Soopllofeiv の日常

管理人soop視点の奇妙な現状

ヴィヴィアン ウエストウッド

2019-03-31 11:10:27 | Weblog

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精肉業者

2019-03-31 11:03:38 | Weblog
井の頭公園バラバラ殺人事件

【事件概要】

 1994年4月23日、東京都三鷹市の「井の頭公園」で切断された男性の足首が発見された。公園の池周辺に設置された複数のゴミ箱から合わせて27個の遺体の断片が見つかった。時効成立。

――――――――

【遺体発見】

 1994年4月23日、東京都三鷹市の「井の頭公園」の野外ステージ脇のゴミ集積所で女性清掃員が男性の足首を発見する。足首は4枚重ねたスーパーのビニール袋に入っていた。その後、計27個の遺体の断片が見つかった。いずれも半透明のビニール袋に入れられており、池の周囲にあるゴミ箱に転々と捨てられていた。発見されたのは遺体の手足と胸の一部だけで、頭部と胴体の大部分がなかった。

※井の頭公園・・・正式名称「都立井の頭恩賜公園」。日本最初の郊外公園として1921年5月に開園された。園内は四区域に分かれており、総面積38万㎡を超える敷地を持つ。JR中央線・京王線「吉祥寺駅」南口から徒歩5分のところにあり、園内には動物園、水族館などもある。2001年10月には園内に「三鷹の森ジブリ美術館」が開館し、平日休日を問わず賑わいを見せている。


【奇妙な遺体】

 井の頭公園で回収された遺体は、市内の杏林大学病院へ送られ司法解剖された。27個のパーツにわかれた遺体は全部合わせても体全体の三分の一程度、20数kgほどしかなかった。解剖を担当した佐藤喜宣教授が最初に気づいたのはビニール袋の遺体のひとつひとつが同じ長さで切断されていたことだった。長さだけではなく、肉を削ぐなど太さも揃えられていた。従来のバラバラ殺人の場合、遺体の切断は思った以上に時間がかかる。また切断も大変なため、切りやすい関節あたりを切断するのだが、この事件の遺体は関節など関係なく、時間をかけて均一の大きさに切断されていた。
 井の頭公園のゴミ箱は縦20cm×横30cmのフタがついたポスト型のものだが、遺体はそのゴミ箱に入れるのにジャストサイズに切断されていた。

 また、遺体はとてもきれいな状態だった。念入りに洗われ、手がかりになるような付着物は一切残されていなかった。さらに血液までもがすべて抜かれていた。手足の部分では指紋はすべて削られ、掌紋には傷がつけられていた。

 血液を抜き取り、指紋まで削られた遺体だったが、事件から3日後、掌紋の一致やDNA鑑定などから遺体は公園の近くに住む一級建築士・川村誠一さん(35歳)と判明した。

 死因についてはついに確定することはできなかった。毒物で殺害された場合、骨髄に何かしらの物質が発見されるはずだが、それらは検出されなかった。交通事故などの場合、手足にも傷が残るだろうが、発見された遺体には傷らしいものはなかった。そうなると頭部損傷や窒息死が考えられるが、頭部が発見されなかったので分からなかった。
 しかし、1ヶ所だけ、生きている間に受けた傷が発見された。肋骨の一部に付着している筋肉組織に、ほんのわずかながら出血があったのだ。だが肋骨が損傷しているわけでもなく、なぜその部分から出血したのかは分からない。

 死亡推定時刻も不明。佐藤教授によると「そんなに古いものではない」ということくらいだった。


【川村さんのこと】
 
 川村さんは4月21日の夜、昇進祝いということで会社の元同僚と高田馬場で飲んで、カラオケなどを楽しんだのち、夜11時頃に新宿駅で別れてからの行方不明となっていた。まもなく妻が捜索願を出している。

 吉祥寺周辺では「川村さんの妻が新興宗教にはまり、川村さんが脱退させようとしたところ殺害された」というような噂が根強くあるが、川村さんも奥さんも宗教団体とは何の関わりもなかった。

 
 翌1995年1月11日、川村さんが行方不明になる直前の4月20日午前0時過ぎに、自宅に近いJR吉祥寺駅そばの近鉄百貨店脇で2人組の男に殴られていたという目撃情報が届けられた。
 また23日午前4時頃に井の頭公園をポリ袋を持った不審な男2人が歩いていたという証言もあった。
 目撃されている2人はいずれも30代と見られる。


 2009年4月23日、時効成立。


                                  終わりなき悪夢より抜粋
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kiss

2019-03-31 10:40:20 | Weblog
若い人の間でキスの写真や動画をあげることが多々あるが
キスという行為には"愛し合う"という目的以前に別の目的があることが近年証明された

キスを求めたくなる理由の有力な説は
「自分の子孫を残すのに適切な相手かどうかを見極めるため」というもので
要するに相手の情報を収集口内に存在するバクテリアを交換し
相手が自分が持っていない免疫のバリアを持っているか、
また健康状態や生理学的相性があうかどうかがわかるという
免疫学的には「同じ免疫のバリア」を持っているものより、
自分の持っていないバリアを持っている個体と生殖するほうが子孫が生き残っていく
可能性が何倍も高い結果的に自分のDNAを後世に残すことに繋がる
 スロバキアのナタリア・コモドバ博士の実験によれば約10秒間のディープキスで
8千万個のバクテリアを交換するというこれによって相手が「生物学的」に適切かどうか
本能的に判断する「下調べ」が可能になるらしい
さらにこの下調べは見た目にも表れ外見で好ましく感じるのは
自分の生理学的な難点をカバーするため、
もしくは平均的なバランスの良さを気に入ったことになるそうだ
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ブラック企業

2019-03-31 10:03:51 | Weblog
学生のアルバイトは派遣業者に片道の旅費や寝具代を
ピンハネされ働く前から逆に借金を抱える始末
作業員は粗末な食事と重労働で体を壊しても治療が受けられず
一方で船長や監督らはぜいたくな食事を口にするなど
船の中は格差社会です

「貴様ら一人二人が何だ 川崎一艘取られてみろ たまったものじゃないんだ」
監督は日本語でそう言った・・

この作品の舞台になっている蟹工船とは内部に工場を持つ巨大な漁船で
大量のカニを捕って船内で缶詰に加工しています
川崎というのは蟹工船に付属する小型の漁船のことです

作業監督は平然と船員の命より船の備品を大事にし、
沈没しかけた仲間の漁船を保険金のため見殺しにする、
海に落ちた作業員を救出せず川崎船の回収を優先するなど
ホラー映画のような地獄絵図が続きます

その根底に流れるものは
「人命より金」という経営者の思想でした

                                 蟹工船:小林喜多二

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ピエール

2019-03-26 17:51:22 | Weblog

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放浪記

2019-03-24 18:29:30 | Weblog

嗚呼 あたしの頭の中にはプロレタリアも
ブルジョアジーもない
たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。
「飯をたべさせてください」


林芙美子は明治以降の作家の中でもっとも貧しい半生を送った人物といえます
芙美子が8歳のときは母が再婚して義父と一緒に九州一帯を行商するようになります
生活は貧しく毎日アワ飯で小学校では弁当に持ってゆく食べ物がなかったそうです
また無理して進んだ高等女学校は夜間工場でアルバイトするなどして自力で卒業しています
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bullying

2019-03-24 18:08:43 | Weblog
イジメとは

文部科学省の定義においては、児童の一定の人間関係のある人物から、精神的、物理的な攻撃を受けたことで苦痛を感じていることであり、国際的には児童に限らず「自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、長期に亘って繰り返される不快な行為」である

叩けば叩かれない
もし汝が叩かねば
他人が汝を打ち殺すだろう
シドールの山羊のごとく

生物学的・群衆論的には
その群体から異なるものを排除しようとする
性質からくるものだといわれているが
元々群体の中の個々の単体は
すべてが異なるものであり
その群体のなかで効力を発揮するルールから離れたものが
イジメの対象になりやすい

即答

イジメから脱出する方法

1:自分の中で正当な理由を見出すこと(自分が正しくて不当な扱いを受けている事を自覚する)
2:会社の場合は直属の上司・学校の場合は両親にイジメをうけている事をカミングアウトする
3:相手・グループに対しては威圧的かつ暴力的に(暴力は振るわなくていい)振る舞うこと
4:イジメているグループから離れたところに自分の仲間をみつける

追記

   一番重要なことはイジメている相手の名前を助けてもらう人物に伝えられるかである・・・

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人間と動物

2019-03-23 13:30:00 | Weblog

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太陽クラブ

2019-03-23 13:22:18 | Weblog
 光クラブ事件

【事件概要】

 1949年11月24日、ヤミ金融「光クラブ」社長・山崎晃嗣(26歳)が中央区銀座の本社社長室で青酸カリを飲み自殺。アプレゲールの事件として知られる。

※アプレゲール・・・・「戦後」を意味するこの言葉は、第1次大変直後のフランスで生まれた。戦後、価値観が崩壊し、それに変わる価値観も確立されず混乱を続けたが、知識人たちはこれを逆手にとって新しい芸術の方向を模索した。ここから「ダダイズム」や「シュールレアリスム」という芸術も生まれている。日本では第2次大戦後、野間宏、中村真一郎、三島由紀夫らがこの言葉を小説などの名称に使い、自分たちの文学を示した。1950年、刹那的な充足感を求める青年たちの犯罪が相次ぐ。多くが中流階級の子弟の、世の中をまだ知らない若者の短絡的な動機や犯行だった。こうした犯罪は「アプレ犯罪」と呼ばれた。他に「鉱工品貿易公団横領事件」、「金閣寺放火事件」、「日大ギャング事件」、「バー・メッカ殺人事件」など。


【山崎晃嗣】

 山崎晃嗣は1923年、千葉県木更津市に生まれた。山崎家は父が木更津市長も務めた医師、母は音楽家という名家。山崎は5人兄弟の末っ子で、3人の兄はいずれも医師になっている。

 山崎は1日に15、6時間という猛勉強のすえ、一高から東大法学部に進学。その一方で、日記や作文で父親を批判するなど内向的な一面もあった。

 時代は戦争の真っ最中、山崎は学徒出陣で陸軍主計少尉となった。配属されたのは北海道・旭川の北部第一七八部隊。そこでは隊長や参謀が、軍務そっちのけで米や油などを横流ししていた。敗戦時には、山崎もそれにならって地位を利用して軍事物資の横流しをして検挙され、上官を庇うかたちで懲役1年半執行猶予3年の実刑判決を受けている。 
 この一件は彼の人生観に影を落とすことになった。彼はのちに記している。
「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」

 東大に復学した山崎はそれまで誰も成し得なかった「全優」を自らに課した。
 1日の行動を30分刻みで日記として記し、勉強は「有益時間」として、重要なものから優先順位をつけていた。当然、1日のほとんどは有益時間だったのだが、恋人を遊ぶ時間を「女色時間」、空想などを「無益時間」という時間も設けていた。
 結局、20科目のなかで3科目が「良」だったのだが、教授の嗜好や気まぐれに依存する評価を愚に思い、「優・良・可の区分に全生活をかけるのが馬鹿らしくなった」と日記に記している。

【光クラブ誕生と終焉】

 1948年秋、訪れた金融会社で業界通の日本医大生(当時25歳)と知り合った山崎はその影響を受け、1万5千円を元手に「光クラブ」を設立した。場所は中野区鍋屋横町。月1割3分の高配当で集め、利子は2割1分から3割という高利で中小企業に貸付けるという仕組みだった。

 「光クラブ」は当時としては、広告・宣伝に熱心だった。
『年中無休!天下の光クラブ、弊社は精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社』
『遊金利殖、月一割保証』
 という新聞広告で資金を集め、半年で中野から銀座に進出、資本金600万円、株主400名従業員30名と会社を成長させた。山崎の読みが当たったのである。

 山崎は「ヒカリ戦陣訓」なるものを事務所の壁に貼り付けていた。


 一、権利のための闘争だ
 二、人生はすべてこれ劇場なり
 三、金利の鬼となれ
 四、バクチには生命を賭けよ
 五、ヒトのものはわがもの 自分のものは自分のものと思え


 7月4日、京橋署は物価統制令違反容疑で山崎を逮捕する。山崎は留置場を訪れた週刊誌の記者に対し、次のように語った。
「人生は劇場だ。ぼくはそこで脚本を書き、演出し、主役を演ずる。その場合”死”をもかけている。もっとも”死”そのものをぼくはそれほど、大仰に考えませんがね」
 
 取調べに対しては、得意の法律論争を挑んだ。
 結局、9月には不起訴となって釈放されたのだが、社長の逮捕によって会社の信用は失墜、394人の債権者が約3000万の出資金を一斉に返済を迫った。山崎はとりあえず、11月25日までに300万円を支払う約束をしたが、24日になっても資金の回収が出来ず、命を絶ったのである。遺言と辞世の短歌、高利貸しの述懐を記した手記、残高わずか2700円の銀行通帳を残して。


 出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡ありお疑いあれば、アブハチとらずの無謀かな、高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわれば氷カシ(貸自殺して仮死にあらざる証依如件)


 
 私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。・・・・契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうとする。

(日記の最後)

 この事件をモデルに、高木彬光「白昼の死角」 三島由紀夫「青の時代」 北原武夫「悪の華」などの小説が書かれている。

 なお50年3月5日、「光クラブ」の後身「太陽クラブ」の社長ら2人が約200万円搾取の容疑で検挙されている。


 2007年夏、金融業を始める前の山崎の日記(大学ノート3冊分)が発見された。時期としては物資の横流しの件で実刑判決を受け、釈放されて家に戻った1946年3月から1年半分のことで、上官への恨みや、投獄時のことなどを綴っていた。3月24日の日記には、3年後の自分の運命を暗示するかのように、次のように書きだしていたという。

 楽しいから生きてゐる
 楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである
 生命などといふものは要するにつまらないものである

                                    終わりなき悪夢より抜粋
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船の舵手

2019-03-23 13:10:55 | Weblog
 事件概要

 65年頃から、聖書を研究する宗教団体「イエスの方舟」に入信した女性が家出し、家族から捜索願が出されるということがあった。彼女たちは教祖・千石イエスらと共同生活を送っていたが、その家族たちが「娘を返せ」と押しかけ、イエスの方舟の一行は各地を転々とした。
 80年7月、行方をくらませた「方舟」の一行が熱海で発見された。




【イエスの方舟】

 1965年から77年の間、東京・多摩地区で、ある宗教団体の入信をきっかけとして家出し、家族から捜索願が出されるといった事件が相次いだ。
 その宗教団体は「聖書研究会極東キリスト教会イエスの方舟」、教祖は「千石イエス」こと千石剛賢氏であった。 

 千石氏は兵庫県有田村(現・加西市)生まれ。実家は地元の資産家で、戦後に鎌製造工場をつくったが、大阪に出て磁器指輪の販売を始めた。
 1951年頃、京都市に本部を置く堺市内の「聖書研究会」に出入りするようになり、やがてその主宰・村岡太三郎氏と袂を分かったことで「極東キリスト教会」を設立した。

 59年、家族と信者13人を伴って上京。府中市や小平市などを転々として布教を続けた。家出してきた信者を引き取り、共同生活するようになったのは65年頃からである。信者は各家をまわり、刃物とぎ・行商をしながら布教した。そして75年、国分寺市恋ヶ窪に拠点を移し、「イエスの方舟」と改名した。

 街を遠く離れて

 77年5月、7件の捜索願を受けた警視庁は、防犯部一課に特別捜査班を設置。しかし、千石氏と共同生活を続ける女性はいずれも自分の意思でそうしたもので、「家に帰るくらいなら死んだ方がましだ!」などと、家族の呼びかけを拒絶した。
 「方舟」自体、法に触れるような容疑は見当たらなかったため、意思ある大人である彼女達を無理やり家に連れ戻すということはできなかった。

 一方、同年暮れから78年にかけて、女性たちの家族が団結して押しかけ、集団抗議を行なった。ハンドマイクで「娘を返せ!」と叫び、もみ合いで千石氏の妻らが負傷するということもあった。
 そしてマスコミがこれに呼応する形で、「現代の神隠し教団」などのバッシングが始まった。新聞には、女性の家族の声を拝借し、「まるで人さらい」などという見出しが躍った。これにより、多くの人は「女性をかどわかしてハーレムをつくる邪教」という印象を持った。

 78年4月21日、布教活動が難しくなったことや、千石氏の心筋梗塞が悪化したことから、女たちは国分寺市の教会を離れ、5月には千石氏も東京をあとにした。一行26人は、大阪、岡山、神戸、明石などを転々とし、78年12月からは福岡市内のマンションを拠点とした。女性たちはホステスとして働いていた。


 80年に入ると、雑誌に親たちの手記が掲載され始める。
「そのころ、”教会の刃物研ぎ”といって数人のおばさんふうの女性と男の人が私どもの住んでいる区域をまわっておりました。・・・・この刃物研ぎは、実は勧誘の手段で、気を許して何度か本部へ行っているうちに、心やすくなり、世間話をしながら悩みを聞き、相談にのり、不思議な世界へ誘い始めるのです。娘たちのほとんどはこの手口で入会させられています。・・・・しかも、お話を聞いてみると惹きつけられて、行方不明になったのがみな20歳から17、8歳の娘たちばかりというのが異様でした。どうやら、千石という男は自分を「イエス」と呼ばせて、周囲に十数人の若い女性ばかりを集めているらしいのです」
(「婦人公論 80年1月号」 『千石イエスよ、わが娘を返せ』)

「娘は、このべニヤ板張りの三畳に、閉じ込められていたのです。日光にもあたらず、窓もなく、外の空気も充分に吸わせてもらえず、この暗い部屋で毎日千石剛賢の呪文を講義として聞かねばならなかった日々。毎日の同じ言葉の繰返しは、まさに洗脳であり、人間改造をされたのです。見えるもの、眺められるものは、ベニヤ板の壁だけでした。聖書の勉強と称してでたらめな話を、いかにもそれらしい言葉で表現し、毎日、何度も何度も繰り返し聞かされるのですから、神経は破滅し、自分の意思はなくなります。粗食の中での洗脳ですから、娘はロボットにならざるをえなかったのでありましょう」
(「婦人公論 80年3月号」 『私の娘も攫われてしまった』)


 そして”神隠し”キャンペーンも本格的なものになった。
「刃物研ぎの注文取りに多摩地区を回ったり、中央線沿線の駅頭でパンフレットを配って、信者を募り、バラックづくりの教会や各市の市民会館、福祉センターなどの公共施設で『聖書研究会』を開いた。ここでは『私はイエスの化身だ』『親は子供を搾取する』『結婚は地獄』などと家庭や親子を、夫婦関係を否定する」
(サンケイ新聞80年2月7日付)


 同年7月3日、警視庁防犯部は千石氏と幹部5人に対して、名誉毀損と暴力行為などの容疑で逮捕状をとり、全国に指名手配した。なお家族から捜索願が出された女性は次の9人である。

◆証券会社OL 東村山市 35歳 65年1月失踪(当時20歳)
→高校3年生の時に同級生に誘われ、「方舟の聖書研究会」に出席。2ヶ月間の宿泊の後、いったん帰宅したが失踪した。
 
◆自動車会社OL 国分寺市 35歳 65年3月失踪(当時20歳)
→実家は「方舟」のすぐ近く。千石の娘と幼友達。

◆スーパー店員 府中市 24歳 72年失踪(当時17歳)
→勤務先の店の客に誘われた。千石の義娘となる。

◆主婦 府中市 40歳 74年2月失踪(当時34歳) 
→元々敬虔なクリスチャンだった。刃物とぎで勧誘された。夫と子ども3人を置いて失踪。

◆主婦 三鷹市 35歳 74年6月失踪(当時29歳)
→刃物とぎで勧誘された。献金問題で夫と喧嘩し、2人の子どもを残して失踪した。

◆化学会社OL 武蔵野市 23歳 76年6月失踪(当時19歳)
→知人に勧められ入信。「好きな男性と結婚する」という置手紙。

◆女子大生 府中市 23歳 76年10月(当時20歳)

◆女子高生 立川市 20歳 77年7月失踪(当時17歳)
→街頭布教の信者に声をかけられた。

◆証券会社OL 小平市 23歳 78年4月失踪(当時21歳)
→千石の娘と同級生。

◆銀行員 東大和市 21歳 78年5月失踪(当時19歳)
 
 また捜索願が出されていた女性以外にも、一行に加わっている女性が数名おり、さらに先々妻との間の娘2人(当時33歳と30歳)、元妻(当時47歳)とその子ども(当時24歳)、信者である2組の夫婦とその子ども(このうち3人の娘は千石の養女という形になっていた)も共同生活を送っていた。この中の30代の夫婦の間には、小学2年と3年の男の子(当時8歳、7歳)がいるが、不就学ではないかとされた。

【漂着地】

 1980年7月、熱海の印刷会社の寮で一行26人が発見される。ここは密着取材を続けていた「サンデー毎日」記者が用意し、引き入れた。
 千石は捜査員が入る直前に狭心症の発作を起こしており、市内の病院に入院。しばらく逮捕は見合わされた。

 11人の女性たちはそのまま寮に残った。
「女性たちは千石にホステス勤めを強制されているのでは?」「千石に日常的に虐待を受けているのでは?」という見方・情報もあったが、そのような痕跡は無かった。

 7月4日、女性たちは印刷会社寮で記者会見を行なった。
「誤解を解くために出てきました」
「共同生活は楽しかった」
「私たちは千石氏を”責任者””おっちゃん”と呼んできた」
「親子の理解が浅かった。今でも千石氏以外、頼れる人はいない」
「自分を本当に理解してくれる人は責任者しかいない」
「ホステスは自分たちの考えで決めた。強制なんてされたことはない。責任者はキャバレー勤めにすごく胸を痛めていた」

 入院中の千石氏は病院関係者にある告白をしていた。それは7年前に信者の自殺があったというもので、それからは遺書を肌身話さず持ち歩いた。
 千石氏はその後、荒川区内の病院に移され、22日、巣鴨少年センターに出頭。
 普通なら教祖が逮捕され一件落着、千石バッシングも続いていくものと思われたが、そうはならなかった。これは千石が新興宗教の教祖にありがちな拝金主義でもなく、カリスマ性なども見受けられない普通の「おっちゃん」であったことなどがわかったからだと言える。

 「豊かだけれど、父親不在」の家庭に育った女性たちは、千石氏に「父親」を見た。しかし、その家族たちは、娘が出ていった理由がまさか自分たちにあるとは思わなかったので、「方舟」に押しかけて千石氏を責めるしかなかった。そのことでさらに親子の溝は広まったのではないかと見られる。

 千石氏は名誉毀損で書類送検されたものの、女性らの証言から不起訴となった。


【その後】

 女性たちのほとんどはそれでも千石氏のそばを離れようとはしなかった。多くは家族とは和解し、騒動の翌年に開いた中州の「シオンの娘」というクラブで働きながら、共同生活を続けていた。メンバーの中には家族に元に戻った人もいたが、新たに訪ねて来る人もいて、騒動時よりも増えた。店はショーなどを見せ、「イエスの方舟」という大きい看板があったが意外に繁盛していたという。

 2001年12月、千石氏死去。享年78。


【トピックス ハーレム事件】

 「方舟」と同様の、共同生活を営む新興宗教組織に「真理の友教会」がある。元国鉄職員の宮本清治氏が76年に興したもので、やはり「神の花嫁」と呼ばれた女性信者に囲まれ集団生活をしていた。ところが宮本氏が病死した翌日の86年11月1日に、残された女性7人が和歌山市の海岸で焼身自殺をした。

 そして06年にも東京・東大和市でハーレム生活を送っていた自称占い師・渋谷博仁(当時57歳)が逮捕されている。こちらは脅迫などにより、女性を傍に置いていたものだとされ、方舟事件などとは性質の違うものだと言えるが。


                                     終わりなき悪夢より抜粋
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