さて、ここでより基本的なことを考えておく必要があります。それは、人間という生き物の特徴の問題です。
人間は他の動物と異なって、本来・生まれつきの能力という意味での「本能」によって生きることができません。
ほとんどすべてのことを「言葉・言語」を媒介にして後天的・人為的に作られた「文化」によって営むのです。
ここで、言葉なしに人間らしい生活(つまり文化)ができるかどうか、想像してみてください。
どう考えても、できそうにありませんね。
つまり、人間は、本能ではなく言葉と文化によって世界を認識し、そのことによって生きていくという生き物です。
世界がどういう秩序になっているかということを語る言葉の体系を、宗教学や民族学では「コスモロジー」といいます。世界の秩序(コスモス)を語る言葉(ロゴス)というギリシャ語の合成語からきています。
人間特有の、世界観・人間観・価値観のシステムを「コスモロジー」というのです(そして、近代西洋の合理主義=無神論の登場までは、人類が作り出したコスモロジーはほとんどすべて宗教というかたちのコスモロジーでした)。
人間は、そういう意味での「コスモロジー」なしには生きられない生き物です。
人間が文化-コスモロジーによって生きることは、プラス面とマイナス面があります。
プラス面は何よりも、本能のように先天的に決まっていないために、後天的に決める・変えることが自由自在だということです。
人間が他の生き物とちがって地球のありとあらゆる環境に広がって生息することができたのは、文化-コスモロジーの柔軟性・多様性のお陰です。
マイナス面は、文化-コスモロジーは後天的・人為的に作ることができるために、ありとあらゆるかたちにすることができ、そのため実際、生物の種としてはまったく1つでありながら、ほとんど別の生き物ではないかと思えるほど別々の文化-コスモロジーが出来てしまうということです。
ところが文化-コスモロジーは、それを共有する特定のグループの人間にとっては生きていくためにもっとも重要な枠組みですから、それが自分と異なっていると、「あいつは変だ」、「あいつは異様な存在だ」から、もっとも極端な場合は、「あいつらは人間ではない」とか「あいつらは悪魔だ」とさえ思えてしまうのです。
戦時中の日本人にとって英米の人々が「鬼畜英米」に思え、アメリカ人にとって日本人が「ジャップ」であり、野蛮で遅れていて低劣な人間に思えたのは、人間という生き物が抱えた文化-コスモロジーの相違と対立という問題が極端な状況において極端なかたちで現われた、ということだったと考えていいでしょう。
そして「精神的武装解除」とは、勝った側が、負けた側のコスモロジーを「間違っている・野蛮だ・遅れている・低劣だ……」と否定して、自分たちの「正しい・文明的な・進んだ・優れた……」コスモロジーを強制的に教え込もうとした(そして相当程度成功した)ということだったのだと考えられます。
人気blogランキングへ
だけど、自分の力だけで自分の感性がはぐくめるとも思わない。
この点が、「コスモロジー」という単語ですっきり整理がつきました。改めてなるほど。
本能\で生きられたら、こんなに生きることに悩み苦しむこともないのかなと思った事もありました。
(人間以外の生物はきっと生きることに迷わないですよね?)
でもロゴスと共に生きるならせめて自分は、プラス面を生み出していきたいなぁと思いました。
「宗教」というと、いろんなマイナスというか手垢にまみれたイメージがくっついていて、なんかわからないこと、ぼくらとは関係のないことのように思ってしまいます。なんかこわいような。
しかし、「コスモロジー」というと、たんなる言葉の変換というだけではなくて、より大きい視点から「宗教」ということを相対化できる感じで、すっきり納得がいく感じがあります。
人間にとって何より重要な枠組み=コスモロジー、ということは、現にぼくらの中でも何らかのコスモロジーがはたらいていると。どっかあっちのほうにあるものではないのですね。
最初この授業で、なんで戦争の話が、とちょっとわからなかったのですが、そういうことだったのかと思いました。
しかし戦前のコスモロジーというと、どうしても前近代的・封建的で悪いイメージしかなく、一方戦後アメリカの価値観というのはとてもスマートでかっこよく感じます。
こういうふうに思ってしまうのも、そういうコスモロジー的な「敗北」があったからなのでしょうか。
なんか実感としては納得しがたいものが。しかし理屈はわかったように思います。