23日は渋谷のBook1stで”調べもの(笑)”をする傍ら、『親切なクムジャさん』を観てきた。パク・チャヌク監督の「復讐三部作」の掉尾を飾る1本は、期待通りの傑作だった。子供を誘拐し殺害した罪により、13年間服役。刑務所の中では、キリスト教信者となり、囚人仲間に親切に尽くして「親切なクムジャさん」と呼ばれた、イ・クムジャ。その彼女の出所とともに、裏で13年かけて練り続けた復讐劇が始まり、幼児誘拐殺人事件の秘められた真相が明らかになっていく。
笑いながら楽しく観られる、キッチリとエンターテインメントしていながら、そこで突きつけられるテーマはガツンと重い。法治国家にあって、復讐はどこまで許されるのか? 似たような事件が多発する、この日本にとっても、この映画が突きつける問題は決して人ごとではない。
ちなみに、私は死刑賛成論者だ。いや、もっと正確には死刑必要論者と言うべきか。死刑廃止論者が唱える、「最高刑は終身刑にすべきだ」と考え方が、私には全く理解できない。終身刑とは要するに、その人を国家の責任でキッチリ面倒見ますよ、ということだ。自由に外を出歩くことはできなくなるが、冷暖房完備の中で、毎日3食、豪華ではないかもしれないが、専門の栄養士がカロリー計算までした食事が出、飢えることもない。定期的に健康診断がなされ、病気になったらすぐ専門医に診てもらえる。待合室で3時間も待たされることはない。しかも、それが全て国家の税金でまかなわれるのだ。もちろん、当人は税金を納めることもない。言わば、終身刑とは、凶悪な犯罪を犯した代償として、そんな特権的な(!)身分を手に入れるということだ。
また、死刑廃止論者は「死刑によって凶悪犯罪が減るわけではない」と言う。それはその通りだと思う。しかし、では死刑とは凶悪犯罪を減らすためにあるものだろうか? いや、そもそも刑罰は犯罪の抑止力として存在するのだろうか? 確かにそういう面はあるが、死刑に限らず刑罰とは、国家が被害者に代わって行う「復讐行為」なのだと私は思う。たとえどんな刑でも、それが執行されたからといって、やったことが帳消しになるわけではない。しかし、それによって被害者の心がほんのわずかでも癒されるなら、そのことに意味がある、と私は思うのだ。
「冤罪によって死刑になってしまったら、どうするのか」という議論もある。しかし、これまで死刑になった人のうち、冤罪の発生率はどの程度なのか、といった具体的な数字が問われたことはない。私は(明確な根拠はないけれど、純粋に統計的に考えて)ある裁判官が誤って死刑判決を下す確率は、同じ人が車を運転していて、誤って人をひき殺す確率より低いように思うのだが、どうだろうか? もしそうだとすれば、死刑廃止ウンヌンより、例えば裁判官が車を運転することの是非が、まず問われるべきだと思うのだが…
…と、何やら文章が暴走してしまっているが、『親切なクムジャさん』に戻ると、物語がクライマックスに差しかかる時、クムジャさんは、人々にある「選択」を迫る。それは言ってみれば、ある人の罪に対する裁きを国家にゆだねるか、自らの手で復讐として行うか、という「選択」である。それを問われたのが韓国人ではなく日本人だったら、同じ方を選んだだろうか、ということが私としては興味あるところだ。「恨(ハン)」の国の人間と「和」の国の人間は、同じ選択をするのか、違う選択をするのか? あなたなら、どっちを選ぶ?
とにかく血なまぐさい映画でありながら、観ていてもそれが全くイヤらしくない。その辺は、北野武監督の『ソナチネ』にも通底するものがある。竹中直人をして「怪物」と言わしめたソン・ガンホが、ちょい役(しかも、ノーギャラか?)で出ていたりする、お遊びも秀逸。そして、雪のラストシーンはまるで舞台を観ているようだった。紛れもなく、韓流映画の「力」を見せつける1本である。
笑いながら楽しく観られる、キッチリとエンターテインメントしていながら、そこで突きつけられるテーマはガツンと重い。法治国家にあって、復讐はどこまで許されるのか? 似たような事件が多発する、この日本にとっても、この映画が突きつける問題は決して人ごとではない。
ちなみに、私は死刑賛成論者だ。いや、もっと正確には死刑必要論者と言うべきか。死刑廃止論者が唱える、「最高刑は終身刑にすべきだ」と考え方が、私には全く理解できない。終身刑とは要するに、その人を国家の責任でキッチリ面倒見ますよ、ということだ。自由に外を出歩くことはできなくなるが、冷暖房完備の中で、毎日3食、豪華ではないかもしれないが、専門の栄養士がカロリー計算までした食事が出、飢えることもない。定期的に健康診断がなされ、病気になったらすぐ専門医に診てもらえる。待合室で3時間も待たされることはない。しかも、それが全て国家の税金でまかなわれるのだ。もちろん、当人は税金を納めることもない。言わば、終身刑とは、凶悪な犯罪を犯した代償として、そんな特権的な(!)身分を手に入れるということだ。
また、死刑廃止論者は「死刑によって凶悪犯罪が減るわけではない」と言う。それはその通りだと思う。しかし、では死刑とは凶悪犯罪を減らすためにあるものだろうか? いや、そもそも刑罰は犯罪の抑止力として存在するのだろうか? 確かにそういう面はあるが、死刑に限らず刑罰とは、国家が被害者に代わって行う「復讐行為」なのだと私は思う。たとえどんな刑でも、それが執行されたからといって、やったことが帳消しになるわけではない。しかし、それによって被害者の心がほんのわずかでも癒されるなら、そのことに意味がある、と私は思うのだ。
「冤罪によって死刑になってしまったら、どうするのか」という議論もある。しかし、これまで死刑になった人のうち、冤罪の発生率はどの程度なのか、といった具体的な数字が問われたことはない。私は(明確な根拠はないけれど、純粋に統計的に考えて)ある裁判官が誤って死刑判決を下す確率は、同じ人が車を運転していて、誤って人をひき殺す確率より低いように思うのだが、どうだろうか? もしそうだとすれば、死刑廃止ウンヌンより、例えば裁判官が車を運転することの是非が、まず問われるべきだと思うのだが…
…と、何やら文章が暴走してしまっているが、『親切なクムジャさん』に戻ると、物語がクライマックスに差しかかる時、クムジャさんは、人々にある「選択」を迫る。それは言ってみれば、ある人の罪に対する裁きを国家にゆだねるか、自らの手で復讐として行うか、という「選択」である。それを問われたのが韓国人ではなく日本人だったら、同じ方を選んだだろうか、ということが私としては興味あるところだ。「恨(ハン)」の国の人間と「和」の国の人間は、同じ選択をするのか、違う選択をするのか? あなたなら、どっちを選ぶ?
とにかく血なまぐさい映画でありながら、観ていてもそれが全くイヤらしくない。その辺は、北野武監督の『ソナチネ』にも通底するものがある。竹中直人をして「怪物」と言わしめたソン・ガンホが、ちょい役(しかも、ノーギャラか?)で出ていたりする、お遊びも秀逸。そして、雪のラストシーンはまるで舞台を観ているようだった。紛れもなく、韓流映画の「力」を見せつける1本である。
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