時々刻々現社的学習2009

「現代社会」の授業用ブログ

砂川闘争と砂川事件

2009-05-30 15:27:58 | 日記
先日、「砂川闘争」の舞台となった立川市砂川町の跡地に闘争の歴史などを伝える公園を整備する計画がもちあがっているという新聞報道があった。「砂川闘争」は米軍基地になっていた立川基地の拡張計画から、当時、砂川町の土地収用に反対する農民などの住民が反対運動を展開して起こった。「砂川事件」はその反対運動の過程で発生した事件である。

◆「砂川事件」
砂川事件(すながわじけん)は、1957年(昭和32年)7月8日、東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件。当時の住民や一般の人々ではおもに「砂川紛争」といわれている。
(Wikipediaから引用)


■砂川闘争跡地に公園 (2009年05月26日 朝日新聞記事から引用)

旧米軍立川基地(立川市)の拡張計画を反対農民らが阻止した「砂川闘争」で、舞台となった土地の跡地利用を検討してきた国、市、地元住民らで作る「市新庁舎周辺まちづくり協議会」は、闘争の歴史を伝える公園の整備などを骨子とする利用方針をまとめた。29日、清水庄平市長に提出する。住民と警官隊が衝突を繰り返した土地が、50年以上を経て平和利用へと動き出した。(米沢信義)

協議の対象となったのは旧米軍立川基地の拡張予定地だった同市砂川町の「砂川中央地区」約20ヘクタールと、基地が返還された後、国の留保地となっていた「立川基地跡地地区」約15ヘクタール。砂川中央地区は、基地拡張のために国が1955年から買い取った国有地と、それを拒んだ地元住民の土地が混在する。農家が座り込みを続けた「団結横丁」や闘争の歴史を刻んだ碑があるのもこの地区だ。

 方針では、砂川中央地区は、主に低層住宅地として活用、国営公園北線に接する南部に公園を整備する。点在する石碑を含み、五日市街道にもつながることが望ましいことから、公園の面積は「相当程度の広がりを持つ」としている。

 歴史的な資料を展示する場所については、公園内に平和祈念館(仮称)を新設する案や砂川支所など既存の施設を利用する案が出ており、今後の検討課題とされた。

 一方、その南側の立川基地跡地地区は、市が検討している新たな学校給食調理場や多目的広場に利用する。また、幹線道路の沿線に地元の農産物を販売する「ファーマーズセンター」を設置する案も盛り込まれた。

<中略>

協議会委員で、地権者として「構想案」作りにも携わった青木栄司さん(54)は、「砂川闘争は市民運動のさきがけとしての意義もあった。今後具体策を詰めて、歴史を踏まえたまちづくりを成功させたい」と話す。

 ただ、国有地と私有地が入り組む土地は区画整理事業などの整備が必要。拡張予定地跡の国有地の一部では、周辺住民が無断で農作物を栽培しており、調整はこれからだ。

 市は答申を受けて、今年中に財務省に対して土地利用計画を提出する予定だ。

■砂川闘争にかかわる動き■

1945・9 米軍が旧陸軍基地に進駐
  55・5 調達庁(現・防衛省)が基地拡張計画を通告。農民が砂川町基地拡張反対期成同盟を結成し、砂川闘争が始まる
  56・10測量強行で警官隊と住民側が衝突、負傷者が1千人を超え、国が測量中止を発表
  68・12米軍が滑走路延長を取りやめ
  69・10米軍が飛行業務を停止、横田基地などへの移転を発表
  72・12陸上自衛隊が移駐
  77・11米軍から国に、基地が全面返還される
2001・8 地元住民が砂川中央地区まちづくり構想案策定
  08・1 立川市新庁舎周辺まちづくり協議会が初会合

(引用終わり)

上の年表には出ていないが、「砂川事件」は57・7に発生した、学生などが米軍基地に侵入した事件が対象である。日米安全保障条約(日米安保)に基づく行政協定により、刑事特別法の違反で起訴された事件である。すなわち米軍が基地拡張を断念する68年までのおよそ15年間続く「砂川闘争」の歴史のほんの一部でしかない。しかし、この事件が日米安保条約と憲法9条との関係をめぐって争われた事件となったために、その後の憲法9条や日米安保条約、さらには日米両国政府の政治にも重要な影響を与えることになった。

特に、59・3に一審の東京地裁で「日米安保条約による米軍駐留は憲法第9条に違反する」という違憲判決が出された(伊達判決)。おりしも60年に日米安保条約の改定という一大政治案件を控えて、日本国内の政治状況に大きなインパクトを与えただけでなく、アメリカにとってもこの判決は看過できない事態であったと思われる。

最近になって公開された公文書から、「伊達判決」後、駐日米大使(マッカーサー2世)が日本政府に「跳躍上告」を進言し、最高裁長官(田中耕太郎)とも会談していることがわかった。


■「米軍違憲」破棄へ圧力 砂川事件、公文書で判明

 米軍の旧立川基地の拡張計画に絡む「砂川事件」をめぐり、1959年3月に出された「米軍駐留は憲法違反」との東京地裁判決(伊達判決)に衝撃を受けたマッカーサー駐日米大使(当時、以下同)が、同判決の破棄を狙って藤山愛一郎外相に最高裁への「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談するなど露骨な介入を行っていたことが29日、機密指定を解除された米公文書から分かった。

 「米軍駐留違憲判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻す判決を下した。

 公文書は日米関係史を長年研究する専門家の新原昭治氏が今月、米国立公文書館で発見した。
2008/04/29 20:58 【共同通信配信記事から引用】

■砂川裁判:米大使との密談、最高裁など「不開示」--「記録なし」

 米軍立川基地にデモ隊が侵入した「砂川事件」の最高裁判決(1959年)を前に、当時の駐日米大使と最高裁長官らが密談していたことが米国の公文書で判明した問題で、日本側の関連情報の開示を求めた元被告の土屋源太郎さん(74)=静岡市葵区=らに対し、最高裁、外務省、内閣府の3機関がいずれも「不開示」を通知していたことが分かった。土屋さんは不服申し立てをする方針。

 請求をしたのは土屋さんと「砂川事件の情報公開を請求する会」(塚本春雄代表)。今年3月、裁判を巡る日米関係者の秘密協議に関する記録を開示するよう求めた。しかし、3機関とも今月7日までに「記録がない」として不開示を通知した。

 砂川事件を巡っては、東京地裁が59年3月30日に、基地の存在を違憲とし土屋さんらを無罪とする判決(伊達判決)を出している。08年4月に米国立公文書館で見つかった外交文書には、この判決の翌日に、当時のダグラス・マッカーサー2世駐日米大使が高裁への控訴を飛ばす跳躍上告を藤山愛一郎外相に勧めたことや、田中耕太郎最高裁長官が大使とひそかに協議し、上告審の時期について見通しを語っていたことなどが記されていた。

 土屋さんは「日本に文書がないというのはおかしい」と話している。【野口由紀】(毎日新聞 2009年5月9日 東京夕刊記事から引用)


<資料>
■大使が最高裁長官と密談したことを示す文書の全文■



 (日本語訳)最高裁は4月22日、最高検察庁による砂川事件の東京地裁判決上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに対し、弁護側はその立場を示す答弁書を提出することになる。

 外務省当局者が我々に知らせてきたところによると、上訴についての大法廷での審議は、恐らく7月半ばに開始されるだろう。とはいえ、現段階では決定のタイミングを推測するのは無理である。内密の話し合いで担当裁判長の田中は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数カ月かかると語った。 マッカーサー

(引用終わり)


資料からは明確な指示などがあったかどうかははっきりとしないが、最高裁長官と「内密の話し合い」があったとされる。この結果、国側(検察)は高裁を飛び越えて最高裁に「跳躍上告」し、59年12月に最高裁は「外国の軍隊は憲法第9条の戦力にあたらない」という安保合憲判決を出し、「安保条約は高度の政治性を有し、司法裁判所の審査にはなじまない」とするいわゆる「統治行為論」を採用し、東京地裁に差し戻しの判決を出した。
そして、その一ヶ月後の60年1月に新安保条約が調印されるのである。

(設問1)「砂川闘争」はその後の社会にどのような影響をもたらしたか?

(設問2)「砂川事件」の最高裁判決はその後の司法にどのような影響を与えたか?

(設問3)アメリカ政府が外交圧力を加えた背景にどのようなことが考えられるか?

(設問4)権力分立のしくみの中で、「砂川闘争」と「砂川事件」判決はどのような意義をもっているか?