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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

Smart Beauty

2006年07月19日 | Weblog
「むちゃくちゃな暴論」 敵基地攻撃で小沢代表 (共同通信) - goo ニュース

 今年もNHKが醸し出すであろう、「平和を叫ぶ女々しく暑苦しい夏の到来」である。この公共放送にとっての『命題』とは「日本人の心根がいかに蛆虫がごときものであるか日本人民に知らしめすことなのだ。注意して平和祈念反戦特集番組に耳を傾け、そして、日本人に生まれてきたことをNHKと共に恥じるが良い。日本人はNHKに貶められるために視聴料を払っているのかと殺伐とした気持ちにされないように、今のうちに祈りを捧げよう」

 待ち焦がれた今回の「スマート・ビューティー」は『曽野綾子』氏の登場である。以下の記事は平成18年7月17日産経新聞による。

 『平和への希望 安易に言えぬ正義の覚悟』

 六月の沖縄の事実上の終戦から八月十五日まで、毎年まるで歳時記のように平和についての覚悟や心得を皆が口にする。
 改めて言わなくとも、誰も穏やかな毎日が好きである。私も空港で手荷物検査をされるたびに、「私のような老人が何日もかかるハイジャックをする気力があるものか」と内心で笑っている。私がハイジャック犯で、機内の数百人もの乗客を拘束任務を任されたらすぐに疲れ果て、「すみません。もう疲れましたから、やめて温泉に行きます」と言うだろう。
 しかし、誰もが平和が好きだと言うこともまた錯覚である。この世に、平和好きの人間と、戦争好きの人間の二種類いるわけでない。
 一人の人間の中に平和と破壊を望む感情が混在しているのが、むしろ普通と見なされなければならない。
 私たちは穏やかな毎日も好きだが、戦争も、暴力も、抗争も、対立も確執もどこかで支持している心理があるのだ。
 ボクシングの世界では「ぶっ殺す気でやれ!」などという言葉が、トレーニングで平気で使われていると言う。第一、人を殴ることを興行にして、見て楽しむ人もいるという事実は、誰もが時には平和に退屈することだ。
 中世のサッカーは、町の若者の即興的な喧嘩で、始めはもちろんルールなど一切なかった。まさに暴徒による乱闘だったのでエドワード二世は禁止令を出している。やがて手を使わせると殴りあいになるから、足と頭だけ使うことを許すルールができたのだろう。暴れるサポーターはその発生の名残を留めている。
 中近東では平和のことを「サラーム」とか「シャローム」とか言う。シャロームは厳密には「欠けたもののない状態」を示すそうだ。水さえ不足することの多いこれらの土地で「かけたもののない状態」などこの世で手に入るものではない。その代わり死んで天国に行けば、冷たい水の溢れる泉や蜜の流れる川があると言われているが、現世は貧困と部族抗争の連続だ。現世ではあり得ないものが「シャローム=平和」だと彼らは認識しているから、それ程の尊いものをあなたに贈りますという意味で、挨拶にも「シャローム」「サラーム」を使う。
 平和は希望して語り継ぎ、千羽鶴を折れば実現すると思うような甘さとは縁がない。
 平和は、その達成のために自己の命を差し出す覚悟を持つことだ。
 向こうが向って来ても、手を上げなければ、略奪、放火、レイプ、主権の剥奪、思想の自由の弾圧、強制労働、粛清は避け難い。
 これは空想ではなく、現代史の示すごく普通の事実である。もちろんそれに抗して死んだ勇者は常にいた。だから、正義のために死ぬ覚悟の定まらない私のような者は、軽軽に『平和』を口にしないようにしている。(全文)

 この『曽野綾子』氏の文章には深く心打たれるものがある。平和は人類に本源的に保障されているいるものでははない。従って、平和でない状態から平和を創造するには『正義の暴力』をもってしなければならないし、平和が侵されそうになったら、これまた『正義の暴力』をもって守らねばならない。
 少なくとも平和経なる念仏など屁のつっかい棒にもならない。だから、念仏しか唱えることのできない公共放送などが『やれ平和』『やれ不戦』『やれ無防備』などと世界中に怪伝播を垂れ流せば、「既に日本は略奪、レイプ天国なりと侵略の涎が止まらないのである」。 NHKにもかような見識を持ってもらいたいものである。
 
 ソ連崩壊とともに中国が台頭し脅威はさらに近づき現実のものとなったのだ。「そうじゃあーりませんかOZAWAさん?」。