今日は、私が8月13日靖国神社を参拝した際、購入した歴史教科書(大東亜戦争を見直そう 名越二荒之助「なごしふたらのすけ」氏著)より話題を借りよう。137~140ページを勝手に転載させていただく。
昭和18年(1943年)、大東亜戦争も日本の苦戦が漸く明らかになりつつあった頃のことです。ソロモン海域では日米両軍が彼我肉薄して、連日のように死闘が繰り返されていました。その海域では日本艦船の犠牲も多く、「駆逐艦の蟻地獄」とさえ言われていました。
8月2日の深夜のことです。日本の駆逐艦「天霧」(艦長花見弘平中佐)が、ファーガソン水路を走っていました。すると前方800メートル先に、アメリカの魚雷艇(PT109)が目にとまりました。もちろんその頃、その魚雷艇には、未来のアメリカ大統領ケネディが、艦長として乗っていることは誰にも分かりはしません。
花見艦長は獲物を見つけると、「取り舵一杯」と命じました。速力30ノットの「天霧」ですから、二つの距離はたちまち縮まって行きます。「天霧」は逃げようとする魚雷艇に、あっという間に襲いかかりました。「天霧」の艦首が「PT109]のドテッパラに突き刺さって、魚雷艇は真っ二つになったのです。その衝撃によって、「天霧」も砲塔を壊したと言われます。「PT109」の方は、一瞬のうちに焔に包まれてしまいました。
花見艦長はその時、魚雷艇の乗組員が全員戦死したものと判断しました。しかし、その時即死したのは2人だけで、あとの11人は海の中に投げ出されました。その衝撃でケネディ艇長は背骨をやられるという重症を受けました。しかし、それにもめげず、彼は部下11名を叱咤しながら泳ぎました。暗い海の中を、救命具のベルトの端を歯で喰いしばりながら、5キロ離れた珊瑚礁まで、5時間かかって泳いだのです。彼等11人は、後にツラギ基地と連絡をとって、全員助かりました。
ケネディは後に中尉に昇進しましたが、そのときの傷がもとで、入院する身となりました。しかし、傷はなかなか良くならず、何回も入退院を繰り返しました。そして最後は背骨の一部を切削して、スチールを二つ入れました。
彼が入院中に書いた『勇気ある人々』(たとい少数意見でも、大衆に迎合せず、選挙の勝敗を度外視して、断乎と主張を貫いた8人の政治家のことを書いた作品)は、アメリカでピューリッツア賞という名誉ある賞を受けました。
昨日の敵は今日の友・・・・大統領選を応援した「天霧」乗組員
そして年移り日は過ぎて、昭和26年秋のことです。当時ケネディは下院議員になっていました。彼は国際会議の帰途日本に立ち寄って、日本外政学会の理事長である細野軍治氏に会いました。ケネディは別れる寸前、細野氏に頼みました。「ソロモン海戦で自分の魚雷艇を真っ二つにした駆逐艦の艦長は誰か、探してくれ」と。そして、細野氏の調査で、それは当時福島県塩川町の町長をしている花見弘平氏だということが判ったのです。
ケネディは早速花見氏に、自分の写真の裏に、「昨日の敵は今日の友」と書いて、手紙と一緒に送りました。二人の間に男と男の友情が芽生えたことは勿論です。
そしていよいよケネディは大統領に立候補することになりました。彼はカトリック教徒です。アメリカではカトリックが3分の1、プロテスタントが3分の2です。今までカトリックで大統領になった者はおりません。相手候補のニクソンはプロテスタントです。宗教感情の根強いアメリカでは、ニクソンが勝つという予想が立てられました。
ケネディは花見氏に、大統領選挙の応援に来てくれと頼みました。しかし、花見氏は多忙のため行けず、当時の「天霧」乗組員を派遣しました。
乗組員がアメリカに行くと、各地で大歓迎です。かつてソロモン海域で死闘を演じた敵が、今は恩讐を越えて選挙応援するという光景は、人間であれば誰も感激を覚える騎士道の象徴なのかも知れません。特に西部劇を好むアメリカ人には、こういうことは受けるのです。アメリカ民衆が熱狂的な反響を示したことは、当然であったでしょう。この模様は日本の新聞にも紹介されたので、皆さんもご存知のことと思います。
選挙の結果は、得票率において0.04パーセントの差、文字通りタッチの差でケネディが勝ちました。ケネディーの勝因の一つに、「天霧」乗組員の応援があったことは、否定できますまい。(以上引用)
・・・・こういう話は聞かされるべきだとおもうし、日本がアメリカと戦争したことさえ教えない日本の教育界は余程どうかしている。
日教組鳩山民主ともなれば、背筋が寒くなりますよねえ。
昭和18年(1943年)、大東亜戦争も日本の苦戦が漸く明らかになりつつあった頃のことです。ソロモン海域では日米両軍が彼我肉薄して、連日のように死闘が繰り返されていました。その海域では日本艦船の犠牲も多く、「駆逐艦の蟻地獄」とさえ言われていました。
8月2日の深夜のことです。日本の駆逐艦「天霧」(艦長花見弘平中佐)が、ファーガソン水路を走っていました。すると前方800メートル先に、アメリカの魚雷艇(PT109)が目にとまりました。もちろんその頃、その魚雷艇には、未来のアメリカ大統領ケネディが、艦長として乗っていることは誰にも分かりはしません。
花見艦長は獲物を見つけると、「取り舵一杯」と命じました。速力30ノットの「天霧」ですから、二つの距離はたちまち縮まって行きます。「天霧」は逃げようとする魚雷艇に、あっという間に襲いかかりました。「天霧」の艦首が「PT109]のドテッパラに突き刺さって、魚雷艇は真っ二つになったのです。その衝撃によって、「天霧」も砲塔を壊したと言われます。「PT109」の方は、一瞬のうちに焔に包まれてしまいました。
花見艦長はその時、魚雷艇の乗組員が全員戦死したものと判断しました。しかし、その時即死したのは2人だけで、あとの11人は海の中に投げ出されました。その衝撃でケネディ艇長は背骨をやられるという重症を受けました。しかし、それにもめげず、彼は部下11名を叱咤しながら泳ぎました。暗い海の中を、救命具のベルトの端を歯で喰いしばりながら、5キロ離れた珊瑚礁まで、5時間かかって泳いだのです。彼等11人は、後にツラギ基地と連絡をとって、全員助かりました。
ケネディは後に中尉に昇進しましたが、そのときの傷がもとで、入院する身となりました。しかし、傷はなかなか良くならず、何回も入退院を繰り返しました。そして最後は背骨の一部を切削して、スチールを二つ入れました。
彼が入院中に書いた『勇気ある人々』(たとい少数意見でも、大衆に迎合せず、選挙の勝敗を度外視して、断乎と主張を貫いた8人の政治家のことを書いた作品)は、アメリカでピューリッツア賞という名誉ある賞を受けました。
昨日の敵は今日の友・・・・大統領選を応援した「天霧」乗組員
そして年移り日は過ぎて、昭和26年秋のことです。当時ケネディは下院議員になっていました。彼は国際会議の帰途日本に立ち寄って、日本外政学会の理事長である細野軍治氏に会いました。ケネディは別れる寸前、細野氏に頼みました。「ソロモン海戦で自分の魚雷艇を真っ二つにした駆逐艦の艦長は誰か、探してくれ」と。そして、細野氏の調査で、それは当時福島県塩川町の町長をしている花見弘平氏だということが判ったのです。
ケネディは早速花見氏に、自分の写真の裏に、「昨日の敵は今日の友」と書いて、手紙と一緒に送りました。二人の間に男と男の友情が芽生えたことは勿論です。
そしていよいよケネディは大統領に立候補することになりました。彼はカトリック教徒です。アメリカではカトリックが3分の1、プロテスタントが3分の2です。今までカトリックで大統領になった者はおりません。相手候補のニクソンはプロテスタントです。宗教感情の根強いアメリカでは、ニクソンが勝つという予想が立てられました。
ケネディは花見氏に、大統領選挙の応援に来てくれと頼みました。しかし、花見氏は多忙のため行けず、当時の「天霧」乗組員を派遣しました。
乗組員がアメリカに行くと、各地で大歓迎です。かつてソロモン海域で死闘を演じた敵が、今は恩讐を越えて選挙応援するという光景は、人間であれば誰も感激を覚える騎士道の象徴なのかも知れません。特に西部劇を好むアメリカ人には、こういうことは受けるのです。アメリカ民衆が熱狂的な反響を示したことは、当然であったでしょう。この模様は日本の新聞にも紹介されたので、皆さんもご存知のことと思います。
選挙の結果は、得票率において0.04パーセントの差、文字通りタッチの差でケネディが勝ちました。ケネディーの勝因の一つに、「天霧」乗組員の応援があったことは、否定できますまい。(以上引用)
・・・・こういう話は聞かされるべきだとおもうし、日本がアメリカと戦争したことさえ教えない日本の教育界は余程どうかしている。
日教組鳩山民主ともなれば、背筋が寒くなりますよねえ。