飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

隋唐時代の東アジアの再編成を裏からコントロールしていた者達

2018-10-16 10:49:27 | 日本論と宗教論
宇野皇女は河内の新羅系で、中大兄王は新羅武烈王たる金春秋の列島亡命後の名前です。列島で「中」と言われる一族は半島では「金」と言われていたのです。「中」とは宗像三女神の沖津姫、中津姫、辺津姫の内、中津姫と関係があります。金春秋が新羅で金庾信と共に善徳女王の元で金比曇の反乱を武力討伐した事件は、列島の歴史にある目的のためにそのまま転用されて、列島では大化の改新と称されています。

武烈王は列島亡命の際に盟友である大海人皇子の息子に譲位して文武王とし、この文武王も自分の役割を新羅で果たした後に列島に亡命してこの列島で文武天皇になっています。

大海人皇子は聖徳太子の末子で、尾張や金官伽耶から高句麗に移って高句麗で泉蓋蘇文として活動していた時に、新羅の金春秋や金庾信と図って、白村江の戦い以降の三韓統一から高句麗、百済残党による唐勢力牽制、統一新羅による唐勢力の半島からの駆逐、天武系(つまり蘇我系)や秦氏、百済王家、物部氏(百済王家との繋がりが伝統的に深い)の合同による列島統一、契丹による唐の滅亡といった、東アジアの青写真を描き、彼らとの協力体制の元で実行しました。列島で天智天皇より年上の弟として、天智天皇の娘たちを妃ととして受け入れつつ天智天皇の皇太子となり、天智天皇の偽装崩御の後に、唐勢力の列島介入故に生じた混乱を壬申の乱という装いをもたせながら沈静化して天皇に即位した、この一連の流れは、天智天皇との協力による唐勢力の半島や列島からの駆逐の過程として強烈に意識されていたのです。

藤原氏は唐から軍勢を率いて日本統治のために太宰府に入っていた百済人将軍郭務悰を讃岐秦氏が婚姻によって懐柔し、金庾信が背負っていた中臣鎌足の役割を密かに引き継がせることで生まれた家です。山科の百済系によって育てられた後で関東の中臣氏に保護されていた息子の不比等は後に持統天皇が中央に呼び戻します。神武天皇家から派生した春日氏のバックアップを付けた上で、天武天皇が唐の軍勢に北陸で殺害された後の、天武天皇によって描かれた青写真の継続を彼に補助させたのです。

桓武天皇家も、百済王教福の四人の息子に藤原四姉妹が嫁いで生まれた子供達の一人によって立てられた家です。

以上の過程の全てが、列島の秘密根源勢力によって計画され、背後からコントロールされていたのです。今後はこの流れをより詳細に調べていきます。