昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

Cuando Caliente SHIZUOKA#29

2006年02月27日 | Weblog
 その昔、静岡新聞はオバサマ連中に事の外人気があった。その理由はSBSテレビの昼のメロドラマの解説が事細かに書かれていたからだという(当時、番組解説新聞と揶揄されていた)。その頃から比べれば、この静岡新聞は今や格段の進歩を遂げ、全国紙と比較しても見劣りしないばかりか、地方紙ならではの自由度を満喫するレベルに達したことは大いに評価したい。

 最近では静岡新聞が「ネタ元の話題」が多くなってしまって、「静岡新聞の太鼓持ち」に成り下がったかと自嘲することしばしばである。

 ところで、今回のトリノ・オリンピックの総括がなされなければなるまいと思っていた矢先に、とても良い記事が掲載されているので、記録に留めて置きたい。

 金メダルの裏側 「世界」を知ってこそ (編集局次長 加藤訓義氏署名記事)

 金メダルの裏に、鬱積していた欲求不満はきれいに吹き飛んだ。終わりよければ全てよし・・・そんな気にもさせられた。
 荒川静香選手の晴れ姿を、生中継でしっかりと目に焼き付けた。それなのに、栄光のシーンが録画放映されるたびに、思わず見入ってしまう。年末まで何度、目にするだろうと思いながら。
 「だが待てよ」である。荒川選手の快挙には、素直に拍手喝采だ。しかし、大会も大詰めの13日まで、メダルゼロの不振に喘いだ日本勢の現実を忘れては困る。終わりよければ全てよしではないのだ。
 スキー距離の男子選手は、五輪が戦場だったことを思い知らされたという。「みんな目が違った。僕には浮ついたところがあった」「他の選手は殺気が漂っていた」と。
 選手村での生活態度の悪さも指摘される選手も出た。これでは戦う前に結果は見えていたようなもので、「メダル獲得だ」「入賞を目指す」と念じても、空念仏にすぎなくなる。
 「メダル5個かそれ以上」・・・日本選手団の遅塚研一団長は、大会前にこうぶち上げた。世界の力を分析し、実情を把握した上での目標設定だったはずだ。
 ところが、いざ蓋を開けると、戦う姿勢で後れを取ったり、力不足から世界の壁に跳ね返されたりする選手が相次いだ。目標がどんどん遠のいていく実態に、選手だけでなく、率いるスタッフにも甘さがあったのでは、との思いを強くしていた。
 そう思いながらも、救世主が現れないかと女子フィギュアを待った。
 するとどうだ。荒川選手が最高に輝くメダルを勝ち取った。女神の出現に、日本選手団首脳陣はきっと胸を撫で下ろしたに違いない。
 荒川選手は世界を見据え、周到な準備の上で氷上に立った。その取り組みの中にこそ、世界の舞台で戦う秘訣が隠されているのだろう。(全文)


 多かれ少なかれ、の本国民はこのような感傷に耽ったに違いない。「日本代表として私は楽しんだ」と期待されながら「箸にも棒にも引っかからなかった連中」が臆面もなく堂々とこのように発言するのである。何と不愉快な言いぐさであろう。
 これでは、日本国民は「居直り強盗」にあったようなものである。この馬鹿どもに誰が「私は楽しんだ」などというふざけた「言い訳方法」を教えたのであろうか。

 日本国民は、汗水垂らしてまでして、何故にこの馬鹿どもを栄えある「オリンピック戦場」に送り込んだと悔やんでいるのであるから、責任者は、日本国代表としての自覚もないばかりかこのような軽々しい発言を臆面も発する選手を選んだことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。素直に土下座いたせ!

 いやしくもオリンピック代表として世界に送り込む以上「言っていいことと悪いことの行儀」ぐらいは教育してから派遣すべきである。

 最近の悪しき傾向とは、学校教育における「絶対評価」という評価のあり方である。こんな馬鹿な価値観で飼育された豚学生どもが国際的な大舞台で活躍できるはずはない。井の中の蛙以上にはなり得ないのである。
 こういう発想をするのが大抵の場合女性人権擁護団体とそれに呼応する日教組とナーバスな教育界である。このアホの三点セットを破壊しない限り、「私は楽しんだ」と臆面もなく言い逃れする連中の製造源となること必定である。
 我々は大きな声を出し主張しよう「オリンピックはお前達のマスター・ベイションの劇場ではない」。

 今後は、大挙して「物見遊山」にでも行ったかなどと揶揄されることのないようにしてもらいたい。