こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ぼくの大好きなソフィおばさん。-【14】-

2017年07月22日 | ぼくの大好きなソフィおばさん。
【わたしはわたし自身に扉を閉ざす】フェルナン・クノップフ


 さて、今回は何を前文に書きませう……と思ったんですけど、今回はわたしがエミリー・ディキンスンと並んで<天才詩人>と感じるフェルナンド・ペソアの文章の紹介でもと思いました♪(^^) 


 >>すべてを延期すること。明日やってもかまわないようなことをけっして今日やらないこと。
 今日でも明日でも、どんなことであれするには及ばない。

 これからすることを決して考えるな。それをするな。

 人生を生きよ。人生によって生きられるな。
 真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることにのみ腐心せよ。生まれることから死ぬことに至るまで、現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。 

 他人の目に、不条理なスフィンクスになれ。音をたてずに扉を閉め、象牙の塔に閉じこもるのだ。そして、この象牙の塔とは自分自身のことだ。
 もし誰かがそんなことはすべて嘘で不条理だと言っても、信じるな。しかし、私が言うことも信じるな。なにも信じてはいけないのだから。

 すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。

(『不穏の書・断章』、澤田直さん訳編/思潮社より)


 この部分を読んでみただけでも、何か感じるところのあった方は、是非ペソアの本を手に取ってみてくださいませm(_ _)m

 特にこの澤田直さん訳編の、思潮社より出ている『不穏の書・断章』は、「損はさせませんぜ、お客さん♪(^^)」といった密度の濃い内容だと思いますので……なんでしたら図書館で借りてみるとか……と思ったりします

 それではまた~!!



     ぼくの大好きなソフィおばさん。-【14】-

 フェザーライル校の入学式を迎えた九月の第一月曜日、アンディは自分がこの伝統ある私立校に首席で入学したわけではないことを知った。

 何故といって、入学式で新入生一同を代表して挨拶したのはザカリアス・レッドメインであり、それは彼が首席で入学したことの何よりの証拠だったからである。

 とはいえ、アンディはそのことで同室者に何か屈折した思いを抱くことはなかったが、授業の内容があまりに充実しすぎており、ついていくのが大変だとの事情がわかるにつけ――ザックに対しては少しばかり卑屈な心情を抱くようになったかもしれない。

 それというのも、中間テストや学期末テストのたびに、彼は必ず一番を取った。しかも、同じように授業を受け、同じように自習室で同じ時間机に向かっているにも関わらず、アンディはテストの度に十番以内に入るのがやっとだった。ザックは決してガリ勉といったタイプではなく、アメフト部と柔道部に所属し、そちらのほうで体力を使い果たすという、どちらかというと筋肉馬鹿タイプにすら見える生徒である。そんな男にどんなに努力しても勝てないというのは、アンディに激しい屈辱感を覚えさせるに十分だった。

 また、これと似たことは他の方面でも起こった。アンディは、自分がそこそこ絵がうまいといったように少しばかり自惚れていたが、美術の時間に他の生徒のデッサンの上手さを見るにつけ、自分はただの日曜画家に過ぎないということを、嫌というほど思い知らされたのである。アンディがフェザーライル校において、他の生徒より抜きん出ていることといえば、ふたつのことだけしかなかった。ひとつ目が部員としても所属しているテニスで、ふたつ目がチェスだった。一日の学科の授業がすべて終わり、運動部での体を鍛える時間も終わると、生徒は全員が全員、自習室で予習や復習をすることになる。そしてこのあとようやく自由時間となるわけだが、この自由時間に娯楽室でいくたりかの生徒がチェスをすることがあった。

 アンディはその時、なんの気なしに上級生とさして打ち勝ち、そのような状況が何度も続くと、チェスに覚えのある生徒が次から次へとアンディに挑戦してくるようになったのである。そしてその中に、フェザーライル校一といわれる速さしの名人、デーモン・アシュクロフトがおり、彼との勝負は一回アンディが負けたかと思うと、次には勝ちと、どちらか片方がニ連勝することはないという白熱ぶりだった。以来彼らがチェスをさすとなると、生徒たちが娯楽室に群がり、最後にはハウスマスターが「そろそろ就寝の時間だぞ」と注意せねばならない事態となった。

 また、テニスにおいてアンディは、「あいつのバックはまるでフォア並みだな」と先輩たちに言わしめるほどの腕前を最初から持っていた。というのも、もともとアンディは左利きであり、それをおばあさまが苦心して右利きにさせたという過去があった。けれどアンディはその後も、テニスに関しては左手でも右手でもバックハンドを打てるよう練習を続けていたのである。

 バック、フォア、ボレー、サーブ、スマッシュ……アンディはどれを取ってもオールラウンドプレイヤーとなれる資質をすでに持っており、ジュニアクラスの一年生ながら、上級生を相手に打ち合いの練習をするというのが、次期に当たり前の光景となっていき、初めて行ったロイヤルウッド校との対抗試合ではレギュラーにも選ばれた。そして個人戦で三セットで勝っただけでなく、ダブルスでは最上級のキャプテンと組み、彼が長く宿敵としてきた同校の強敵相手に、苦戦の末打ち勝ったのである。

 アンディは週末がやって来るたびごとに、こうした校内で起きた出来事を細々とソフィに書いて送った。何より、そうすることで愛するおばのことを喜ばせ、また同時に安心させたかった。感謝祭の時に初めてアンディが自宅の屋敷へ帰ってみると、アンディはまったくもってこの上もなく歓待されたものである。その後、ソフィはこの義理の息子のことを帰宅のたびに甘やかすだけ甘やかした。今度ばかりは流石にサラとアンナも何も言わなかった。それどころかアンディは、自分の滞在中に父親が帰宅した時でも、立場はすでに夫の彼よりも息子である自分のほうが上らしいということを知った。もちろん、そんな時でもソフィは場の空気を読んで、夫のバートランドのことを一応立てはする。けれども、アンディが手紙に書いて送ったことをそっくりそのまま、まったくの興奮状態で、我が身の上に起きたことであるが如く夫に話して聞かせるのである……アンディがもし「学校のほうはどうだ?」と父に聞かれたとしても、ここまでうまくは話せまいと思われるほど、ソフィは熱弁を振るって夫にしゃべり倒すのであった。

 こうして、アンディが寄宿学校へ入って初めてすごす感謝祭は、父親から不愉快な一撃を浴びせられるでもなく、表面上は家族でこの上なく温かく過ごしたといった形のものになった。駅のプラットフォームで別れる時、アンディは最初の時ほど悲しくなかったが、ソフィにとっては同じように切ないものがあるらしいのを知り、大いに満足したものである。もちろん、愛する者が悲しむ姿を見て喜ぶなどとは、決してあってはならないことではある。けれど、自分のほうがより深くおばさんのことを愛しているのに、向こうではそれほどでもない――ちょっと離れていた間に気持ちが薄れてしまった――というのでなく、彼女に変わらぬ深い愛情が自分に存していることに、アンディは深い満足を覚えていたのである。

 このような義理の母親の健全で温かく優しい愛情に支えられ、アンディは学期末試験では大いに頑張り、四番になった。ただし、この先の寄宿学校の全学年を通して、アンディはこの四番よりも上へ行くということはなかった。それは彼がどんなに努力しても越えることの出来ない壁であり、その先でザカリアス・レッドメインという青年がいつでも一番を取っていたことを思うと……アンディは悔しくもあったが、それが自分の限界なのだと潔く認めてもいたのである。

 短い冬休みが終わり、それから約三か月後にさらに短い春休みとなり、やがて最終学期の進級試験のある一か月前となった五月のこと、アンディは重い病気になった。この頃にはすっかり寄宿舎生活にも慣れ、これをあと五回繰り返せばいいのだ、などとアンディは自分の将来に極めて明るい見通しを持っていた。テニス部では先輩たちに可愛がられ、チェスを通して上級生に友人も出来、学業のほうはこの先も一番になることはあるまいと思われたが、同室者のザックとはすっかり親友といっていい間柄となっていた。そして、実家へ帰れば愛する義理の母がこの上もなく深い愛情でもって迎えてくれる……アンディにとってこの時、人生はとても光り輝いているように思えた。

 だが、どこの運動部でも行っている、肺活量を鍛えるためのマラソン――坂の下の町まで下っていき、次に上ってくるというきついメニューを、アンディが仲間とともにいつものこととしてこなそうとしていた時のことだった。朝から少し熱っぽいとアンディは思っていたものの、体温計で熱を測ることもなく、「この程度のだるさは、気の持ちようで吹き飛ばせる」と考え、坂の下まで走っていった時のことだった。急に体がつんのめり、一度膝をついたが最後、アンディは起き上がれなくなってしまったのである。

 他の部の仲間たちが「おかしい」と気づき、アンディのことを取り囲むと、すぐに救急車が呼ばれた。学校には当然校医がいたが、それよりも近くの電話ボックスから救急車を呼んだほうが早いと判断され、アンディはものの五分とせず到着した救急車により、町立病院へと運ばれることになったのである。

 この時のことを、アンディはのちになって非常に恥かしい思いで回顧することになった。何故といって、彼自身このような体のだるさは尋常でないと感じ、なんの病気だろうと震え慄いていたのだが、アンディのことを診察した医者は、彼に対し「はしかですね」と診断を下していたからである。診察室の外で待っていたキャプテンと他二名の生徒はその病名を聞くなり、一様にほっとした様子であった。無論、誰も彼のことをからかったりしなかったし、アンディが嫌なら病名のほうは他の生徒に伏せておいてもいいと約束してくれさえした。

「ただの麻疹といっても、君くらいの歳でかかる場合は、侮れないところがあるのですよ」と、田舎医者らしい優しい顔つきで、町立リース病院の中年医師は言った。「なんにしても、学校のほうは少し休んで、自宅で二週間か三週間、療養したほうがいいでしょう。御実家のほうはノースルイスですって?じゃあ、ちょっと御家族の方と相談したほうがいいですな。電話をかけてこちらへ来てもらってください」

 アンディは最初、このことを自分にとって非常に不名誉な恥と感じたが、それでも結局、最後に病気から回復してみると、良いことのほうが多かったかもしれない。ソフィは当然、この話を聞くとすぐにリース病院まですっ飛んで来た。そしてリース湖のほとりに別荘を借り、そこで義理の息子の看病を熱心にはじめたのである。

 アンディはといえば、リース湖の美しい湖面がすぐ近くにあるにも関わらず、それを見ることさえ叶わないほど、連日高熱にうなされ続けた。とにかく、自分の力でどうにかトイレまで行って用を足すのがやっとであった。おそらく、医者からはしかという病名を聞かされておらず、薬を飲んでいれば一週間ほどで熱も下がるでしょう……と言われてなかったとすれば、アンディは自分はなんという奇病にかかってしまったのだろう、このまま死ぬのではあるまいかと思ったに違いない。

 ソフィのほうでもまた、実に熱心に義理の息子のことを看病した。実際、ソフィにしても医者からはしかと聞かされてなかったとすれば、自分の愛しい坊やがこのまま死んでしまうのではあるまいかと思ったに違いない。アンディは最初の一週間、一日のほとんどを半ば朦朧とした意識の中で過ごした。ソフィがしょっちゅう氷枕をかえてくれたり、ベッドに起こして手ずから食事させてくれたのをアンディも覚えていたが、トイレへ行く以外のことではアンディは本当に自分の力では何も出来なかった。

 だが、医者からはしかと診断されて一週間が過ぎた頃、若干ではあるが熱も下がり、アンディは少しずつ自分が回復期へ向かいつつあると感じた。相も変わらず体もだるいし、汗が吹き出てもきたが、それでも一番のヤマは越えて、これからは除々に良くなっていくであろうと、はっきり感じたのである。

 アンディが初めてそう感じた時、時刻は真夜中を過ぎており、広いキングサイズのベッドの上では、すぐ隣にソフィがどこかやつれた顔をして眠っていた。この時ようやくアンディは、朦朧とした意識の中でただ相手の善意に縋り、看病してもらう以外になかったここ一週間のことを冷静に顧みることが出来た。

(この人はべつに、僕の本当のお母さんってわけでもないのに……)

 アンディは体をずらしてソフィに近づくと、愛しい義理の母の寝顔をじっと覗き見た。まだ熱があって体もだるいが、ついきのうとは違って、思考能力を奪われるほどひどくはなくなっていると気づいていた。そしてソフィの寝顔を見ながらこう思ったのである。何分、昼間寝られるだけ眠っていたため、今のように一段階体が楽になってみると、今度は暫く寝つかれそうになかった。

(こんなことはもう、これっきり最後にしなけりゃならない。何故って僕はもう十三歳で、八月には十四歳になる。ようするに、まだ成人はしてなくても、善悪の区別がきちんとつき、自分で自分のことに責任は取れるくらいの歳ではあるわけだ。もちろんこの人はいつまでだって、僕のことを子供扱いして甘やかしてはくれるだろう……けどもう、これからはそうした善意の愛情に僕はいつまでも寄りかかっていてはいけないんだ。第一僕だってこの人に、一日も早く一人前の大人として、男として認めてもらいたいと願ってるんだから……)

 この時アンディは眠っているソフィの体に近づくと、絹のガウンを着ている義理の母親のことを抱きしめた。自分よりもずっと体温が低いせいかどうか、絹のすべらかな感触とも相まって、ソフィの体は冷たく、とても気持ち良かった。

「僕、あなたが僕の義理のお母さんで、本当に良かった……」

 アンディは性的な深い意味があってのことでなく、それから大分体が楽になって日常生活に戻れるまでの一週間の間、ソフィの体を抱いて眠った。彼にとっては(こんなことが出来るのはこれが最後だ)との子供時代への別れもこめての抱擁であったが、ソフィはそんなことなどまるで知らず、単にアンディが病床にあって心細いのだろうと思い、自分のほうから義理の息子を抱き寄せることさえして眠っていたのである。

 アンディが病気になって二週間後、彼は熱も引き、顔色も大分良くなった。アンディは元の皮膚が白いため、熱などが出ると肌の表面がすぐ真っ赤になるのである。そのため、熱のほうが三十七度五部程度であっても、ソフィはひとり大騒ぎして、「まだ寝てなきゃダメよ!」と、息子のことを大事にするのをやめようとはしなかった。

 だがアンディのほうでは、そう学校を長く無条件に休んでいるわけにいかない事情があった。何分、学期末テストが近い上、二週間以上も学校を休んだことで、授業に遅れが出ていた。けれど結局アンディは、ソフィと湖の別荘でふたり過ごすのがあまりに楽しく、三週間学校を休んだのちに、ようやく寄宿学校の寮生活へ戻ったのであった。

 ヴァ二フェル町で過ごした夏休みについてもそうだったが、アンディはこの時、ソフィとリース湖のほとりの別荘で過ごした三週間の日々を生涯に渡って忘れなかった。完全に体のほうも元に戻ったように思われ、明日からは寮生活へ戻るという晩のこと、アンディはソフィに対し、思いきって「お母さん」と呼んでみようかと思ったが、やはり出来なかった。彼女のことをそう呼んでみようかと思ったことは、実はアンディにはこれまでにも何度かある。けれど、その度にそう言おうとして結局できず、「おばさん」と小さな声で呼んで終わるというのが常だった。

 その翌日、ソフィの運転するランドクルーザーでアンディは寮まで送ってもらい、アンディはそのまま授業へ出るということになったが、ソフィは校長に挨拶してから帰った。フェザーライル校では、校長という存在が絶対的な権威を持っており、ハウスマスターの選任はもちろんのこと、プリーフェクトの任命権もまた、校長が有しているものだった。つまり、そのくらい校長というのは普段から、教師や生徒たちと密な関係を保っているのである。ゆえに、現校長のリチャード・アームストロングも、アンドリュー・フィッシャーという生徒のことをよく知っていた。彼が鳶色の髪をしていて茶色い瞳をしていることも、テニスとチェスが得意で、その方面では上級生に一目置かれていることも、校長室で行われた個人面談の茶の席で、「実の父はともかく、義理の母にとって、自分は誇りとなれるような人間になりたい」と彼が語っていたことも、当然アームストロングはすべて覚えていた。

 校長はまず、アンディの病気の具合のことをソフィに聞き、健康面についてはもう何も問題はないと聞いて、まずはほっと安心した。校長室というのは寮の外れのほうに位置していたが、彼がここにずっと在室していることはあまりなく、学校内の様子を見てまわっていることのほうが多い。校長と聞くと、初老以上の年寄りを想像しがちだが、リチャード・アームストロングはまだ四十歳であった。彼もまたここ、フェザーライル校の卒業生であり、典型的エリートコースのユトレイシア大の哲学科を卒業後、こちらで教鞭を取り、二年ほど前に理事の任命により、晴れて校長の椅子に就任したのであった。

 アームストロングは、自分の幸せだった寄宿学校生活が今も忘れられず、そのような眼差しでもって生徒の一人ひとりと接していたといっていい。無論、<幸せ>などという簡潔な言葉で過去を振り返ることが出来るのは、かなりの年数が過ぎたからであって、彼もまた思春期と呼ばれる魔の季節には、色々なことで悩みや葛藤を抱き、それらと格闘したものであった。

「アンディくんは、義理の母親であるあなたのことを、相当慕っているようですね。あなたがもし自分のことを本当の息子のように扱ってくれなかったとしたら……いや、愛してくれなかったとしたら、今の自分はなかったと、彼はそう言っていましたよ」

「あの子ったら、そんなことまで先生にお話するくらいなんですね。手紙のほうには一度、校長先生の哲学の授業が一番面白いなんて、そんなふうに書いてあったんですけど……」

 アームストロングは結婚しており、校長室も兼ねた邸宅に妻とふたりで暮らしていたが、それでも教員は男ばかりなので、父兄とはいえ、美しいご婦人と話せるこの機会をおおいに楽しむということにした。妻のケイトが先ほど紅茶とスコーンを置いていったのだが、生徒とも同じように個人面談する時、継母や継父のことなどで悩んでいるといった相談を、リチャードはよく受けることがある。逆に、アンディのように血の繋がっている父のことを疎ましく思い、逆に継母のことをこの上もなく慕っているというのは、珍しいパターンであると言えた。

「そうですね。アンディくんのレポートは、わたしも毎回読むのがとても楽しみなくらいですよ。まだ一学年のうちは、有名な哲学者の書いた本を読み込ませるというのが第一なんですが、ニーチェにデカルトにショーペンハウアー、ヒュームやキルケゴールなどなど、あのくらいの歳で熱心に読む子というのも珍しい。彼は他に神学にも相当興味があって、アウグスティヌスとかトマス・アクイナスとか、課題図書に出されなくても自分で図書館で借りてきて読むようなタイプの子ですよ」

「あの子、小さい時から本が大好きで、屋敷にある図書室の蔵書は、興味のあるものは片っ端から読んでるみたいなんです。わたしなんて、ほら、高校もろくに卒業してないものですから、たまにあの子がそうした何かの引用をしてもさっぱり気づかないくらいですわ。でも、わたしも馬鹿な人間なりにわかってはおりましたの。アンディは特別な子だから、変に屈折した方向にあの子が逸れたりしないようにすることが、何よりも一番大切なんじゃないかって……」

 アームストロングは人好きのする笑顔で笑うと、妻の焼いた自慢のスコーンとクロテッドクリームを勧めた。ロイヤルアルバートのティーカップを持ち上げ、ソフィは紅茶を少し飲んでから、遠慮なくスコーンにクロテッドクリームやジャムをたっぷりつけて頂くということにした。

「確かに、アンディくんは危うい子ですよ」

 若くハンサムな校長は、ロットワイラー犬のカフスのついたストライプのシャツに濃紺のズボンという格好で、不意に手首を組み合わせて真面目な顔つきになっていた。

「わたしは哲学を専攻している教師ですからね、もちろんアンディくんのような教え甲斐のある生徒がいるのは喜ばしいことではある。けれど、あの子くらいの歳でそのくらい哲学の本を読んでいるというのは、むしろ異常と言わねばならない。彼以外の生徒は大抵が、授業で読まされるから仕方なく勉強するという場合がほとんどです。しかしながらアンディくんの場合は、幼い頃からおそらく心の中の埋められない空白を哲学的な何かによって埋めねばならない事情があったのでしょう。ええと、確かアンディくんはとても面白いことを言っていましたな。自分の人生にもしあなたが現れなければ、今ごろ自分は間違いなく内側もさ男だったとかなんとか……」

 ソフィはなんとはなし、ここで少しばかり顔を赤らめた。手にしていたハンカチで、口許を少しばかり押さえる。

「まあ、これであの子がどのくらい校長先生のことを信頼されてるのかがわかったようなものですわ。確かに、わたしがあの子の父親と結婚したばかりの時、あの子は内に篭ったところのある子だったんです。おばあさまが基本的な躾けといったことはしてくださったようなのですけど、でも母親の愛情に対する飢えというのは、本当にどうしようもないものですもの。わたし、それでもあの子があんなに自分に心を開いてくれるとは思ってもみませんでした……ありていに言えば、お互いに馬が合ったということですわね。わたしのほうでも今では、あの子の父親よりも義理の息子のあの子のことのほうを愛しているくらいですわ。そういう意味では、母親というものが、自分の夫よりもやがて子供のほうをより深く愛するようになるっていうのに、似ているのかもしれません」

 フェザーライル校は、政財界の要人の息子がよく通っている私立校である。ゆえに、生徒のプロフィールの一部として、父親がどういった職業に就いているかというのはアームストロングにとっても非常に重要なことであった。バートランド・フィッシャーは指折りの実業家であると同時に、有名モデルや女優と浮名を流した過去から、今でもその文脈でマスコミに語られることがあり、そのような億万長者の現夫人ということで、経済誌はもちろんのこと、安っぽいゴシップ誌でも、アームストロングはソフィのドレスアップした姿というのを何度か見たことがあった。

「こんな質問をするからといって、何もわたしは特別、あなたの家のプライヴェートなことに口出ししようというのではないのですが……ご主人との結婚生活はうまくいっておられますか?」

 何やらすべてを見透かしたようなところのあるこの校長に対し、ソフィは何故か突然苦手意識のようなものを感じはじめた。それはもしかしたら、向こうはこちらのことを色々聞くことが許されているのに、ソフィのほうでその逆となることは出来ないという気まずさから生じたものだったかもしれない。

「どうしてですか?あの人は確かに……他に浮気している女性があるかもしれませんけど、わたしは最初からそんなことは承知の上でした。その、少なくともわたしとしては、アンディが立派に成人するか、大学でも卒業するかしない限りは、あの人と別れるつもりはありませんの。向こうがわたしよりももっと若い女と結婚したくなったというのでもない限りは……」

「そうでしたか。いえ、随分立ち入ったことをお聞きしてしまい、失礼しました。単にわたしはアンディくんのことが心配だったのですよ。彼から話を聞く限り、アンディくんは実父との精神的繋がりはないも同然のようだったので……ここでもし実の母とも慕うあなたとこの父親とが離婚した場合、もっと言うならあなたのほうに他に恋人でも出来た場合、彼の被る精神的痛手というのは、学業のほうにも非常に影響するだろうと思ったもので……」

「そうですか。でもその点についてはたぶん……大丈夫ですわ。お金云々ということだけなら、わたしもとっくにあの人とは別れています。でも、アンディがいるから、あの子と一緒にいるために、どうにか結婚生活のほうはうまくやろうってずっとそう思ってきたんですもの。なんにしても先生、わたしが心配してるのは、もうすぐある学期末試験のことなんですわ。何分、三週間も学校を休んでしまいましたし、あの子、ちゃんと進級できますでしょうか?」

「その点は、保証しかねますね」組んでいた手を解くと、アームストロングは優しく微笑した。「おそらく、教師や同級の子たちが手を尽くしてアンディくんには試験に出そうなところを集中的に教えてくれるでしょうが、それでも落第点を取ってしまえばそれまでです。でもまあ、それでも追試のほうで受かればギリギリどうにかなるでしょうし、100%絶対とはいえませんが、こういう時こそ普段の授業態度がものをいうといったところですよ」

 そう言ってアームストロングが最後ににっこり笑ったため、ソフィは安心して校長室を辞去することが出来た。同室のザカリアス・レッドメインをはじめ、アンディには親しい友人がクラスに何人もいるため、よくまとめてあるノートなどを貸してもらえるに違いないし、きっとこんな時期に病気をした彼を気の毒がって、教師たちも助けの手を差し伸べてくれるだろうとソフィは期待した。少なくとも、アームストロングの最後のほうの言葉について、彼女としてはそういうふうに解釈したのである。

 ただ、そのこととは別に――ソフィには少しばかり心配なことがあった。最初、アンディの手紙に<レッドメイン>という名を見つけた時、ソフィはウィリアム・レッドメインの親戚筋の子だろうかと、なんとなく不安な気持ちを覚えたのである。のちに義理の息子の口から彼が、「医療一族レッドメイン家の一員」であるといったように聞き、「やはりそうなのだ」と思いはしたものの……ウィリアム・レッドメインやその妻のクリスティンや母親のアリッサとは、その後社交パーティの席などで顔を合わせたことがあった。その際に一度ウィリアムとも話をしたし、そういう意味でもう問題はないと思うものの、それでもやはり<レッドメイン>という名を聞くと、今も後ろめたい何かを感じるソフィなのだった。

 校長の邸宅を出、職員の駐車場にソフィが向かう途中、彼女は考えごとをしていたせいもあって気づかなかったのだが、これから化学室へ移動するために廊下を歩いていたアンディのほうでは、当然この目立つ義母の存在に目敏く気づいていた。

「あれがおまえの継おっかさんか。噂で聞く通り大した美人だな」

 この日、ソフィはモスグリーンのスーツを着ていたのだが、その姿は遠目から見てもなかなか決まっており、校長に挨拶しにきた保護者というよりも、どことなく映画の撮影に入る女優がわざと目立たぬ格好をしてきた……といったように見受けられたものである。

「ふうん。けどどうせ、整形するなり、豊胸手術するなりしてるんだろ?」

 何分、普段は男の教師ばかりに囲まれているせいか、何かの機会に学校に女性が訪れたとなると、生徒たちの目は自然そちらのほうへ釘付けになった。この時もちょうどそうであり、駐車場のある側の窓には、何人もの生徒が張りつくようにしてランドクルーザーとソフィのほうへ視線を送っていたといってよい。

「ばかっ!おばさんは確かに時々、美容体操とかいって鏡の前で変な顔してるけど、だからって整形とかはしてないよ。エステとか、そんなのには行ってるけどね。なんにしても僕、ちょっと挨拶してくるから、これ化学室まで持ってってくれ」

 アンディは教科書といった勉強道具をアーサー・ウォルシュに押しつけると、一番近い非常ドアを抜けて駐車場のほうへ一目散に駆けていった。そして愛する義理の母に、三週間も学校を休んでどうなることかと思ったが、同級生や先生たちが非常に心配してくれ、遅れた分についてはみなの協力でどうにかなりそうなこと、そうした友情に感謝するとともに感激したことなどを、時間がないので早口にまくしたてたのだった。

「そう。それは良かったわね、坊や」

 ソフィはまた少しの間会えないのを寂しく思いつつも、一流私学校の制服を着た義理の息子のことが誇らしくもあり、堪らない気持ちになってアンディの額や頬に別れのキスをした。アンディのほうでもキスを返すと、鐘の音が鳴るのと同時、化学室のある建物のほうへ慌てて戻っていく。

(あの子に次に会えるのは、夏休みだわね。ここの子たちはお金持ちばかりで、ヨーロッパとか色々、外国へ行くのが普通みたいだから……ヴァ二フェル町へ遊びにいって帰ってきただけなんていうのは、話の種にならなくて困るかもしれないわ。今年はあの子が昔言ってたイースター島にでも、一度出かけてみたほうがいいってことかしら)

 だが、アンディとソフィはその夏もやはり、ヴァ二フェル町の海辺の別荘で大半の時間を過ごした。アンディはザックをはじめとする友人たちが丁寧にポイントをまとめて移してくれたノートのお陰で、どうにか進級試験のほうはパスし――夏休み前に行われる盛大なキャンプ・ファイヤーの篝り火を囲い、最終学年の先輩たちとの別れを惜しむと、二か月ほどもある夏休みを過ごすため、懐かしきノースルイスの邸宅へと帰ってきた。

「お坊ちゃまは風疹やおたふく風邪については済ませなさっておいでだったのに、はしかだけはお小さい時にかかってなかったんですねえ。なんにしても、お元気な姿を見られてサラは安心しましたよ」

 屋敷の玄関口で、サラがいかにも心配気にそう言うのを聞いて、アンディはなんだか照れくさかった。アンディにとって最古参の女中のサラというのは、あくまでも屋敷の従業員だったが、それでもサラにしてみれば「ねえ、サラは一体いつサライからサラになったの?」と聞く、幼い頃のイメージがいつまでも抜け切らないのであった。

 ニース湖のほとりで看病してもらったというあの一件以来、アンディとソフィの間には、ますます分かちがたい深い結びつきが生まれていた。アンディはこの美しい義理の母のことを心から愛していたし、それはソフィのほうでも同じであった。そして互いに同じほどに深く愛しあっている者同士にとっては、言葉による確認は必要ないように――ふたりはその夏もまた、ヴァ二フェル町で心楽しく仲良く過ごした。

 まずは荒れた庭を整備すると同時に、去年植えた球根や種などが、思った以上に成長したり花開いたりしているのを見ては喜んだり……ソフィとアンディの間ではもはや、<特別な何か>というものは一切必要なかった。ただふたりで一緒にいて、近くの森を散策したり、同じ場所に寄り添っていられるというそれだけで、十分だったのである。

 ところがアンディとソフィがそのような、隠居後の夫婦にも似た関係にすっきり安んじていた頃、思ってもみない不意打ちのような嵐がふたりを襲うことになった。ある日アンディがブラッドやエイデンに会って帰ってきてみると、海辺の家の前に見たことのない車が止まっていた。そしてアンディがそのことを不思議に思っていると、居間のほうから見知らぬ男の声が聞こえてきたのである。

「あんた一体、何年あたしの前から姿を消してたと思うのよ!?」

「そう怒るなよ、ソフィ。俺だって、ここ数年は色々あったんだ……おまえが結婚したって知った時はショックだったぜ。けど、相手はコブ付きとはいえ仮にも億万長者様だもんな。おまえのためを思うなら、潔く身を引くべきかと思ったんだ」

「じゃあ、なんで……なんで今ごろになって会いに来たの?あたしはもしかしたらあんたが危険な事件にでも巻き込まれて死んだんじゃないかって、ずっとそう心配してたくらいなのよ!?それを……ようやく胸が痛まないでもあんたの顔を思いだせるって頃になって会いにやってくるなんて、ひどいじゃない!!」

 アンディはキッチンに通じる側のドアから、その男女の会話を盗み聞きした。ソフィの声は取り乱しているからというのではなく、明らかに自分や父親と話している時とは違う調子のものだった。アンディは直感した。この男がおそらくは、義理の母がその昔「一番に愛している」と語ったその相手なのだろうと……。

 ふたりは抱きあってでもいるのかどうか、このあと暫くの間沈黙が続いた。だが、アンディはそこから動かなかったし動けなかった。今の短い会話の内容からだけでも、アンディにはある程度のことまでは推測できた。男の声の調子から察するに、定職に就くといったタイプの男でなく、何か裏の稼業にでも関係していて、それでソフィは彼が何がしかの事件に巻き込まれ、死んだのかもしれないと思った。そしてそんな折に父親から求婚を受け、承諾した……そんなところだったのではあるまいか。

「ソフィ、おまえは俺のものだ。そのことはおまえだってわかってるはずだ。何も俺はあの男と別れろなんていうつもりはない。それはおまえの好きにしたらいい。ただ、俺はおまえにもう一度自分のものになれと、頼む必要さえないんだ。何故といって、そのくらいおまえは俺のものだからだ。おまえと別れ別れになってる間、俺にも何人か他に女はいた……それでも俺がおまえのものであることに、その間も変わりはなかった。そのことはおまえにもわかってるはずだろう?」

 普通に考えたとすれば、男の言っていることは滅茶苦茶であるはずだったが、妙に説得力があった。そしてまた深い沈黙が続いた時、アンディは今度ははっきりと直感した。ふたりが間違いなくキスを――それも、自分が義母といつも交わしているのではない、恋人同士のキスをしているのが、見なくてもはっきりわかったのである。

「ああ、愛してるわ、セス」と、絞りだすような声でソフィが言うのをアンディは聞いた。「あんた以外に、あんた以上に愛せる男なんて、他にいるわけないわ。なんにしても、最初から順番に聞かせてちょうだい。どうして何年もずっと音信不通になったのか、その理由をね……」

 ふたりの話が長くなりそうだと思うのと同時に、流石にアンディもそれ以上盗み聞きを続けられなかった。いや、本当はそのまま義理の母が何をどう思っているのか、彼女の本心を腹の底まで聞いて知りたいと思う気持ちはあった。けれど、それ以上長くその場にいては、いずれ気配を気取られることになると、アンディはそう思ったのである。

『ああ、愛してるわ、セス。あんた以外に、あんた以上に愛せる男なんて、他にいるわけないわ』……その言葉は、アンディの心を打ちのめし、のちのちまでも蝕み苦しめた。では、自分は義理の母にとっては二番手、一番に愛する男がいなくなったあと、心に持て余していた愛情のはけ口でしかなかったということなのか?

 アンディはすっかり取り乱した気持ちのまま、裏の林の道を歩いて、<妖精の泉>や<蛍ヶ池>のあるあたりまで散歩した。流石にあの男のことを、古い友人だなどと偽って、海辺の家に泊めたりすることまではあるまいと思われたものの――(もしおばさんが父と別れて、あの男と一緒になるために僕を捨てたとしたら?)……そんな疑問が心に思い浮かんでくるのは、アンディにとってなんともたまらないことだった。

 この時すでに、アンディの中で父親のバートランドのことは、なんの問題にもなっていなかった。何故といって、ソフィの中では夫である彼よりも自分のほうをより愛しているという気配があり、その一事をもって自分は『表面上はどうあれ、父に打ち勝っている』との確信があったからである。だが、その点セスとかいうあの男には――何を持ってしても自分は勝てないだろうとアンディは直感していた。

(なんだ、そうだったのか。おばさんにとって僕はただの……最愛の男がいない間の、ちょっとした代役みたいなものだったんじゃないか?そうだ。たとえば恋人を失って、犬を飼うことで心を慰めるみたいな、そんなことさ。けど、一口に離婚するといっても、父さんはあのとおりの人だからな。もしおばさんに不貞の事実といったものを見つけたとすれば、徹底的に痛めつけるような形で屋敷から追い出すかもわからないぞ)

 アンディは轍のついた道に大振りの枝が落ちているのを拾い上げると、ムシャクシャする思いであたりの草という草を打ち叩き、薙ぎ払った。アンディにとって普段は思いも寄らないことだったが、初めて小動物をいじめる子供の気持ちがわかったような気さえしたものである。だがアンディはそのかわりに、<蛍ヶ池>のほとりで、石を手にとっては空を映す水の面に投げつけ、そのことで鬱憤を晴らした。そして息が切れるくらい何度もそうしたあと、ようやく怒りと苛立ちの気持ちとが静かに抑えられてきた。

(よし、落ち着いてこれからのことをよく考えよう。第一に、おばさんはあの男がてっきり死んだものと思っていたんだ。そのかつての恋人が突然ひょっこり会いに来たとなったら……あんなふうになるのは当然のことだ。大体、父さんも普段から素行のほうが悪いからな。おばさんが仮に浮気をしていたとしても、とやこう言える義理じゃあるまい。おばさんはこの四年というもの、実に僕に良くしてくれたし、それはただ犬を可愛がるような愛情とはかけ離れた、本当に情愛のこまやかなものだった。僕はそのことをおばさんにもっと感謝すべきだし、もし仮におばさんが父さんと別れてあの男と一緒になるのだとしても……とやこう言える権利は、父さん同様僕にだってないんだ)

 アンディは地べたにごろりと横になると、鳥や蝉の鳴き声に耳を澄ませた。こうした自然のただ中にいると、日ごろ自分の悩んでいることがひどくちっぽけに思えてくるものだが、この時のアンディにとっては違った。その悩みというのが宇宙よりも大きいように感じられる時には、自然でさえも大した癒しにならないのだと、アンディは初めて知ったのである。

(そうだ。僕はまず、家に帰ったら、おばさんとよく話しあわなきゃ。二年に進級した一学期にある日突然、おばさんが駆け落ちしたなんて知らされたくないからな。それにしてもあの男は今ごろになって何故おばさんに会いに来たんだろう?家の表に止まっていたスポーツカーはたぶん、二十万ドルくらいはするはずのものだ。といっても僕は、車には大して詳しいわけじゃないけど……そのあたりから見て、金の無心に来たというわけではあるまい。いや、そうじゃなくて逆も考えられるか?実は金に困っていて、おばさんが父さんと別れた慰謝料を目当てにしてるとか……)

 アンディはここまで考えると、にわかに心に希望の光が差し込んでくるのを感じた。突然か弱い義母のことを、堕落させる背徳の悪魔より守ってやらねばならぬといったような、いかにも少年らしい健全な正義感が、嫉妬で暗く濁った心の内に沸々と湧いてきたのである。

「そうだ。もしそうなら、この僕こそがおばさんのことをあの男から守ってやらなきゃいけない!!」

 アンディは突然、苔むした倒木を見上げる位置から立ち上がると、膝丈のジーンズと白いポロシャツの埃を払い、こちらへやって来た時とはまったく別の興奮した面持ちで、海辺の家へ戻っていこうとした。腕時計を見ると時刻は午後の四時半である。あれから一時間ほど経っていたとはいえ、何しろかつての恋人同士が再会したのだ。ふたりは時が経つのも忘れ、まだ色々なことを語りあっているかもしれない。

「いや、よく考えろ、アンディ。まずは相手の男がどんな奴なのかを知らないことには、どんな策も打ちようがないからな。家に戻ったらまず、ガレージの脇にでも隠れて、相手の男の顔をとくと見てやろうじゃないか。男の顔がいかにもずる賢そうな感じだったら、その時はよく考えるんだ。僕はまかり間違ってもおばさんとだけは喧嘩したくないからな……言葉選びのほうはくれぐれも慎重にして、ここはひとつ話し合いをしなけりゃ……」

 誰も聞いていないとはいえ、思わず自分の考えを口に出して言っている自分に、アンディは一瞬笑ってから駆け出そうとした。ところが、その瞬間森へ続く林道を、ど田舎にはまったく似つかわしくない高級車のマセラティが通っていくところだったのである。

 アンディは運転席に乗っている男の顔をしかと見たが、助手席にソフィの姿がないのを見てつくづくほっとした。それと同時に何故あの男はこんな田舎町まで義母のことを追いかけて来たのだろうとも思った。実をいうとアンディはそのことにも許せないものを感じていたのである。ノースルイスの屋敷のほうにでも電話をかけ、街の喫茶店かどこかでこっそり会っていたというのならまだわかる。それをよりにもよって、自分とソフィの聖域である場所にずかずか入りこんできたからこそ……。

「なおのこと腹が立つんじゃないか!!」

 アンディは地べたからもう一度大枝を取り上げると、周囲の藪を薙ぎ払い、男のあとを追っていくことにした。近くの森や山深くに入っていける林道はいくつもあるが、ここの道は途中の広場で行き止まりになっている。ゆえに、そこからまた男が引き返してくるであろうとアンディにはわかっていた。だからこそ、草むらにでも姿を隠し、あの男が道を戻ってきた時に、車に大きな石でも投げてやるつもりだった。

「はははっ!!想像しただけでも愉快だな。ゴツンとかいう音がして、男は腹の立つあまり外に出てくるだろう。けど、僕は絶対見つかったりするようなヘマはしない。車に傷がついてるのを見て、せいぜい不快がるがいい。それだって、僕からおばさんを取っていくことを思えば、大した傷でもないだろうよ」

(僕が今心に感じている傷に比べたら……)

 アンディはそこまで思って、不意に涙がこみ上げてくるのを感じた。けれど、この場で泣くということは、あのセスとかいう男に対し敗北を認めたようで、アンディはなんとかぐっと涙をこらえ、森に続く道を走っていった。

 果たして人生というものは、それがどんな時でも、本人にさえその気があればユーモアというものを見出せるものなのだろうか。この時アンディは道の途中で蛇がのん気に昼寝している姿を見た。いや、アンディは蛇という生き物が昼寝をする生き物なのかどうか、よくは知らない。だがその蛇はおそらく、車がやって来た時にもそこにいたのだろう。ほんのもう十センチばかり体のくねり具合を間違えたら、車のタイヤに巻き込まれていたろうに――その茶色っぽい蛇は、地面にぐったりと身を伸ばしたままでいたのである。

「おい、おまえ。またあの車は引っ返して来るぞ。そしたら次は轢かれて死ぬかもしれない。そのこと、理解しているか?」

 そんなふうに話しかけながら、手に持った木の枝で蛇の奴めをアンディはつんつんと突ついた。ところが蛇のほうでは反応が鈍く、アンディがさらにもう一度ちょっかいを出していると、ようやくハッと目が覚めたとでもいうように、近くの草むらへ姿を消していったのである。

「やれやれ。なんという鈍い、馬鹿な蛇だ」

 アンディは、あの蛇が助けてやった恩も忘れ、がぶりと噛みついてくるのではないかなどと恐れるでもなく、自分もまた同じように草むらの中へ姿を隠し、男が戻ってくるのを待った。ところが三分ほど待ってもブルーのマセラティがやって来ないので、イライラしたアンディはさらに道を先へ進んでいった。すると、林を抜けたところにある、見晴らしのいい広場のところに男は車を止め、暫くそこに立ち尽くしたままでいたのである。

『そんなこと駄目よ、セス。それにわたし、子供がいるの』

『子供だって?あの男は先妻が自殺して死ぬのと同時に、パイプカットの手術をして、女遊びに磨きをかけたといったような下種じゃないか。そんな男と別れるのに一体なんの遠慮がいる?おまえの言ってる子供ってのは、先妻とバートの間に出来たガキのことだろう?そいつだって今は寄宿学校に通ってるんだし、俺とおまえが一緒になるのに、一体なんの問題が――』

 そこまで言いかけてセスは、自分がこれまで見たことのないような、ソフィの母親としての顔を見た。それはどこか冒し難い神聖さを宿したような顔の表情であり、セスはその瞬間何かに打たれたような気さえした。と同時に、彼女の中にこういった面があればこそ、自分はこの女のことが忘れられないのだろうとも思ったのである。

『まさかおまえ、あの男の金じゃなくて、あの男自身のことを愛しているとか、そんな寝言を俺に言いたいわけじゃあるまい?』

『問題はバートじゃないのよ、セス。あんたの言うとおり、あたしはあの男の金と結婚したようなものだもの。けど、もしそれだけだったとしたら、あたし、今生きてるかどうかわからないわ。金目当ての結婚って、思った以上に惨めなものよ。それでも赤ん坊でもいたらね、違ったかもしれないけど、子供がなくて夫の女遊びさえ黙認してれば金は使い放題だなんて……世間の人はどう思うか知らないけど、そんなことしてたらまったくもって頭がおかしくなるわ。でもね、バートの息子は本当に可愛いの。あの子のためだったらわたし、今じゃどんなことでも出来る気がするくらいなのよ』

 セスはここで、理解できないというように首を振った。互いに抱きあい、キスを交わし、その瞬間に――いや、出会った瞬間からすでに、セスには昔ながらの引力がソフィと自分の間を支配しているとわかっていた。そしてそれは彼女にしても同じなはずなのに。

『あの子、不幸な子なのよ。ううん、不幸な子だったと、過去形で言うべきかしらね。今は国内随一と言われる私立校にも入って、友達もいてある程度は独りでも大丈夫なようだけど……でもやっぱり、成人するくらいまでは親の支えってものが必要よ。わたしの十代の頃を振り返ってみたとしても、はっきりそう言えるくらい。今、あたしとあんたが駆け落ち同然にいなくなったとしたら、あの子、物凄く傷つくわ。それこそ、うちの両親が離婚した時にあたしが傷ついたとか、そんなのは全然問題にもならないくらいね。因果っていうのはどうも、巡るものらしいのよ、セス。あたしはあんたのことが好きでどうしようもなくて、ウィリアム・レッドメインのことを傷つけたわ。あんたはたぶんそれがどうしたと思うでしょうげと、ウィリーの親戚のレッドメイン家の子が、今アンディと同じ学校に通ってるんですって。あたしはね、セス……あの頃は若かったから仕方ないって、本当にそう思うわ。時計の螺子を巻き戻せたところで、結局あたしはあんたを選ぶってこともわかってる。でも、あれからもう十年にもなるのよ。その間にわたしもわたしなりに分別ってものを身に着けたつもりだし、いつまでも若い頃と同じように衝動だけで行動したりは出来ないのよ。あんただって、そのことはわかるでしょう、セス』

『ようするにおまえは……俺よりもそのバートのガキのことを選ぶってのか、ソフィ』

 ソフィは泣きださんばかりになりながら、目頭を抑え、溜息を洩らした。

『時間が必要なのよ、セス。あの子がもっと大人になって、他にガールフレンドでも出来て、ソフィおばさんのことなんかもうどうだっていいやってくらいになるまでは……わたし、あの子のそばにいてやりたいの。アンディにはまだわたしが必要なのよ。もしここで無責任に自分の親としての責任を放りだしたら、わたし、きっと一生後悔するわ。それに、あたしがバートとの結婚を選んだのも、ある意味理由あってのことよ。あたしはあんたに捨てられたと思ったし、五年も一緒にいれば恋愛の妙味なんてものも消えて薄くなってくる……今あんたがあたしを追ってきたのは、かりそめにもあたしが別の男のものになったからよ。じゃなかったら結局あたしたち、別のことが原因で、あのまま別れていたと思わない?』

(そんなことはない)とは、セスには言えなかった。自分もまたバートランド・フィッシャーとは事情が違うにせよ、仕事で彼女以外の女性とも寝るという生活だったのである。自分たちの関係が長く続いたのは、まず第一にソフィの忍耐があったからであり、彼女の堪忍袋の緒が切れればそれまでだとは、セスも理解しているつもりだった。

『俺は、事を急ぐつもりはないんだ、ソフィ。ただバートランド・フィッシャーってのはああした男だし、俺はてっきりおまえがこの男についたコブを押しつけられて、不幸な結婚生活を送ってるかもしれないと思った。そのくらいなら俺と逃げようって言いたかったんだ。けど、おまえの言うとおり、俺たちが離れてからもう五年になるからな。その間俺だって昔と同じように詐欺師稼業ばかりしてたってわけじゃない。つまり、おまえの言うように俺だって少しは……いや、かなり変わって成長したといってもいいくらいだ。だから、そのバートのガキとやらが十分育つまで、待ってもいい。それまでにおまえは、俺の渡したこの資料でも参考にして、最終的に夫と離婚することを考えろ。それまではまあ、おまえの夫が妻の不貞を疑わない程度の頻度でしか、俺たちは会えないな』

『セス、セス……!!』

 その時ソフィは食堂のテーブルに座ってセスと話していたが、愛しい男のことを両足で挟みこむと、自分のほうから彼の首に手を回し、何度もキスをせがんだ。

『それにしても、もう十三にもなる図体のでかいガキのために、俺とおまえが一緒になれないとはな。おまえ、そのガキとは本当に何もないんだろうな?俺が十三の頃におまえみたいな胸のでかいおっかさんが間近にいたとしたらば、まず間違いなく親父のベッドで寝てるな。あてつけと復讐の意味もこめてさ。おまえ、その点は大丈夫か?おまえは自分の母親としての愛情が必要なんだとか言ってるが、向こうじゃ事情がちょいと違うかもしれないんだぜ。そいつが十六くらいになった時に、いきなり寝室に入ってきてレイプでもされたら……』

『もう、あんたときたらどうしていつもそうなのよっ!!』

 ソフィはセスの体を押しのけると、テーブルから立ち上がり、自分の口許をぬぐった。彼女はこの時突然冷静になった。もしかしたらそろそろアンディが帰ってくるかもしれないと思ったのである。

『アンディはね、あんたと違って品行方正ないい子なの。すぐそうやってなんでもかでも性的なことに結びつけるような下種とは違うんですからね。本当に、とってもいい子なのよ。もしあの子がいなかったらわたし、今ごろ生きてないかもしれないわ。それか酒にでも溺れて矯正施設に入ってたかもしれないし。わたし、ある時からアンディのことをあんたとあたしとの間に出来た子だと思って育てることにしたの。だから今ちょっと混乱してるわ。本当はあんたとの間に出来た子なのに、バートには偽りを言って彼と金目当てに結婚したって、わたしの頭の中じゃ長くそういうことになってたもんだから……』

『なんだ、そりゃ。おまえ、大丈夫か?あんまり暇な主婦をやってて、昼メロを見すぎたか、さもなきゃ欲求不満の女がハーレクイン小説を読みすぎたかっていうくらい危うい妄想だぞ。なんにしても、その俺の妄想上の子供にちらっと会ってから帰りたい気もするが、俺がここにいたんじゃ義母の欲求不満を悪い男が鎮めにきたとしか思わんだろうな』

『そうよ、セス。とりあえずは一旦、今日のところは帰ってちょうだい。あの子がまた寄宿学校に戻ったあとでなら……わたし、多少無理をしてでもあんたと会うわ。でもこの海辺の家じゃ駄目なのよ。わたしの良心にかけてもそういうことは出来ないの』

『わかったよ。俺の計算じゃあてっきり、おまえが俺を見た瞬間に涙でかき暮れてベッドでもどこでも押し倒してくれって感じになるかと思ってたんだがな。まあ、当てが外れて残念だが、たまにはこういうのも良かろう。今日のところは負け犬よろしく引き下がるが、その代わり、次に会った時には覚えておけよ、ソフィ』

 そう言ってセスは、ソフィがアンディのために作ったアプリコットタルトをつまみ食いし、もう一度彼女と何かの約束を交わすようにキスしてから、玄関口で別れたというわけだった。

 セスはそのあとすぐにサウスルイスへ向けて車を走らせるでもなく、なんとはなし脇にあった林道にハンドルを向けていた。このまま真っ直ぐサウスルイスの高級住宅街へ戻る前に――セスとしてはなんだか、頭の中を整理したいような気がしたのある。そこで誰も邪魔する者のない自然の草原の中で風に吹かれようと思ったのだが、セスはそのことを後悔した。何故といって、辿り着いた先は行き止まりの原っぱであり、そこでは十数頭ばかりもの鹿がのんびり草を食んでいるところだったからである。鹿たちは、まるで見慣れない化学兵器でも突然見たかのように、四方八方へと即座に逃げ去っていった。

 セスは車から一度下りると、微かに鹿が地面を蹴る音を聞きながら、暫くそこでぼんやりと風に吹かれていた。セスはかつての恋人が、自分の姿を見るなり泣きながら抱きついてくるに違いないと想像していた。いや、その部分は確かにその通りではあった。だがそのあとの話の展開というのは、彼が想像していたものとはまるで違っていたのである。

 セスはまさか自分が、たかだか十三歳の小僧っ子に負けるとは思ってもみなかった。ゆえに、彼が調べたのは主にバートランド・フィッシャーのことばかりであり、ソフィがどうすればもっとも有利に慰謝料をふんだくって離婚できるかというプランを、詳細な資料とともに提示するつもりだったのである。

(やれやれ。その坊主とやらが成人するまでに、まだ七、八年はかかりそうじゃねえか。いや、大学に入る年齢の十七、八くらいの頃を成人とするにしても、あと五年か。俺はあいつが結婚したいと思ってた時に同意せず、今度は逆の立場になってみると、思ってもみないような理由で今度はあいつのほうが承知しやがらないとはな……ま、それも俺たちらしいといえば、いかにもらしい気はするが)

 セスがソフィと連絡を取れなくなったのは、彼女に内緒で私立探偵の資格を取得するため、専門の学校へ通っていたせいであった。そして私立探偵の公式ライセンスを取得した時に、セスは驚いたことには国の諜報機関にスカウトされたのだった。セスのことを諜報機関に勧誘したケースオフィサーは、最初は自分の身分を明かさず、いくつかテストケースとしての事件を解決させてから、セスの素質を買いたいと言ってきた。

 無論、それは簡単なことではなかった。まず第一に、諜報員の一員となるためには自分の過去を一切捨てねばならないし、その後国の極秘機関で積まされた訓練も、ほとんど常軌を逸したようなものだったといえる。だがセスはそうしたことすべてに耐えた。何故といえば、そもそも彼が私立探偵のライセンスを取得したのも、ソフィが口に出さないまでも「堅気になってほしい」というような顔を時々していたからだし、一度は過去を捨てたにしても――やがては自分の本名を取り戻し、愛する女に十分満足のいく幸せな暮らしをさせてやれるだろうと彼は思っていたのである。

 だが、国の諜報機関の一員として捨て駒になる気はセスにはなかった。そこで、命の危機を感じるような任務をいくつかこなしたあと辞職し、ミステリー小説を一作書いた。それは一私立探偵が国の諜報機関にスカウトされるという物語で、あまりに荒唐無稽なので、かなり事実が入り混じっているにしても、誰もそれを本気にはしないだろうといった内容の話であった。実はこの小説が結構売れて、映画化の話も舞い込んできたことにより、セスは今やサウスルイスの高級住宅街に住まうまでになっていたのだが――そうした自分の望んでいたものすべてが手に入ってみると、彼はかつて自分が諦めたもの、恋人のソフィのことが恋しくてたまらなくなったのである。

(他の女では、あいつの代わりはまるで務まらんからな。そのことを思えば、五年くらい待つ値打ちは十分あるさ)

 セスはそう理屈で納得し、またソフィの前では冷静にクールな男を演じきってはいたものの、やはり腹の底では鬱屈とした思いや嫉妬という名の感情が沸き起こっていた。第一、その五年の間、仮にもし意に染まなかったとしても、ソフィは夫に抱かれるということが当然あるだろう。またその部分で彼女が<まったくの用なし>であったとすれば、バートランド・フィッシャーという男はとっくの昔にソフィと別れていたに違いなかった。

(因果は巡るとは、まったくあいつもよくいったもんだな。これじゃあまるで、俺が昔他の女を抱くのをあいつに容認させたことの、逆のことが起きてるみたいじゃないか。もっとも、あいつのほうで故意に俺に嫉妬させたいとか、そういう気があるわけじゃないとわかってはいるが……それにしても十三にもなるガキのために、今離婚することは出来ないと言われるとはな)

 セスは写真でしか見たことのないバートランド・フィッシャーの息子に対しても、何か奇妙な嫉妬に近いものを自分が感じているらしいと気づいていた。親父が愛情のあの字もない女遊びの激しい性豪であることや、そんな男と結婚したことで鬱病になった母親が拳銃自殺したことに対しては、おおいに同情もしよう。だが、セスは自分が十三の時、孤児院でいかに惨めな生活を送っていたかを思うと、アンドリュー・フィッシャーという少年はいかにも恵まれているように思えてならなかった。何よりも、ソフィのような女がいて、母親代わりの役を務めてもくれるのである。もし自分が十三歳の頃にでも、彼女のような女性が継母だったとしたら――その一事を持ってしても、セスはフィッシャー親子のうちの両方から、今すぐにソフィのことを横から奪ってやりたい気がした。

(なんにしても今、あいつの意志はこの上もなく固い。今日のところは一旦黙って引き下がるしかないが、まあまた、風向きや旗色なんてものは、時の経過とともに変わっていくものさ)

 セスは周囲の樹木がざざあっと風にしなるのを最後に聞くと、胸のポケットから煙草を取りだそうとしてやめ、再び車の中へ乗りこんだ。車の排気ガスですでに自然を汚しているというのになんだが、セスは煙草の煙などでこのあたりの緑豊かで清浄な空気を汚したくない気がしたのである。

 こうしてセスは、元来た林道を戻っていこうとしたのだが、まさかそんな自分のことを尾けている少年がいるとは思ってもみなかった。草原が奥に広がるぽっかりと開けた場所からマセラティが出るか出ないかというところで――ゴツッという、恐ろしく鈍い音が車の後部でしたのをセスは当然聞き逃さなかった。

 最初セスは、車が何か異物にでもぶつかったのだろうかと思い、少し行ったところでマセラティを止め、車の後部をじっくりと点検した。随分嫌な音がしたわりには、とりあえず目立った傷はどこにもついていないようである。そこで安心して、もう一度運転席へ乗り込もうとした時のことだった。ヒュッと耳元で風が鳴ったかと思うと、顔のすぐ横を石つぶてが掠めていった。

「このクソガキっ!!姿を隠してないで出て来やがれっ!!」

 もちろん、こう言ったからといって、セスは石を投げた相手が即アンディであるとは思っていなかった。こんなことをするのはクソガキと相場が決まっていると思い、そう怒鳴ったまでのことである。

 セスは耳を澄ませてあたりの空気を探ってみたが、どこからも人の気配というのが一切してこない。そこで「チッ」と舌打ちしてから車に乗りこんだのであるが、マセラティを発進させるのと同時、またもリアガラスのあたりに何かが派手にぶつかる音がした。

 セスは今度は車を下りることはしなかったが、それでも――サイドミラーにちらっと自分と同じ鳶色の髪の少年の姿が映ったのを見て、途端に何かがおかしくてたまらなくなった。やり口のほうはいかにも<品行方正>な少年らしく陰険だったが、そのくらい彼のほうでもソフィのことを必要としているという必死さが伝わってきて、そのいじましさが何故か、セスの気に入ったのである。

(そうか。そういやあいつは、ソフィの話によると、俺との間に出来た妄想の子なんだっけな。よく考えてみれば俺も、たかが十三くらいのガキに本気になるだなんて、なんとも大人げない話だ。よし、ここは年上の大人の男らしくあのガキに勝ちを譲ってやるとして……まあその間はソフィが俺の思ったとおりにならなかったとしても、我慢するしかないな)

 セスは<妖精の泉>の脇を通り過ぎ、林道の出入口のあたりまでやって来ると、車の中で笑い声さえ上げながら、ヴァ二フェル町から去っていった。何故なのかセス自身にも説明できなかったが、自分の妄想上の息子に石つぶての攻撃を受けたということが、セスにはおかしくてたまらなかった。また、そうとでも思わなければ夫との結婚生活を保てなかったソフィのことが不憫であると同時に――戦争で死んだと思っていた恋人が戻ってきたとでもいうような今の自分の身の上に、突然セスは満足のいくものを覚えていたのである。



 >>続く。





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