飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

忌部氏とはサンカのことではないのか?

2014-07-12 22:13:58 | 日本論と宗教論
アメノマヒトツさんの記事に対して私が入れたコメントに、アメノマヒトツさんが非常に詳しい自説の解説を返信してくださいました。有り難いことです。先ずは感謝しなければなりません。このやり取りを通してアメノマヒトツさんの説に対する理解が深まったばかりか、いくつかの意外で刺激的な発見もありました。

今回は下に、その解説に対する私の返信を記事として上げておきたいと思います。

以下引用。

>トマスについてですが、彼はインドで殉教しています。つまりは彼も殺された。ですから、「イエスの磔刑後直ぐに、弟子達は皆殺された」と言った訳です。

「殺された」と見た瞬間、私の頭の中ではコンテキストを踏まえた上で当然、「小アジア以西のヨーロッパで、早創期のキリスト教会をリードしていた使徒達が全員、ヨーロッパのユダヤ周辺で暗躍していたエドム関係者によって殺された」と理解されました。

使徒の殉教と言えば、ヤコブを除いて誰一人として聖書の中には出てこず、全てがカトリックの伝承によるものなのだそうです(使徒以外ではステファノの殉教が描かれています)。従って、それらが史実であるかどうか、実は不確定なのです。ただ、今は仮に、史実であったとしておきましょう。この場合でも、

(1)エドムによるヨーロッパ教会の乗っ取り

と、

(2)神の権能を持った使徒の存続或いは消滅

というふたつの事柄を念頭に置いた上での使徒の殉教以外は、今ここでは何も問題となっていない訳ですから、ヨーロッパとはかけ離れた文脈の中で活動して殉教したトマスの存在は、この問題の考察には、極めて大きな影響を与えることになるのです。それとも、遠いインドの地にもちゃんとエドムのエージェントがいて、インドで神の権能を持ったキリスト教会が興隆することを妨げた。エドムの活動はかくも大規模で、執拗かつ有力なものだった、とでも言うのでしょうか?何れにしても、トマスのインド派遣と現地での殉教が、上述したようなふたつの問題において重大な意味合いを持つことに変わりはありません。私が指摘しようとしたのはそういうことなのです。

更には、次のような問題も残っています。即ち、使徒の一人が殉教しても、その欠員の補充が直ちに行われていた様子が『使徒行伝』や福音書に記述されています。ということはつまり、神の権能の保持には、イエスによって選ばれた使徒の人格そのもの以上にイエスが組織した機構の方に重大な意味合いが帯びるということです。ということは、使徒の殉教そのものは、神の権能の喪失にはそれほど重大な影響を持たなかったということにもなります。重大な影響を持つのは、殉教した使徒の欠員を埋めるだけの人材を使徒達が予め育成できていたかどうかであり、機構そのものが存続し、十分に機能していたかどうかなのです。

註:因みに、イエスが当時組織した機構は、イエスよりも遥かなる昔から存在してきたミトラス教の持っていた機構と、その構成の点で全く同じになっている(そもそも、聖書に記載されたイエスの生涯そのものが、ミトラスのものと酷似している。これは余りにも有名な話である)。しかも、興味深いことに、ミトラス教の機構において最上位の階層に当たる三人の代表者のシンボルマークは「大鴉だ」と、ものの本にはっきりと明記してある。これは、これもまた同一の構成を持っている賀茂氏の「大鴉」或いは「ヤタガラス」と全く同じ。これらの一致は、大いに注目に値すべき一致なのではないでしょうか?

ヨーロッパでキリスト教会から神の権能が喪われたのだとしても、トマスがインドに派遣されたということは、トマスを中心とするヨーロッパのものとは別枠の新たな機構がまたインドにおいて組織された可能性を意味しています。トマスは、インドにおいて神の権能を持った教会を打ち立てることなく殉教したのか、それとも、そのような教会を打ち立てた後で殉教したのか。後者の場合、神の権能を持ったこの、もうひとつの教会はその後、どのような運命を辿ったのか?こういったことも考慮に入れなければなりません。

註:彼が達磨であったなら、彼の教会の影響は間違いなく、インドからこの列島にまで及んでいたはずです。しかも、タツマと漢音で発音されるのではなくダルマと韓国語で発音されているものを我々は、我々に馴染みの深い文化事象のひとつとして自然に想起できる訳です。このことの意味も検討してみる価値が十分にある。

更には、これは飛鳥昭雄氏の指摘したことですが、ヨーロッパのキリスト教会以外には、インドのキリスト教会に加えて、エルサレムのキリスト教会もまた存在していました。これも神の権能を持った教会でした。この教会が神の権能を持たないというなら、他のふたつの教会の何処に神の権能を帯びる要素があるのか分からなくなると言って良いくらい、この教会が神の権能を持っていた可能性は高い。この教会がエルサレムを脱出して東洋世界に姿を隠した可能性が極めて高いという訳です。この点もちゃんと考慮に入れるべきでしょう。

列島で神の権能をかつて持っていたとアメノマヒトツさんが言う本当の秦氏、即ち忌部氏は、紀元前7世紀に列島に入ってきたとする場合には、イエスの教会以前の、バビロン捕囚直前のユダ王国に存在していた神の教会のひとつが枝分かれしたものと考えなければなりません。その場合は忌部氏以外にも、イエスの教会以前のこの同じ教会から神の権能を持って枝分かれした、忌部氏とは別の教会の中東における存在の可能性も考慮に入れなければならないことになります。でなければ、イエスの教会に先行する教会がこの時代、中東には存在していなかったということになる。イエスが一時期所属していた上に、彼等に取り囲まれる形でヨハネから洗礼を受けたことが分かっている、あのエッセネ派は、それと深く関わっていたに違いありません。

さて、忌部氏が列島に入ったのが紀元前7世紀ではなく、紀元後のイエスの死後で、忌部氏とはイエスの教会の枝分かれしたものに違いないと言う場合には、上記のふたつの教会の内、エルサレムのキリスト教会か、インドのキリスト教会か、どちらかが遥々東洋にまで移動してきたと考えなければならないことにもなります。この問題も、無視することが許されない。

>ところで、神の権能は喪われたと言いましたが、もう少し補足を入れましょう。正確には、神の権能は神によって、イエスの弟子達から取り上げられたということになります。パウロは「まず背教が起こる」と預言しました。異教徒からのクリスチャンへの攻撃より先に、クリスチャン自身による神への裏切りが起こる。そちらの方が重大だと強調したのです。

これは、上記の分析からも明らかなように、ヨーロッパのキリスト教会に限定される話です。インドのキリスト教会やエルサレムのキリスト教会にも当て嵌まる話なのかどうか?彼等も例外なく背教して神の権能を喪ったのか?そして、その隙をついたエドムに同じようにやられてしまったのか?

>飛鳥氏のヤタガラスが十二使徒という話についてですが、それは、教義上あり得ないと思います。ヤタガラスは、その組織の構成や運営法など多くの点で使徒の真似をしてるのかもしれません。が、飽く迄も神の権能は持っていないのです。ある教義がそのことを明確に知らせています。これは、モルモン書やジョセフ・スミスの証を読まないと分からない教義です。

飛鳥氏はヤタガラスとは、エルサレムのキリスト教会の流れを汲むものだと主張しています。これに対してアメノマヒトツさんは、ヤタガラスに教義上、神の権能があると考えることは許されないと言っておられる。ところが、その場合、いつからそうなのか?当初からなのか?後者の場合、エルサレムのキリスト教会そのものに既に、神の権能がなかったということになるが、その場合は途中のある時期からなのか?もしそうなら、それはいつどこで、どのようにして喪われたのか?などと問わざるを得ません。それとも、ヤタガラスがエルサレムのキリスト教会の流れを汲むという飛鳥氏の主張そのものが間違いだとでも言うのでしょうか?それなら、彼等は何者?忌部氏即ちサンカが源氏や戦国大名などとして平安末期や戦国時代、戦前、戦後にその勢力を伸ばした際、このヤタガラスと敵対しながらもある意味で二人三脚の関係になっていた訳ですが、それは何故?

「モルモン書を読まない限りは」と仰っていますか?とすると、ユタ州のアメリカ人集団にだけある日突然、サウロの時のように、復活のイエスによって、神の権能が与えられたと言うのでしょうか?だとするなら、神の権能とは、イスラエルやイエスの歴史的現存在の重みを全て無視して世界中の誰にでも、別のある条件さえ整えば与えられるといったような、そんな重みのないものなのか?とするなら、復活のイエスということ以外にも、精霊の降臨ということ(つまりは、ひとりひとりの内部にある理性と感情の再生ということ)も否定できません。それと復活のイエスとはどう関わるのか?

それとも、ユタ州のアメリカ人の教会もまた、イエスの教会、或いは、それ以前の別の神の教会がいつかどこかで枝分かれして、遥々アメリカのユタにまで移動したものなのか?後者なら、ユタに来るまで彼等はどこでどのように過ごしていたのか?

>お知りになりたい場合は、宣教師に質問して下さい。彼らはそのために2年間を主に捧げています。彼等には特別な権能と力が授けられています。

本当ですか?それ以外に探る道は、本当にないのですか?それほどに特別なのですか?

>「キリスト教はいつも戦争の原因となってきた。科学への否定も行ってきた」。世間ではこのような言説がまことしやかに横行しています。よく調べるとそれらは、明らかにデマなのですが、カトリックの腐敗時代には確かに、魔女裁判などの蛮行に加えて、文明退化も引き起こされはしました。これは認めなければなりません。例えば、外科的治療技術は、一般には知られていない隠された超古代文明では、とっくの昔に高度なレベルで確立されていたものなのですが、当時のカトリックはそれを、悪魔由来と糾弾し、市民がその恩恵に浴することを禁じました。しかも有力者だけは陰で、その恩恵にしっかりと預かっていた。このローマ帝国以前からの高度な文明技術を継承していたのがユダヤ人でした。カトリックは、表向きはユダヤ人を迫害しているかのように振る舞いながら、陰ではユダヤ人にある程度の保護を与え、そうすることでユダヤ人が、彼等の継承している医薬品や治療技術の恩恵を支配層に手渡さざるを得ないように誘導していたのではないか?私にこう感じさせる向きが十分に存在しています。日本でも支配者達は、ヨーロッパのユダヤと似た性格を持つある氏族を、河童や鬼、山姥などと蔑むかのように振る舞いながら、特に土木や外科療法の分野で、彼等に大きく依存してきた。こう感じさせるような節が確かに存在しています。瘤取り爺さんや、河童の手つなぎ、茨木童子や、鬼の鍛冶或いは大工仕事なんかは、その例と言えるかもしれません。

ここで述べられている鬼や河童は、忌部氏のことでしょうが、私の最近の研究では、サンカということにもなります。サンカは忌部氏なのではないですか?菅原道真と関係があり、滋賀県の余呉周辺がその重要拠点のひとつとなっている。スガやサガ、サカ音を含む地名や人名に関わっている。子沢山で一夫一婦制を中心とした厳格な掟を固く守る。雷の祟り神としての天神を崇拝し、平安時代になると早くも、天神を祀る社の建設を全国各地で展開し始めた。アメリカの新興キリスト教との関わりも深い。こんな存在がサンカでした。サンカと古代イスラエルやユダヤとの関係は、非常に興味深いテーマではないでしょうか?

>縄文時代からこの列島に暮らし、巨石文明の痕跡も残しているこの氏族を、私は忌部氏と呼び、所謂「真の秦氏」というものが考えられるならそれは、神の権能を持っていたこの忌部氏のことだろう。彼等がかつて秦氏と呼ばれていたが、エドムの侵入を受け、乗っ取られて、自らは秦氏とは呼ばれなくなった。そしその後で、かの藤原氏によって日本の中枢から外れたところに追い払われた。このように想定しているのです。

繰り返します。忌部氏が忌部氏と呼ばれる以前に保持していた神の権能は、どの経路をいつどのように通って列島に入ってきたものなのでしょうか?

>キリスト教ができた1世紀から、カトリックが誕生した辺りまでの4世紀間に背教が広く行われるようになり、神の権能は失われ、神の王国と言われた真の教会は消滅しました。このことは、先述のカトリックによる文明退化行動からも読み取れます。

>飛鷹註:この最後の文はやや、意味不明です。但し、「神の権能を持ったユダヤ人のキリスト教会がその期間ヨーロッパにも存在していた。神の権能を持っていたからこそ、太古からのテクノロジーも保持できていた。その期間のどこかで、パウロの予言の通りに背教が起こり、神の権能が彼等から取り上げられた。だからこそ、彼等のキリスト教会と似ていながら、その実態は全く別の、そんなカトリック教会の成立、即ち、悪魔崇拝集団のステルス支配としてのカトリック教会の成立、などという一種の悪夢を自ら招き、国教化したそのカトリックからの上述したような意味での虐待を受け続けざるを得ないような、そんな惨めな存在へと部族全体で身を落とすはめに陥った」という内容が想定された記述と考えられます。

>ヨーロッパにおけるキリスト教会の上述したような運命を、はっきりと証明する証拠は何もありません。遺された様々な象徴から読み取るしか方法がない。日本でも「空白の4世紀」という言い方がされますが、ヨーロッパで4世紀までにキリスト教会が辿った上述したような運命とよく似たことが、その時起こったのではないか?私はそのように考えています。

これらの話そのものは、よく分かる話です。忌部氏も背教したという訳ですね?

>この空白の4世紀に、私が偽の秦氏或いは藤原氏と呼んでいるところのある邪悪な氏族が、日本に来たものと考えているのです。

そう考える以上、その具体的な経緯を明確に解明しなければなりません。そうしない内に、彼等を悪者と決めつけた話を展開していけば、そうこうする内に、元は仮説でしかなかったことが深刻な概念変質を起こして、単純な既定事実として取り扱われるようになり、そうして、厳しいながら全く根拠なき非難という、重大な暴力の意味合いまで帯びてきてしまいます。ぜひ、考えるだけではなく、具体的な経緯の説明も行ってください。

>ほとんどの歴史家が「この4世紀から5世紀に大和朝廷が成立した」と言っているようですが、これは間違っています。大和朝廷の実際の成立年代は実は1世紀から2世紀にかけての頃なのです。即ち、卑弥呼より約百年前の時代です。歴史書の年代と実際の年代とが約200~300年ズレている。アダム年代はユダヤ人のものと○○のものとでは270年のズレがありますが(飛鷹註:この部分は意味不明)、日本における歴史書の年代と実際の年代との上述したようなズレもまた、これと本当によく似かよっていると私は思います。このことはあの浦島太郎の物語も暗示していることなのではないでしょうか?浦島太郎の物語に描かれた時間のズレも約300年でした。

ここで述べられていることは、以前から何かモヤモヤしていることです。モヤモヤしてはいるけど、何か重大なことが含蓄されていることは確実です。卑弥呼とは天照大神なのか、ヤマトトトヒモモソヒメなのか、それとも神功皇后なのか?神武と崇神と応神は別人なのか、それとも、神武と崇神は同一で、応神だけが別なのか。いや、神武も崇神も応神も、全てが同一なのか?このような何とも重大過ぎるテーマに直結する話です。

>今現在秦氏と称している氏族がそのズレの原因に深くかかわっていたのは確実でしょう。この歴史的事実を隠蔽し、今現在もタブーとして隠蔽し続けているのが彼等なのです。

>飛鷹註:「本当の秦氏である『忌部氏』は長い期間をかけて密かに実力を蓄え、上述したような古代の隠された史実を暗示する様々な象徴を次から次へと世に送り出しながら、このエドム秦氏の支配との暗闘を繰り返してきたのだ」ということが、ここでは言外に暗示されているように、私には感じられます。アメノマヒトツさんが「忌部氏」或いは「かつて神の権能をこの列島において保持していた本当の秦氏」と呼んでいるものとサンカのイメージが、私の中では次第に強く結び付いてきています。

>そのエドム秦氏を、ある人は善と呼び、私は邪悪な秘密結社と思っているわけです。

エドム秦氏のことを善と呼ぶ人はいないでしょう。かつて背教を犯し、その結果エドム秦氏にその中枢を乗っ取られた本当の秦氏は、「忌部氏」なのか?それとも「忌部氏」ではないのか?何れにしても、消滅することなく捲土重来の時が来るのを深いところで密かに待ち、極めて遠大な展望の元あれこれと画策しながらちゃんと存続していると考えた方が良さそうです。この彼等がエドム秦氏の奥或いは周縁に位置しながら、現在の秦氏の一部を構成していると考える。そうして、その現在の秦氏全体を、エドム秦氏に牛耳られてはいても決して、悪などと言い切れるものではないと主張するだけです。

何処かに逼塞させられたこの本当の秦氏のことを忌部氏或いはサンカとは別と考えた場合には、後の日本の歴史のなかでサンカがその巨大な実力を使って、秦氏及び賀茂氏を駆逐することなく、彼等と連繋していた理由もある意味、見えてきそうな気がします。エドム秦氏に乗っ取られてはいても、秦氏全体から神の権能は消えていない。だから、自らもかつては神の教会に参画していた忌部氏は、秦氏や賀茂氏と、エドム秦氏に牛耳られているとは知りながら決して駆逐することなく、連繋し続けた。このような推定も十分に可能になるからです。

引用以上。

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4 コメント

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真理を知るためには (アメノマヒトツ)
2014-07-13 22:45:48
今日asahinobという人の藤原氏の記事を読みました。
非常にためになりました。
こういう記事があると、反省を促されます。
最近の記事にも反映させたつもりです。
うちの記事の趣旨に沿ったコメントでは、みんつちさんと花散里さんにはいつも素晴らしいヒントをもらいます。
自分の知識も随分と広がりを感じました。

うちの記事には証拠はありません。
言い伝えの中に象徴を見出すことへの批判には困惑しています。
食べてすぐ寝ると牛になるという言葉に、知恵袋などでいろいろな解釈が見られます。
それに対し、その解釈はおかしいというのは滑稽というものでしょう。

宣教師は若く知識も乏しいですが、彼らの伝える真理はこの世で最も貴いものです。
うちのブログなど、彼らの邪魔か障害物に過ぎません。
それを信じるかどうかは自由ですが、証拠は次の言葉に示されています。

モルモン書の最後の預言者モロナイの言葉です。

見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。
あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐みをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。
もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。

モルモン書が真実であることが分かれば、ジョセフ・スミスがこの末日に召された預言者であることが分かり、失われていた神の王国が回復されたことを知ることができます。

それが分かれば、うちのブログなどゴミそのものであり、コメントする価値などないことが分かるでしょう。


ここからは特に読まなくてもいいです。

藤原氏や秦氏のあることないこと悪いことを書いているようであっても、ほとんどの日本人は自分の先祖について知りません。
飛鷹さんは系図を持っているからいいですが、うちも明治からだけです。
藤原や秦という名の人でも、先祖を知っているわけではなく、このブログが毒であっても自分の先祖について思い起こしてもらうことが目的です。
昨日は大波多という苗字の人と話をしました。
先祖はかつてかわなべという姓だったということです。
調べるという行為を最も強調したいわけです。

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アメノマヒトツさんへ (飛鷹満)
2014-07-14 10:47:30
>うちの記事には証拠はありません。言い伝えの中に象徴を見出すことへの批判には困惑しています。食べてすぐ寝ると牛になるという言葉に、知恵袋などでいろいろな解釈が見られます。それに対し、その解釈はおかしいというのは滑稽というものでしょう。

確かに、解釈は自由です。面白くて信憑性があるなら、それで十分。根拠なんか要らない。但し、それは飽くまでも、ある者を悪とみなして攻撃するのでない限りです。ある者を悪とみなして公衆の面前で非難する際には、ちゃんとした根拠がいる。当たり前のことではないですか?

アメノマヒトツさんの場合、秦氏と名乗る本人から抗議までありました。それを受けて、「了解しました。今後は、秦氏を批判する際には、表現に気を付けます」と約束もされたはずです。それを振り切って再び、同じような不注意な批判を始める。これは、神の権能をどうこう言う以前に、人として非常に問題ありです。

ましてや、イエスはこう言いました。「君達の中にこの女を非難し、石を投げて打つ資格のある者がいたらそうしなさい。そうでなければ、立ち去れ」。また別の場面で、こうとも言いました。「人を裁くのは人ではなく、主のみだ」。人を裁いて非難することそのものが余りにも重いことなのです。アメノマヒトツさんはクリスチャンなのに、それを忘れていると思います。

また、「影響力の少ないうちのような弱小blogに」と発言して、インターネット社会の危険性に全く無頓着な面をさらけ出しています。同じようなことを言ってblog上で誰かがアメノマヒトツさんのことを、あることないこと何でも面白半分で書いたら、どうなるでしょうか?その記事には、アメノマヒトツさんのご家族や親戚、同僚、友人等も容易にアクセスできる。こう考えたら、「影響力の少ないうちのような弱小blogに」などとは、決して言えないでしょう。

このような無責任な行動は、アメノマヒトツさんに限られることではなく、むしろ、殆ど全てのblogがと言っても良いくらい広く蔓延している悪弊です。この状況は、私は決して許しません。私のことを何人かの方が「公平」と評価してくださいますが、この公平ということはそもそも、誰か特定の人の特徴になどなってはいけないのではないでしょうか?公衆の面前で論陣を張ろうとする者なら誰であれ、必ず、強く意識しなければならない。まして、アメノマヒトツさんはクリスチャンであり、全国規模の大雑誌のコンクールの最終選考者の中に名を連ねる有力者でもあります。

この2年ほど友人と思ってお付き合い申し上げてきた者として、アメノマヒトツさんには、こんなつまらない過ちを犯して欲しくない。私の批判は、blogの趣旨に合わないのではなく、アメノマヒトツさんのblogの趣旨のど真ん中を衝きすぎて痛いだけなのではないですか?どうか、猛反省なさって下さい。

>宣教師は若く知識も乏しいですが、彼らの伝える真理はこの世で最も貴いものです。うちのブログなど、彼らの邪魔か障害物に過ぎません。

私の家を昨年訪れた若者には、「何か質問はありませんか?」と訪ねられたので、「この世に悪が存在するのは何故か?悪魔崇拝の秘密結社暗躍を神は何故、許しているのか?」と訊いてみました。答えは「分かりません。祈ります」でした。

>それを信じるかどうかは自由ですが、証拠は次の言葉に示されています。モルモン書の最後の預言者モロナイの言葉です。「見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐みをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう」


ここに述べられている筆者の希望は、誰かに解説してくれるよう頼めではないですね。「モルモンの宣教師以外に答える権能のある者はない」などとは書かれていないのではないですか?書かれているのは、キリストを信じながら、神に、誠心誠意問えということです。そうすれば、精霊の力が我々の認識と感情に及ぶと書いてあります。非常にまともな主張だと、私は思います。

>モルモン書が真実であることが分かれば、ジョセフ・スミスがこの末日に召された預言者であることが分かり、失われていた神の王国が回復されたことを知ることができます。それが分かれば、うちのブログなどゴミそのものであり、コメントする価値などないことが分かるでしょう。

>藤原氏や秦氏のあることないこと悪いことを書いているようであっても、私は、ほとんどの日本人と同様、自分の先祖について知りません。飛鷹さんは系図を持っているからいいですが、うちも明治からだけです。藤原や秦という名の人でも、先祖を知っているわけではない。このブログは誰かにとっては毒かもしれません。しかし、で自分の先祖について思い起こしてもらう有力なきっかけにはなるはずです。

日本人は、先祖を思い出し、本当の意味で自分達の歴史を取り戻すのでない限り、その本来の存在意義を人類全体のために発揮することなど、絶対にできないでしょう。大賛成です。ですが、無頓着に毒になどなってはいけません。毒だと自覚しているなら、直ちに修正してください。

>調べるという行為を最も強調したいわけです。

調べる際には、自分の概念と表現を、更には立ち位置迄、ちゃんと調べてください。
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それほどに特別です (アメノマヒトツ)
2014-07-15 06:43:20
本当ですか?それ以外に探る道は、本当にないのですか?それほどに特別なのですか?
「モルモンの宣教師以外に答える権能のある者はない」などとは書かれていないのではないですか?

それほどに特別だということを伝えたいです。
探る道はほかにないわけではもちろんないですが、宣教師は神から特別に力を授けられていることを伝えたいです。
今回のやり取りでお分かりのように、僕の回答ではまったく役に立たず、飛鷹さんの言う猛省をしているところです。
人はすべて福音を宣べ伝える義務があります。
僕は改善しなければならないでしょう。

私の家を昨年訪れた若者には、「何か質問はありませんか?」と訪ねられたので、「この世に悪が存在するのは何故か?悪魔崇拝の秘密結社暗躍を神は何故、許しているのか?」と訊いてみました。答えは「分かりません。祈ります」でした。

このやり取りの感想が書かれていませんが、宣教師の回答はそれでいいと思います。


返信する
補足 (アメノマヒトツ)
2014-07-15 06:51:31
秦氏と名乗る本人から抗議までありました。それを受けて、「了解しました。今後は、秦氏を批判する際には、表現に気を付けます」と約束もされたはずです。

秦氏の人と約束をしたわけではありません。
飛鷹さんに言ったのです。
あれは抗議なのですか。
末日聖徒に向けた非難(○○ガイなど)だと受け取りましたが。
末日聖徒でなければ、文章が変わっていたと思いますが。
その人も、非難記事の中で、勝栄次郎は高位の秦氏と言ってましたが、結局秦氏ではないかと思いますが。
地元彦根を調べていて、もう一度アメノコヤネについて考えているところです。

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