私のさがしてるもの・・・「私」

私を捜している中で「不思議なタイミング」で出会ったことばや音楽を共有できたらいいなぁ。

なぜ生きる

2006-09-12 02:23:52 | 
久しぶりに本の話・・・

まず「なぜ生きる」って、聞かれたらなんて答えます?

「なぜ生きる」

先日いい本だから~って、紹介していただいた一冊です。


「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」

何なのかって言われても、なんだろ??って感じ。
ピンと来ないし、一言でまとまらない。

親鸞聖人の言葉を通して書かれたこの一冊は、読むにはそんなに時間がかかるわけじゃないんだけど・・・、深い。。
すでに何回か読み返したりもしているけど、その時々自分の置かれている状況によって、言葉が色を変えて染みこんでくるんだよね。


もともとなんで「親鸞聖人」が好きかっていうと、
私はこの方の生き方が、すごいって思う。
人の心の裏を、人に知られるということを
恐れずに出して生きた、その生き方がたまらなく正直で、ストレートで、かっこいいと思ってしまうんだなぁ。


先生と呼ばれる立場だったり、親だったり、指導して行く立場にいる人は特に、自分の事を「いい人」とか「地位」とか「お金」とか、「欲」を超越したすばらしい人間像であるかのように、見せたいだろうと思う。


でも、この親鸞聖人は

『小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて、有情利益(うじょうりやく)は思うまじ』(悲嘆述壊和讃」

「少しくらいは、他人をあわれみ、悲しみ、助ける心があるように思っていたが、とんでもない錯覚だった。親鸞には、慈悲のカケラもなかったのだ」
と、自分の事を言う。


逆境の人をあわれみ悲しんで、ふと気がつくと「慈悲深い我」と得意になっている醜さに驚くのは、心から善に向かった者が気づくこと。本当の善人になろうと努めるほど、悪性の根の深さを知り、反省し努力しなくてはと思う。
けれどもそれも、一時の善を売り物にする、私利私欲から出てきていることにまた気づき、醜さに驚くことになる。


親鸞は「雑毒虚仮(ぞうどくこけ)」=他人ダマシのうそっぱちと、自分の事を嘆かれた。
そう・・・自己の真実に徹底したら、見えてきてしまう。


「いい子」であろうとしたり「いい子」を目指していた自分が、「いい子じゃない」「100%いい子にはなれない」ことに気がついたとき、まざまざと見せつけられた時、私はすごくショックだった。
「そんなものは私の中にあるわけない」と、信じたい自分がいた。でも「そんなもの」は、確かにあるんだよね。

本当の自分に向き合うことは、時に辛かったりキツかったりするときがある。
けれど、向き合えると自分でも気づかなかった、新しい自分に出会える。


コレ以外にも、正直でまっすぐで、やさしくてカッコイイ親鸞聖人の言葉はいっぱい載ってます。機会があれば読んでみてくださいませ^^
受け売りですが、私もオススメいたします!!!