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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

核など所詮道具

2006年03月22日 | Weblog
 我々はいつまでも「持たざる誇り」などと「自己満足」に浸っていてよいのか、世界情勢の変化を先取りしていく能力を身に付けてこそ、「民族」として存続が保障されるのではあるまいか。敗戦後60年も経つのに「負け犬ヒステリー・シンドローム」から開放されないのは、日本民族の悲劇である。いつまで、「自己完結できない国の国民」でいるつもりなのであろうか。『目覚めよ日本人!』と空しく叫ぼう。

 米ソ冷戦時代は、ソ連の崩壊をもって終結したことは、数学的な事実である。一方が消滅すれば、その方程式も自動的に消滅するもは当然である。
 ところが、背骨を骨抜きにされてしまった日本人は、「米ソ冷戦」時代の後に何が来るか、全く考えようようともしない。いよいよ未来永劫の平和が訪れると信じて止まないとしたら、大東亜戦争で何のために「原爆の洗礼」を受けたのかその意味も咀嚼していないことになる。一つの勢力の滅亡は、新たな勢力の勃興である。
 新しい勢力とは「中国」であるという認識は、日本人ならずとも世界が認めるところである。
 日本が先の大東亜戦争に負けたのは、単に「原子爆弾」を持つことができなかったからに過ぎない。もし、米国が原子爆弾を持つ前に、日本が開発していれば、今や日本は、米国に代わって世界に君臨していることであろう。人類の歴史とはこのようなものであると認識すべきであろう。先の大戦で日本が負けたのは、「勝ち抜くだけの知恵もないのに戦争した罪」、それしかないのである。決して、ナイーブであってはならない。

 前置きが長くなってしまったが、今日は傾聴に値する意見に耳を傾け世情を知ろう。(三月十六日、産経新聞正論、伊藤憲一氏の寄稿である):

 NPT体制の非現実性直視せよ

 核の論理が、冷戦後、そして米中枢同時テロの9.11以後様変わりしてきている。それにダメ押しをしたのが、今回の米印接近である。
 核拡散はもはや避けられない趨勢となった。プロメテウスがゼウスから火を盗んだ後、もはや人類を火から遠ざけることはできなくなったように、核もまた、これを未来永劫に封印することは不可能である。
 そもそも、知識や技術は必ず伝播するものなのである。加えて、地球規模でものごとが進むグローバリぜーションを背景として、「核の闇市場」まで登場している。
 「不安定の弧」といわれるユーラシア大陸の南縁に沿って、北朝鮮、中国、インド、パキスタン、イラン、イスラエルの六ヵ国が核兵器を保有し、或いは間もなく保有しようとしている。この現実を日本もまた直視する必要がある。
 ここまで書くと、「べき」思考の強い日本人からは「唯一の被爆国としてそんなことを認める訳にはゆかない。核は絶対に廃絶されるべきである」という反発の声が聞こえてきそうである。
 しかし、それゆえにこそ、私は主張したいのである。「べき」思考のまえに事実認識としての「である」思考がなければならないと。
 この点では、米国の核の理論がさまがわりしてきていることに先ず注目したい。米印接近は、そのことを物語って余りある。
 米国は、インドがその核施設を軍事用と民生用に二分し、民生用を国際原子力機関の査察下に置けば、米国はインドの原子力発電に技術や燃料を供給するというのである。
 一見、インドを核拡散防止条約(NPT)体制下に取り込もうとするかのごとき印象を与えるが、そもそもIAEAの査察は、民生用を口実に軍事用の核開発を進めることを防ぐことが目的であったのだから、軍事用を査察せずに、民生用だけを査察することなどは本来全く無意味なことである。
 これらのことは、全て何を物語っているかというと、米国の核の原理が転換したことを意味している。
 
 NPTが締結された1968年当時における米国の核の論理は、(1)米ソ英仏中以外の国の軍事用核開発を認めない。(2)それらの国が民生用核開発をする場合は、IAEAの査察下に置くというものであった。
 この論理を貫くために多くのアメとムチが用意され、日本もその圧力に屈した。
 このNPT体制は、米ソ核不戦体制ともいうべき「相互確証破壊(MAD)」体制と表裏一体の関係にあり、当時世界は、これを米ソの「コンドミアム(共同統治)」と呼んだ。フランス、中国が冷戦時代、ついにNPTに加盟しなかったのは、このためであった。
 このような米国の核の論理が、冷戦の終焉後も無傷残ると考えることには無理があった。
 ソ連が消滅したあと、米国はABM制限条約の破棄、包括的核実験禁止条約の拒否などを経て、2005年にはNPT運用検討会議を破綻せしめた。
 なぜ米国は、その核の論理を転換させたのだろうか。
 私は、もはやソ連の核の脅威を無視してもよくなったとの判断と同時に、NTP体制による核不拡散の確保が現実的ではなくなったとの判断が米国に生まれたためであると考えている。
 ブッシュ政権は、9.11直後の2001年12月に米連邦会議に「核戦略見直し(NPR)」を提出している。
 この報告書は、その内容が非公開とされたため、十分な注目を集めていないが、この広告書が米国の核戦略の転換を論じたこと間違いがない。
 米国は、すべての非核保有国を一視同仁するのではなく、敵味方を区別して、「グッド・ボーイ」の核保有は黙認するが、「バッド・ボーイ」の核開発はこれを全力で阻止するとの戦略に転じたものと思われる。
 しかし、この戦略転換はNPT体制の崩壊を糊塗する弥縫策にすぎず、核は長期的には拡散防止が不能となりつつあるのかもしれない。
 日本は、「核廃絶!」と叫んでいるだけでは、時代に取り残されてしまう恐れがある。
 今こそ日本もまた、核の現実を直視し、その戦略をもたなればなるまい 。(全文)

 まことに、傾聴に値する「伊藤憲一」先生のご意見である。あらゆる偏見を捨て真摯に核の問題を国民を挙げて議論し、国益のためにどうすべきか考えなければならないと思うし、先送りは国家存亡に関わる事である。