喪に服すことと働くこと

2011年01月25日 | 広報

 1月12日、我が家で介護していた妻の母が入院先で急逝しました。99歳でした。

 入院前まではとても元気で、この調子なら100歳までは生きるのではないかと思っていたので、ある種愕然としました。

 お通夜とお葬式は郷里山梨県のお寺(曹洞宗)で行なわれました。

 ちょうど寒さのもっとも厳しい時で、その時は気が張っていて大丈夫かなと思っていたのですが、帰ってきたら妻も私も風邪をひいていました。

 だいぶよくなりましたが、まだ少し咳が残っています。

 今年は去年より頻繁にブログを更新したいと思ってスタートしたにもかかわらず、そういうわけで、ずっと滞っていました。

 式では、いくつかのお経に加えて、「曹洞教会修証義(略して修証義)」(明治に『正法眼蔵』から抜粋して作られた曹洞宗の教えの要綱)が読まれていました。

その最初のほうに「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉がありました。

ちなみに、曹洞宗では亡くなった人のことを「新帰元(しんきげん)」つまり新たに元に帰った(人)と呼ぶそうです。

 コスモロジー的に言い換えれば、「宇宙に還った」ということでしょう。

 今回ではなく義兄のお葬式の時に、先代のご住職が「散る桜 残る桜も 散る桜」という句を引用してお説法をしておられたのを思い出しました。

 確かに生きている私もまたやがて必ず死んで宇宙に還り、またある意味で再会するのだと考えてはいても、まったく虚脱感がないというわけにはいきません。

 すでに早くに私の両親は逝き、妻の父も逝き、これで母も逝ってしまったので、私たちはついに「親の無い子」になってしまったわけです。

 浄土系のお墓に「倶会一処(くえいっしょ)」と刻まれているように、やがてはみな同じ処(お浄土-天国-宇宙)に還って再会するはずなのですが、やはり別れには淋しさがあります。

 しかしそれもまた、道元禅師が「しかもかくのごとくなれども華は愛惜に散り……」と言っておられるとおり、理は理、想いは想いとしてあって、それはそれでいいのだと思っています。

 今年は、死者の喪に服すという気持ちと共に、しかし生きている者、これから生きていく者たちのためには、まだしておきたいことがある、できるだけしておこう、という気持ちで、これまで同様、あるいは以上に、ポジティヴに働いていきたいと願っています。

 関係者のみなさん、これからもよろしくお願い致します。

コメント (6)
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