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若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

日本を駄目にした過去の囚人

2006年02月15日 | Weblog
 以前、「オウム貝よその口を閉じよ」という文章を書いて記憶があるのだが、またしても元外務省駐米大使だったそのお方が、「産経新聞」(平成18年2月14日)に登場なされた。せいぜい物笑いの種にしよう。

 小泉首相に靖国神社参拝中止を求めた真意は?:

 加害者である日本がやはり歴史を直視し、反省し、日本の外交政策や対アジア政策に反映させる努力を続けなければならない。中国や韓国が、戦後の日本は戦前と違うと評価して、初めて和解が実現する。近隣国との関係が安定することは日本の安全保障にとって大事だし、和解が旨くできるかどうかで日本の国としての姿、品格が違って来ると思う。

 (この頓珍漢は日本国憲法がどのような素性であるかも理解せずに、外務省にいたのである。何処の名門大学を卒業したか知りたくもないのであるが、現在の日本は骨抜きにされ、自衛戦争すら遂行できるかどうか疑わしい状況にある。それを、戦前と違うことを示せとは一体どうせよというのか。この日本人を骨抜きにしたGHQ提供の憲法の「趣旨」を憎むべき中共などはよくよく研究した上で無抵抗これを国内法の民法で表現すれば「法的無能力者」というのであるが、そのような国際的に骨抜き国家に成り下がってしまったのを「百も承知」で無理難題を押し付けている様もイメージできないほどの低脳なパーソナリティーを自ら暴露している取るに足らないご発言である。自国がどのような惨めな立場に立って来たかも分らぬ者が畏れ多くも外交官などとたかを括ってきたところに、現在の日本の悲惨さが映し出されているのだ。オウム貝よ、出演する場面を間違えるものではない。アホ時代は終わったのであるから、もはやインド洋の深海に沈め。)

 戦後、多くの首相が靖国神社に参拝しているのもまちがいか?:

 そう思っている。外務省の現役官僚だったときは、時の政治判断と違うことを言うことは控えていたが、個人的には二十世紀前半の日本がとった政策は一貫して間違っていたと思う。
 戦争の犠牲になられた方の大部分の人は純粋に国のために戦って命を落としたと思う。その霊を追悼するのは日本人として当然やっておかしくないことだ。しかし、首相や政府の責任ある立場の人が靖国神社を参拝することで、「はたして純粋にそうなのかな」という印象を国際的に与えることは間違いない。

 (実に呆れた御所見である。この文章を、中学生や高校生に読ませて、テスト問題として、このように設問してみる。「問題:このとてもへんてこりんな作文は一体何処の国の人が書いたものか次のうちから選べ。1アメリカ人 2日本人 3中国人 4韓国人」こう設問したら、まず日本人の書いた文章ではないだろう。おそらく中国人という答えが一番多くて、次に韓国人、アメリカ人という答えが返ってくるに違いない。次にこう質問するのである「それなら何故そう思うのか」すると、気の利いた学生なら、外国の立場で事が語られているからと答えるであろう。そして、実はこの文章は、日本国の外交官が書いたものだと説明すれば、「どうしてこんなに頭が悪いのか、だから日本は駄目になってしまったのだ」という感想を持つに違いない。とにかく、「日本人であること国益とはただ相手に合わせてヘラヘラしていることが外交の全て、能も無ければ策もなし」そういうスタンスがひしひしと伝わって来る画期的な記事である)

 この時期に論文を書いた理由は?:

 ナショナリズムの高まりに非常危機感を持っている。江沢民前国家主席は平成十年に来日時に日本人のナショナリズムを刺激し、対中感情を悪くした。近年、日本のナショナリズムは強くなっており、国際社会から見ると「日本は何処にいくのだろうか」という獏とした不安感が出てきているのではないか。

 (現在、国際社会が最も危惧していることは、日本の行き先ではあるまい。贖罪意識しかない人間の観点は、自虐でしかないから困る。日本のナショナリズムというのは、中国の反日ナショナリズムに対抗する形で喚起されていることを認識すべきであって、中国の半日の反作用である。一番馬鹿げたセンチメンタリズムとはこちらが遠慮すれば相手がそれを汲み取ってくれるだろうという馬鹿げた念仏の虜になってしまうことである。そのようなお人よし外交のツケをこれからの日本国民が払っていかなければならないのである。自分達が行った能無し外交を将来に向って続けよなどと、厚かましい発言ぬけぬけとするべきではあるまい。
 今のところ、法的に日本は「丸腰」なのであるから、中国あたりのナショナリズムと同等に比較するべきではない。ただ叫ぶだけに終始するのである「ナショナリズムに危機感」などと、どの面提げて日本国民に言うのか。この「オウム貝」が中国へでも出向いて「中国のナショナリズムは危険」だと発言する度胸があるなら、それはそれで価値あることであろう)

 国際社会の不安感は誤解に基づくものではないか?:

 そこはちょっと違う。ドイツと比較して、戦後の日本は帝国主義政策、膨張政策を採った二十世紀前半の行為について、きちんとした総括をしなかったところが問題として残る。

 (とんでもないマスターベーションぶりである。押し迫る加齢のためボケたなどと言ってすまされる問題ではない。当時の同盟国ドイツの悪行というのは、帝国主義的拡張政策については、後の連合国(戦勝国)も利害を共通のものとしていたから、宇宙人的な観点に立ったときお互いの犯してきた所業としての(有色人種への人権無視と迫害、搾取)と領土拡張政策(言葉を替えれば帝国主義)についてはその罪を相殺しよう。しかし、ヒットラーおよびナチス・ドイツが行ったユダヤ人への「ジェノサイド(GENOCIDE)これについては未来永劫その罪を負えということであった。そこで、ドイツ人はその罪をヒットラーとナチスの構成員に負わせることで「良く分らないまま戦争に加担した罪深き被害者」という形をとって世界の許しを請うたのである。
 このオウム貝のおりこうさんはどだい頓珍漢なのである「日本人」が歴史上どの時点で「ジェノサイド」たる罪を犯したというのか、己意外は英語も分らぬほど日本人が馬鹿だと思っているのか「GENOCIDE」の元々の意味は殺戮のことであり、そこから派生して、「集団殺戮」という意味に添加し、ナチス・ドイツのユダヤ人殺戮が民族(人種)を根絶やしにするほどの凄惨なものであったため、殊更不吉な意味を加味されたものである。
 こんな馬鹿は、中共の片棒を担ぎ、我が日本の先人がそれ以上非道なことをしたとでも言いたいのであろうか?
 歴史を学ぶ中学生、高校生はこのようなイカレタ外交官の口車に乗ってはいけません。日本が戦争を戦った時代は、戦わなければ喰われてしまう時代に我々の先輩達が果敢に挑戦した勇気ある時代であった。たまたま判断を誤り、敗戦の憂き目を味合わされたが、我が祖先は実に勇敢であった。ここに及んで戦争責任などという「和製中国人」どもの言うことに耳など傾ける必要は全くありません。
 我が民族は、原子爆弾を投下され世界史上初めて人体実験されることにより、日本人全体として、その罪を望むと望まざるに拘わらず十分に支払ったのです。今尚原爆症に苦しむ人々がいますそういう人たちに対し、我が事の如く思いを寄せ決して貴方方は運が悪かったなどと思ってはなりません。運命を共有することにより明日の日本がどのようなものであるべきか、何をすべきか考えることです。

 先の大戦に対する歴史的評価は定まっていのではないか?:

 外務省条約局長時代、私は国会で「国際社会では、あれは侵略戦争だ、というのが評価です」と言った。日本人はその評価に異論あるかもしれないが、国際社会の判断は既に下されている。米国に日本の首相が「あの戦争は自衛の為のせんそうだった」と言ったら、日米関係はもたない。
 人類の歴史は、残念ながら常に戦争を繰り返してきた。その歴史は、殆ど戦争に勝った側が書いている。負けた人からは「公平ではない」と思えるかもしれないが、勝者が書いた歴史が歴史として受け入れられている。そのことを日本人は受け入れないといけない。

 どうもこのオウム貝氏は我々から見れば負け犬のラッパ吹きでしかないのであるが、三流国の外務官僚根性は相当なものである。何でも、現役エリート時代には、国会で、「国際社会では、あれは侵略戦争だというのが侵略だと言うのが評判です」と答弁したことが人生最高の至福の時だったと誇らしげに述懐しておられる。見せしめ裁判によって、大いに日本精神は破壊されたのであるが、この自称エリート氏は積極的自暴、自棄、自虐、贖罪を実践したことがプライドであったと堂々と発言するのだから、畏れ入る。「この野郎、貴様が売った日本国を我々後継者に反せ!」
 本来外交官の仕事とは、国際関係において国家として「分の悪いところがあるなら、その才覚をフルに活用し権利を勝ち取って行くものではないのか」
 ところが、オウム貝氏の発言は、ガキ大将に弄られ続けて生きていくことだけを日本国民に強制するものである。言っておくが、自衛戦争であれ、侵略戦争であれ、戦争は広島、長崎への原子爆弾投下をもって、60年も前に終わったのである仮に日本に非があったとしても連合国側の非人道的な原爆による日本人の人体実験により相殺されているのである。この史実に基づく道理は子供でも直感的に理解できるにも拘らず、このように「日本人よ未来永劫歴史の囚人たれ!」などと、「神」にでもなったつもりで暴言、妄言を吐くのは断じて許すまい。
 貴様がその思い上がりにより捏造した「負け犬」という「ハンデキャップ」を背負って行かねばならない「将来の日本の若者の余計な苦労」を考えたて物申せ。もはや、能無し老いぼれの出番ではない。
 

過去の囚われ人

2006年02月15日 | Weblog
戦争責任論、ポスト小泉の有力3閣僚は慎重答弁 (朝日新聞) - goo ニュース

 先の戦争というのは、所謂西洋人(これをアングロサクソン系人種)というこの人種は己が皮膚の白きをもって、有色人種を虫けらかゴキブリのように評価していた(西部劇のアメリカ・インディアンの立場を思うべし)。日本人とて彼らからすれば、極東に住む虫けらの如き存在であったろう。

 自虐贖罪日本人の大好きな戦争責任など日本側にはあったとしても知れたものである。敗戦前、今でこそ「売国新聞」などと揶揄されているメディアがどれ程、帝国主義的侵略を煽ったか歴史が語るところであろう。(自分で自分の書いた記事を読み返すだけで済むはずである)。当時玉砕だの神風特攻隊などと煽りたて何人の若者を勝ち目のない戦場へ送り出したことであろう。そのくせ、GHQに占領されるや手のひらを反し、己が悪行を棚に揚げて、「戦争責任を問う」などとは一体どのような神経をしているのやら、まことにもって、気が知れない。

 このようなメディアこそ戦犯に値するのではないか、昔右翼、しかし今は改心して、左翼であると詭弁を弄せば許されるのであるか。そして、更に今では、「我が社は日本国籍とて持ち合わせていない」かつての過ちは先祖がやったものだと言い抜ければそれで済むと信じて疑わず、「国家の責任云々」を口にしているのだから開いた口が塞がらない。

 大東亜戦争の遠因は白人の有色人種に対する偏見である。彼らには自分達は根本的に有色人種よりも上等という信仰がある(それは今でも変わってはいまい)そういう白人の有色人種は白人に対して一段下という先入感があって、当時、有色人種である日本人が予想外に頭角をあらわしたことへの理不尽さに耐えられなかったことが潜在的な要因であったろうし、対日ABCD同盟により、我が祖国は、彼らに「干された」ことによる止むに止まれぬ生命維持のための戦いを挑んだのである。日本人という「種族」にとってこれ程当然な戦争はなかった。

 世にも非道な原子爆弾を広島と長崎に落とされ有色人種であるが故の制裁(原爆による非人道的人体実験)を受けて敗戦の運びとなったのであるが、この日本民族の存亡をかけた戦いの何処に戦争責任なるものがあろう。もしあるとすれば、ジャスコ・チャイナ氏の祖先とて当時生存していたという理由による責めを負うべきである。

 共産党や社民党紛いの国会質問は、支持者を失望させるだけのものである。中国人ならいざ知らず、一般の日本人はこのような話題には飽き飽きしている。