選」へ進めたのはこのステップアップがあったからだ、というのが僕の仮説である。この覚醒がなければ、審査員を屈服させることはできず、彼は3次予選で終わっていただろう。
 
3次予選で彼が「何度も」弾く曲がエリック・サティの「ジュ・デ・ヴ」、すなわち「あなたがほしい」である。
風間塵のキャラクターからすれば、人を欲するタイプではないだろう。しかし、3次予選以降の彼の演奏は、人に対してつながろうとしている。一次予選、二次予選はたんに自分に対し戯れているだけであったが(そのレベルが半端なくて聴衆のほうが注目するが)、3次予選の演奏は自分を、自分の音楽を聞き手に差し出している。それも何度も弾くのである。(通常、コンクールで同じ曲を2度弾くことはない。この物語でもそのことが物議を醸しだすことになる)。
 
そして本選で彼が選んだ曲は、ハンガリーの作曲家バルトークのピアノ協奏曲第3番。この曲は、自分の命がもはや長くないことを知ったバルトークが、自分が亡きあとも愛する妻(ピアニスト)が仕事を失わないように、妻にあわせてつくった曲だ。バルトーク特有の暴力性は影をひそめ、全編にわたって格調とつつしみが溢れている名曲中の名曲である。それまでのバルトークのつくった曲は、バルトーク自身の美学のプレゼンテーションであり、極めて野心的なものが多かった。しかし、このピアノ協奏曲第3番は、純粋に「妻のために」つくった曲だ。第2楽章の美しさは絶品である。
風間塵はそんな「他人のために」つくられた曲を共感こめて弾く。彼は着地したのだ。
 
 
以上のことは、この長大な小説のどこにも書かれていない。完全に僕の深読み的お遊びである。
この深読みの根拠は、一度しか現れない「遠雷」のシーンが彼に何を作用させたのかということ、通常のコンクール演奏ではありえない「何度も弾く」サティの「お前がほしい」が意味する含み、そして本選の曲として選ばれた「バルトークのピアノ協奏曲第3番」である(さそうあきらの傑作「神童」でも、この曲は重要な場所で出てくる)。
音楽というのは、ことにクラシック音楽というのは西洋倫理の一形態であり、そこには形式や秩序があり、絶対的な時間芸術であり、そこで要求されるものはかなり窮屈なものであるが、‬いっぽうで音楽というのは必ず「誰かに聞かせよう」としているものである。聞き手を無視した音楽というのは原則的にはありえない。神にきかせる曲もあれば、パトロンにきかせる曲もあれば、愛する人に聞かせる曲もある。音楽は必ずコミュニケーション性をまとっている。そして、逆説めくが特定の誰かでない、全人類への祝福として音楽はその威力を発揮できる。風間塵が到達した境地はここである。
美しい音楽はたしかに人間などいなくても、初めから自然にそこにあるかもしれない。しかし、天衣無縫だった風間塵の演奏が、誰かに届けるために弾かれたとき、この上ない幸福な「音楽のある人間の世界」が実現するのだ。
 
 

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