コスモロジーはきれいごと?

2009年02月01日 | メンタル・ヘルス





 年度末、3校5クラスの答案・レポート合計1000通以上を読むことに忙殺されています。

 しかし、伝えたことをしっかりと受け止めてくれた文章を読むと、「かなりの労力だったけど、でもやはり教えてよかったなあ」という感慨を感じます。


 ところで、コスモロジーの話をしていると、初めの頃、よく「きれいごとに思える」という感想が出てきます。

 そういう時、ちゃんとコミュニケーションができるような心の絆ができている、あるいはできかかっている場合には、次のような対話をします。

 「『きれいごと』というのは、あまりきれいじゃない現実に合っていない、という感じかな?」

 「なるほど……。でも、これまで話してきた宇宙の137億年の歴史のおおまかなシナリオはおとぎ話・つくりごとだろうか? それとも科学的に推測されたほぼ『事実』だろうか?」

 「ほぼ事実だと思っていいとして、なかなか『きれいな=美しい』話だとは思わないかい?」

 「『きれいごと』と感じることは、よく考えると『美しい事実』に関する話だけど、スケールが大きすぎて、自分の生きている日常的な現実にはしっくりこない、というふうなことかな?」

 「自分の生きている日常的な社会の現実は、あまりきれいではない、美しくない、醜い、歪んでいる……というわけだよね」

 「で、ここからが考えどころなんだけど、大きくて、まっすぐで、美しい事実を見ているのと、狭い範囲の、歪んだ、醜い現実を見ているのと、どちらが気持ちがよくなりそうかな?」

 「気持ちがいいのと悪いのと、どちらが元気が出そうかな? あ、おなじようなことをいってるかな?」

 「元気があるのと元気がないのと、どちらが好きかな?」

 「元気があるのと元気がないのと、どちらが現実に耐えたり、現実を少しはましなものにする気になりやすいかな?」

 「もし元気があるのが好きで、そのほうが現実に取り組みやすい、と思うんだったら、まず大きくて、まっすぐで、美しい事実をしっかりと見つめるのが役に立ちそうだと思わないかい?」

 「おおきなきれいごとをしっかりと見つめて元気になってから、ちいさな醜い現実に立ち向かう、というのが人生を戦う戦略としてより有効だ、と思うんだけど、どうだろうね?」

 よかったら、時々、しばしば、ちいさなつらい現実ばかり見ているのを休んで、とてもおおきな、すばらしい、きれいごと=綺麗事=美しい事実を見る、見直すことをお勧めします。



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コメント (3)
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