飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

イギリスの皇太子と自称する人からの批判に応える

2018-10-05 08:33:20 | 日本論と宗教論
あるサイトで、私のコメントに対して、その人らしくない、幼稚ながらも激しい口調の、従ってその人間の触れて欲しくないことに私が触れたことを如実に表す、そんな罵倒を受けた。ソクラテスがその議論の果てに、ある政治家から受けた罵倒と同じような罵倒。同時にそのサイトにおける応答の投稿も禁ぜられた。禁ぜられた以上は、そこは人様のうちと同じであるから、こちらが紳士的に無言で受け入れなければいけないだろう。そこで、その罵倒に対する私の考えを、この場に記事として記しておきたい。

「エブス」は、このエブス達が現在に至るまでずっと勢力の中心に置いてきた東洋において使われてきた自称である。それに対して、「フェニキア」はギリシア人による他称で、この「フェニキア」が社会の陰に隠れたヨーロッパ世界では彼らの自称が忘れ去られてしまった(地名には残っている。スペイン沖の地中海に浮かぶエベサ島がそれ。クレジットカードのVISAもその名残でしょう)。「フェニキア」或いは「エブス」と称される人達は、地中海から黒海、紅海、アラビア海、インド洋、南シナ海、東シナ海、黄海、日本海という極めて広い範囲を勢力圏にした人達のことなのである。船の舳先に二つの目を印として描き、半島の水辺や、干拓事業を施した河川の河口部に集落を造る習慣のあった人たちのことである。

以上のことから、「エブス」が海洋民族であり、海の道の主役であったことは明らかである。「フェニキアとは全く別の農耕民族」とか「中東から陸路でシベリアに移動する方が、海路で東洋まで来て東アジアで陸に上がるのよりも合理的である」とか、「ハザールの起源は西突厥と学者の見解が固まっている」とかいった発言は、エブスのことをヨーロッパ人であると勘違いした上に、西突厥の起源が匈奴(フンナ)で、そのまた起源があの『魏志倭人伝』の狗奴(クナ)である可能性大であることに全く配慮が及んでいない、恐ろしいくらいの無知の表白となっている。

このエブス達は、世界各地において、農耕民を支配して文明圏を運営する支配層の陰のスポンサーとなってきた。専ら海上交易に当たる自分たちと同じように、専ら陸上交易に当たる部族(イスラエルやアラム、ソグド)とも協力関係にあった(ソロモン王のタルシッシ船や遊牧騎馬民族の列島への移動など、この協力関係の存在を証明する事象は枚挙にいとまがない)。

世界全体が氷期に入って遊牧民が南下し、世界各地の文明圏に波乱をもたらしてきたことは、よく言われることである。しかしそれは、物事の一面しか見ていない非常に偏った発言なのである。世界全体が温暖化して、元々人が住めなかったユーラシア北部に人が広がっていく過程が、12000年前から5000年前までに、北部遊牧民やシルクロードの発生以前にあったこと。土地神を祭って土地に執着する傾向が強く、移住という現象を起こしにくい農耕民が、陸路を辿って移住し、馬にまたがって遊牧民となったと考えるよりも、土地神に縛られず、自由に世界各地を移動して回ることを本分としてきたエブス達が、気候変動によって新しく拓けた地平線に、乗り物という点で船舶と共通している馬やラクダを新しい乗り物にして(砂漠の船という言い方はあっても海のラクダという言い方はない)乗り出し、そこで遊牧民になったと考えたり、更には、各地の文明圏でエブスと協力し合いながら陸上交易に当たっていた部族が、新しく拓けた北部の地平線を利用して文明圏と文明圏とを繋ぐ新しい交易路を開拓したと考えたりする方が、明らかに合理的であること。これらのことに対する視点が全く欠けている。

私はこれらの視点を、鹿島昇、松重楊江、八切止夫、喜田貞吉、柳田國男、小林やす子、落合莞爾、加治木義治をはじめとする多くの著者の書物を読む過程で、これら互いに異なる著述家達の隠れた共通点として獲得した。決して勝手な想像で手に入れたものではない。彼等が一部の派閥に偏っていないことは明らかで、従って、何者かによる意図的なフェイクに引っかかっている可能性も低いのである。

上に「恐ろしいくらいの無知の表白」と述べたが、その人の発言で無知の表白の極みとなっているのが、「ユダヤは弱小農耕民族に過ぎない」や「イスラエル?が交易に当たっていたことはない」である。ヘブルがイスラエルとなり、イスラエルの一部が「イェフダ(ユダヤ)」と言われるようになった歴史的過程のことを全く理解していないものと思われる。ソロモン王のタルシッシ船のことも知らなかったようである。

「海洋民族が陸上に上がり遊牧民化するという主張が本当なら、あの海洋国家イギリスがそうならなかったのは何故か」も、私が紀元前6000年くらいの話として語っていることを、紀元後1500年以降の歴史に馴染んだ思考で無理やり理解しようとして思考回路がショートしたことを示している。エブスが遊牧民化した時にはそこに先行遊牧民がいなかった。イギリスの時はいた。たかがそれだけのことではないか?

この人は、海洋勢力と陸上勢力の相剋という基本概念を近現代史から取り出して、それに基づいて、現在の世界情勢を、海上勢力の凋落過程として具に描いている人である。基本概念がシンプルであるが故に分かりやすく、多くの知的な人を吸引して、非常に有益な詳細情報を提供している。それで私も読者の一人となり、時々コメントも入れてきた。基本概念が間違えていても、それによって多くの細かい情報を提供してくれる点では、関裕二の一連の著作とよく似ているとも言える。

このタイプの著述家は、いつか必ず、その基本概念の矛盾からの破綻を迎えるはずである。私のコメントはそこを婉曲的に衝いたものだった。かつて、リチャード・コシミズ氏やマヨさんの時に、あからさまな指摘ではよくないことを経験していたので、敢えて婉曲的なものに留めていた。彼はその頭脳の鋭敏さからそれが自分の理論に対する根本的な批判になっていることを感じ取ったようだ。だから「全体的な印象から言うと」の表現になったのだろう。そのような批判を受けた時にどのように応えるかにその品性が出るものだが、彼の場合は残念ながら「あなたは頭のおかしい人」という発言になってしまっている。私の批判が本当に頭のおかしい人からの批判であると感じたなら、私がこのブログでそのような場面に遭遇した時のように完全無視を貫けばいいのである。無視しきれなかったのは何故か?それは明らかだから言わないでおく。但し、私自身の場合、実は、自分に対して常に、頭がおかしいのではないかとの疑念を投げ掛ける習慣があることは、告白しておきたい。この人も本当はこのような習慣を持った方がいいと思う。

「狂信的なキリスト教徒」といった類のことも述べていた。私がそうでないことは、このブログを読んでくださっている方々には十分分かっていただけるだろう。


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