昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

歴史教育正常化

2005年07月31日 | Weblog
扶桑社教科書 総社市の単独採択可能 文科相、地区離脱認める見解 (産経新聞) - goo ニュース

 この扶桑社の歴史教科書が出現する前までは、国旗、国歌についてまったく教えていなかったというのであるからまことに驚くべき事である。
 国旗国歌法が平成十一年に制定されるまで国旗=日の丸、国歌=君が代という定義が無かったといえばそれまでの話であって、(それまでこの重大な案件を放置しておいた国民と国会議員の責任であるのだが)
 それにしても、日本国民として国民としてのまとまりの象徴であるべき国旗及び国歌について教えない教科書ばかりが罷り通っていたのだから、日本人たる自覚も持てない無国籍人ばかりになってしまったとしても無理からぬところか。
 今思うべき事は、教科書検定制度言うは、中共と朝鮮半島の理不尽な要求をただただ平身低頭して聞き入れて、日本が独立国であるのも疑わしい歴史教科書の内容としてしまったのである。そんなに中国だの韓国を恐れるあまりその職責にも耐えられぬ者は、自らの手で己が首を括り給え。
 私としてもたいした知識はないのであるが、国歌については、平安時代の古今和歌集のなかに「我が君の千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけの蒸すまで」読み人知らず。とあったものを、明治政府が一連の小学唱歌を創作した際、「我が君の」を「君が代は」と読み替えて唱歌としたものが、国歌という形に発展したと聞いている。国旗については、幕末の頃より艦船に日本船であることを識別するために、用いていた日の丸をそのまま援用してきたものだというくらいの知識しかないのである。
 この教科書を使用するにあたっては、韓国だの中国の激しい非難行動の中それにも見劣りしない国内左マキ連中の激しい妨害活動の中、正しい判断力を持ち、断固として採択された英断にエールを送るものである。
 パイオニアたる者は勇気あるものである。多くの市町村がこれに続けば喜ばしいことである。
 

カッコーの託卵

2005年07月31日 | Weblog
 二週間ほど前のことであるが、仕事で車を運転しながらラジオで聴いた話である。
 恥ずかしながら、いい年をして初めて「託卵」なる言葉を知ったのである。おまけに、実のところ「カッコー」という鳥の実物を知らないのである。
 「カッコー」のつがいは自分では巣をつくらず、別の種類の鳥の「愛の住み家」に留守をねらって侵入し、絶妙なタイミングで、既に生みつけてある卵の中に排卵し、員数分だけ先住者の卵を飲み込むなり、落とすなりして立ち去るのである。
 その後どうなるかといえば、カッコーの卵のほうが、先住者の卵より二、三日早く孵化するというのである。親がそのくらいずうずうしい鳥であるから、その雛とてずうずうしいというか残酷なることこの上ないのである。孵化するやいなや、先住者の卵を巣の外に落として排除するという習性があるのだという。
 せっせと餌を運び大苦労して育ててみたものの、育った子供は自分達の子ではなかった。
 この様にして、カッコーの託卵作戦はまんまと成功するのである。
 最初の犠牲者はオオヨシキリであったのだが気づかれるようになり、モズであるとかオナガに侵略の手が伸びているということである。ということは、その昔、この「カッコーの託卵」によって絶滅に至らしめらされた種も有ったかも知れない。
 何故、カッコーがこの様な形質を獲得したかについては、体温が低い為孵化させる事ができないからとか諸説紛々しているとのことであるが、真実は分からないとのことである。
 なんぼ鳥であるとはいえ、白い卵の中に黒い卵が混ざっていれば識別できるのであるから、ことを成功に導くコツはいかに相手の卵に擬態させるかという事に尽きるのだそうである。
 そして、擬態卵を生む能力はメスに備わっているのだという。これは、託卵の対象となる全ての種に万能な能力ではなくて、あるメスはオオヨシキリの擬態卵を生み、また、あるメスは、モズの擬態卵を産むというように、対象となる方向性が決まっているとのことである。恐るべき能力に驚かされるのである。
 好奇心旺盛な少年、少女は夏休みの研究課題としてみたらどうであろうか?