テキトー日記

自主制作監督日記

映画見てきたの巻

2005年09月18日 | 日記

仕事帰りに映画を見てきたら立ち見だというのであきらめた。
前売りを買ってまで見に行ったんだけど、初日から一杯ではいれなかった。
仕方がないので2週間たって拡大ロードショーになったのでいったものの今日もいっぱいだった。
それは犬童監督の「メゾン・ド・ヒミコ」
もともと監督が大島弓子のマンガを映画化しようとしていた作品で、最終的には同じような題材でオリジナルになったんだけど、なかなかおもしろそうだった。

でも、しょうがないので明後日も都心に出るのでこんどにした。
変わりに選んだのが同じ監督の「タッチ」だった。
正直、なんでいまさらタッチなのか疑問に思う人は多いはず。

でも犬童一心監督に長澤まさみだからきっと何か違うだろうと思った。

この監督、ここんとことばしてるなあ・・・今年3本目の作品でっせ。ほんま。

この監督は市川準監督の「大阪物語」の脚本を担当していて、
「えげつないとか誇張した営業用の大阪とちごて、ちゃんと大阪描いとんなあ。ちゃんと大阪わかっとるで。脚本がわかっとるなあ、これ」
って思った。
それで犬童監督の作品「2人が喋ってる」という作品を見たらこれが面白くなかった。
でも「大阪物語」のこともあって、楽しみにはしていた。

そうでなければいまさら20年も前のマンガを映画化するなんて、どんな意味があるのだろうか。

「タッチ」はリアルタイムで読んでいたし、ちょうど登場人物と同じ高校生だったのでおもいいれもある。
劇場には同じ思い出来ているのか、仕事帰りのスーツ着たサラリーマンの姿があった。
高校生の女の子や男の子たちもいた。

しかし映画を見た感想は予感通りだった。
予感とは僕個人の予想と違って、世間一般が思っているであろうほうの予感である。
深読みしていたぼくが間違っていました。

あの漫画をどう料理するか楽しみにしていたんだけど、台詞は陳腐だし、ストーリーは漫画のダイジェストだし最悪ほどではないにし、出だしから拒否反応で映画に集中できなかった。カメラワークもライティングも昔あった月曜ドラマランド並。
移動撮影も南が走っている気持ちを表現できていないし、主題歌の挿入するタイミングがギャグか?と思うほどのタイミング。
笑っている人もいた。いやあギャグでしょう。あれは。

かっちゃんが死んだあとの南の叫ぶとこなんかわらってしまう。
大事な試合前に達也と和也がキャッチボールをしながら南を甲子園に連れて行ってやろうと言っているのをこっそり柱の後ろで聞いているところなんか

「柱の後ろに行く前に気づくやろおい!」
「高架下にそんな水溜りあるんかい!」

とか突込みどころ満載だ。
あげくのはてに、元々マンガだからよかったものの、実写になると浅倉南がわがままな娘に見えてしまう始末だった。

ふつーこんなに男2人の人生をを迷わす女ってどーよ。いやな女にみえてしまうのだった。自分を甲子園つれてけといっておいて自分は途中でさっさと野球部やめてしまうんですよ!
それで達也一人甲子園にいけるかどうか決勝戦にいどむのだ。
南は最後のクライマックスまで試合にもこないし。
甲子園つれてって欲しいといったんなら、野球部やめたら意味ないじゃん!

ああ・・・東宝ってほんとだめって思った。
なんでタッチなんて選ぶかなあ・・・
監督もすっかり雇われ監督で、フツーに撮ってるし。
こんなの脚本読んだらわかることじゃん。
不自然なところや無理がいっぱいあるのだ。
おれならこんな脚本で撮れっていわれたら書き直すよ、ほんと。
絵でわかるのにわざわざ台詞で云う陳腐さ。
前半のわざとらしい無理やり幸せそうにしているテンションの高い芝居!

同じ東宝の製作で成瀬巳喜男が出来上がった脚本に線を入れて
「こんなのは絵を見ればわかります」
といって脚本の量が半分になったということがあった。
これがあの同じ東宝製作の映画なのだろうか・・・

東宝がここんところ成績がよかったのは
「セカチュー」は行定勳監督だからだし、ジブリ作品だからだし、「踊る~」はフジだからだし、ただの配給会社だからなのだ。純粋に自社企画製作なんて年に1・2本しかない。
あるのは「ゴジラ」シリーズぐらい。正直何年か前の「ロボコン」もおもしろかったけど、映画としては青春ものなのかバトルものなのかどっちつかずで未消化だった。
「ウォーターボーイズ」系みたいな売りをしておいて、観たら地味な映画だったし・・・。(これはこれで丁寧に作られたからよかったが、あきらかに売り文句と中身が違う。東宝はあきらかに「ウォーターボーイズ」系をねらっていた)

しかし「タッチ」はひどかった。どれをとっても陳腐で、あきらかに
「まあこんな感じでいいだろ。」
といった製作態度がまるわかりだった。
帰りに高校生たちが

「あーあ、おもしろかった。かんどーして涙も出ねーや」

とわざわざ受付ちかくで云いながら出て行く始末。
これじゃあ観客が離れていくのも無理はない。
せっかく邦画に客が戻り始めているのにまた繰り返すのか?
東宝!なんて思った。

ぼくは映画批評とかは嫌いでひとにもあまり云わないほうだが、今回はちょっとした理由があった。
ちょっと長くなったので続きは次回に・・・

オレ日記、移動しましたよ

2005年09月18日 | 日記

好評連載中の「オレ日記」はブログの話題が多いので整理しました。

何年も休部状態の演劇部に、偶然4人の部員が集まった。しかし女ばかりに、男子がたった1人。やがて努力の甲斐あって4人から12人となり、念願の演劇大会に出場するまでに成長するのだが・・・。恋も涙も笑いもすべてが新鮮で輝いていた、ちょっと前の80年代青春ブログ!
「コイとアイの間」

http://blog.goo.ne.jp/kuukan_1970/

に移動しましたのでよろしく。




オレ日記5 ターニングポイントなのだ

2005年07月07日 | 日記
人生においてターニングポイントというものが存在するのなら、
僕にとって、最初にして最大のターニングポイントはこの頃のことだと思う。

高校を卒業するときに、演劇協会の役員仲間と卒業公演をしようという計画が
持ち上がった。
きっかけは演劇の大会のときの、役員主催の芝居だった。
全部の出場校が終わった後、審査結果待ちの間に役員たちが芝居をするというのが恒例となっていて、
毎年役員と有志による芝居を上演していた。

今年も例によってすることとなったのだが、
自分の出場する作品以外に、大会の準備に忙しい僕らには、なかなか打ち合わせをする時間も稽古もなかった。
稽古はいつも大会の期間中の夜にしかできなかった。
稽古場所もすぐ近くにある「京都御所」というのも、今となっては京都らしい稽古のやりかただと思う。
台本も何かの本を元にOBOGと一緒に練って作った。
有志芝居も毎年先輩のOBOGが付き合って協力してくれる。
内容は忘れたが、たしかテキサスの田舎夫婦が日本の若者と出会って日本のよさを教えるという話で
いい加減な若者たちがでたらめな事を教えて、最後はなぜか船で帰し「ヤンキーゴーホームー!」といって帰す話だったと思う。


僕と副会長のマロンは(彼女の女子高は甘いものをニックネームにするので他のみんなもそう呼んだ。
いかにも女子高らしい名前の付け方だ。あんずとかそんな名前のコもいた)テキサスの夫婦で
英語風にウェイダーとマローンだった。
これはなかなか好評で(といっても内輪受けのレベルで)みんなが知っている人が馬鹿なことをやって盛り上げている
というのでけっこう受けた。

これに気をよくした僕たちは、せっかくだからこんな感じのノリで小劇場を借りて芝居をやろうではないかと
恐れ多くも公演をやろうと思ったのであった。

でも小劇場で公演をしたことがない僕らにとって、お金がいくらいるのもわからないし、もしお客が少なくって
赤字になったらどうしようという思いがあった。
そこでK子と卒業公演の話をしていたところ、彼女の女子高の連中も卒業公演をしたがっているというのであった。
いいことを聞いたぼくはヒラメいたのだ。こういうときに限ってケチな・・いや天才的なヒラメきをするのは
、ぼくの数少ない長所の一つなのだ。
それは2本立てにすることだ。2位本立てといっても2本連続ではなく、1日に2回別々で上演し、それぞれの
お客を呼ぶのだ。
そうすれば小屋代2分の1、お客は2倍になる。
スタッフもお互いが補えばいいのだ。


そういうことでお互いの卒業公演を一つの劇場でやるという、奇妙な舞台をすることになった。
彼女は自分の高校の演劇部だから、稽古場が部室だからいいが、ぼくら5人はみんな別々の高校なので稽古場に
困った。
稽古場を借りることも出来ないので、有志劇を稽古したみたいに公園ですることになった。
しかし御所は遠いので、みんなが集まりやすいのはやはり中心街であった。
そこで選ばれたのは桜で有名な円山公園だった。
いまでこそ路上ライブなんてのがあちこちでやっているが、当時としてはめずらしく、小屋の大きさを取るために
砂利に線を引くと、そこに人が集まってきて、舞台を囲むように大勢の人が見物に現れた。
黒山の人だかりで、稽古どころではなかった。
そりゃあそうだ。円山公園といえば八坂神社の裏にある観光地なんだから当然である。

3年の3学期は卒業までたっぷりある。ぼくらは長い春休みの中、毎日稽古した。
途中いろいろなハプニングがあったが、またその頃のことは別の機会にかくことにする。

さてそんなこんなで公演した芝居も無事終了した。
さらに気をよくした僕らは、以後年二回劇団として公演することとなった。

ぼくたちは、はじめて学校という枠からはずれ、大きく大人への一歩を踏み出したのだった。

いままでは学校というカテゴリーの中で、僕らは窮屈に動き回っていたのだが、やっとそこから抜け出すことが
できたのだ。
広い地平線の見える大地に放り出されたような感じだ。
大きく伸びをして、深呼吸するような気分だった。
それは当時学校のことでいろいろあって、いい加減うんざりしていたこともあった。
ブラックリストに載ってるらしいぞということを聞いたのは高2の頃で、
以来学校の窮屈さに辟易していたのだった。

もう何もしがらみはない。だれにも干渉されないし、止めるものもいない。
僕はこれ以後様々なところに顔を出し、芝居の作り方や照明のプランや仕込みの仕方
などを覚えていく。

さて卒業公演を終え、いよいよ卒業式だ。
僕は最後に心残りがあった。
それはK子のことだった。

僕は大阪の保育の学校へ、彼女は同じ系列の大学へ進学することとなった。
もう会うこともあるまい。
そう思った僕は告白することを決心した。
でも会って言うのも何なので、電話でいうことにした。
家のものにちかくをうろつかれると嫌なので、裏の庭の離れにある電話で言うことにした。

緊張しながら電話をした。
彼女はすぐに出た。
僕は言いにくいのでなかなか言い出せなかった。
そのうち彼女は

「なんなん?いいたいことあんねんやったら言いぃさー」

といった。あまり時間が経つといいにくいのでシンプルに率直に言った。

「・・・え?」

という小さな声がして、一瞬彼女のびっくりしたような顔が浮かんだ。

「・・・そういうことや。ほなな・・」

といって電話を切った。

史上初めて告白した瞬間だった。
後にも先にも、このとき以外に、人生で自分で告白したのは2回だけである。
長い人生でしかも男で2回は少ないと思うが如何だろうか?

つっかえていたものが取れたような気がした。
何かあれば電話がかかってくるだろうし、なければそのままだし、あとの判断は向こう次第なのだ。
電話でいうというのは、ある意味では便利なものだなあと思った。
会って言うと、即決しないといけない気がするし、なんだかその後が気まずいようになってしまう。

しかしそれから2日たっても3日たっても連絡が来なかった。
卒業式を迎え、ぼくらは高校生ではなくなった頃、ようやく電話がかかってきた。
家族がいるのでこれまた離れのほうに電話を回して出た。
まるで運命を決める判決のような気がした。
あれからちょうど一週間が経っていた。
少し緊張して出た受話器の向こうからは、正真正銘、彼女の声が聞こえてきた。

彼女の答えは
「私・・・どうしたらええやろ・・・」
だった。

ぼくは白か黒かの判決が出ると思っていただけに、困ってしまった。
しかしあれから一週間も経っているのでぼくは彼女にはその気がないのだろう。
所詮、友達程度にしか思われていなかったのだろうと思い、

「今までどおりいこうや。な、ええやん。今までどおりの付き合いでこれからもいこうや」

といって、その場を治めてしまった。
結局卒業後も時々会う機会があり、今までどおりの付き合いが続いた。
卒業公演後、劇団としてスタートした劇団「恥知らず」の公演にも役者として出演してもらったこともあった。

やがて僕らは二十歳になり、劇団の連中も就職やなんかで別れ別れになってしまった。
僕も就職で東京に行くことになり、最後の記念に今度は同じ高校の演劇部の連中と、有志が集まって公演
することとなった。
僕は演劇と決別し、いつかは漫画家になりたいと思い、いっそ就職を期に京都を出ようと決心したのだった。

初めての演出作品は、北村想の作品「碧い彗星の一夜」を選んだ。
同じ頃、彼女も有志で「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」というのを上演し、お互いたいへんやなあと
いうことで再び連絡をとり始めた。

3月6日~9日に公演をしたと思う。
それから僕が作ったチラシを見て、大阪のデザイン会社から話がきた。
一度会いたいと言ってきたのだ。

ある日K子と電話で話をしていると、2年前のことが話しに出た。
「あのとき私が電話かけたとき、あんたがちゃんと言うてくれたら付き合ってたのになぁ・・・」
といわれてしまった。

あの時ぼくは一週間も後にくるぐらいなんだからだめだろうと思ってしまっていたのだった。
まさかそんなことは夢にも思わなかった。

あのときすぐにあきらめてしまった自分を恨んだ。
なぜすくに手を引いてしまったのか・・。

しかしもうこの時はK子は彼氏がいたし、僕は東京に就職が決っていた。
大阪のデザイン会社のほうも東京に就職が決っていますのでと言ってしまった。

「東京へ行く日、ホームでシンデレラエキスプレスしたるわ」

K子は電話でそういってくれたのだが、

「ありがとう・・・でも夜遅くに出発するしええわ」

と言った。
気持ちはうれしかったが、今となってはもう・・・と思った。


別れの日は友達四人と京都中をトランクを捜し回った。
京都を出る記念に「浪漫飛行」みたいにトランク欲しい。
といったところ、車を運転してかばん屋を廻ってくれた。
しかし思ったのが見つからなかったが、最後に

「そうや。古道具屋やったらあるかも」

と思い、四条木屋町にある古道具屋を思い出した。
映画関係者も小道具探しに来ると聞いたことがあった。
あそこならあるかもと思った。

古い京町家に所狭しとおかれた道具の中に、歌に出てくるような古い革のトランクがあった。
亭主が言うには大正時代のものらしい。
カギが片方馬鹿になっているので安くしてもらい、少し雨の振る中、車に乗った。
木屋町は河原町から一本東に入った南北のとおりで、飲み屋が多い繁華街だ。
人通りをぬけ、車でまつ友人のところまで走っていった。

電車がくるまで最後に京都タワーに登った。
そこから見渡す夜景は綺麗だった。
京都タワーは京都の人間にとって景観を壊すと、未だに評判は悪いが、
このとき見る夜景はさすがに綺麗に見えた。
碁盤の目のような道が、ライトによって放射状にみえる。

やがて夜行列車に乗り,僕は友達と別れ、京都時代に別れを告げた。

これでもうK子とも会うことはないだろうと思ったが、不思議なことに、その後も続いていた。

就職した彼女は、出張で東京に来ることがあったのだ。
その時あっていたのだ。

お互い付き合っている人がいたが、普通にあっていた。

以前京都を出る前に芝居をやったとき、打ち合わせをうちの離れでやっていたが、その時、K子から電話が
あった。ぼくは打ち合わせを中断して電話に出たのだが、そのとき僕を好きだという女の子がいて、
その電話がK子だと知ると、いっきに顔つきが変わり、まるで般若のようだったと、止めるに必死だったと、
後日その場に居合わせた人たちがいっていた。
それとも知らず僕はいい気になって電話で話をしていたのだった。
まさか真後ろでそんなことがあるとは夢にも思わなかった。

また、東京に出てその頃一時期一緒にすんでいた彼女がいたときも、K子と会う約束が手帳に書いてあったのを
見て大変な目に会ったことがあった。
ちょうどぼくはその彼女とうまくいっていなかったので、お互い距離を置こうといおうとしていた矢先で、
別にやましいことはなかったが、会うことは事実なので、そのことについてはいい訳もしなかった。
しかしそれがよけいにややこしい結果となり、静めるのに大変だった。

その彼女と別れたあと、今のアパートを捜すにK子に付き合ってもらって決めた。
最初に入った不動産屋の物件を一緒に見に行った。
一目で決めた。
条件にぴったりだったのだ。
トイレ風呂別。二部屋に庭、角部屋日当たり良し、であった。
不動産屋に

「一緒に住まれるんですか?」

と聞かれた。

「いえ・・彼女は付き添いです」
「ああ・・そうなんですか・・・一緒に住まれるのかと思いましたよ」

僕は判子を押しながら、一瞬もしかするとあの時うまくいっていれば、そんな可能性があったかもしれない、と思った。
今となってはもう戻れない遠い昔のこととなってしまった。
もしあのとき付き合うことになっていたなら、僕は東京に来ていなかったし、大阪のデザイン事務所にいたかもしれない。
今ごろはデザイナーの端くれぐらいにはなっていたかもしれない。
芝居はそこそこ趣味で、関西の劇団を2人で見ていたかもしれない。

少なくともこんなに芝居や映像の仕事をして、蒲田に事務所なんて持っていなかっただろう。

その後僕が関西に帰るときに会ったりしていたが、3年ほど前に彼女が結婚することとなって会うことがなくなってしまった。

ようやく32歳にして僕の青春時代はピリオドを迎えた。

映画を作り始めて、HPができ、ブログに思いついたことをチョコチョコと書いている。
ある日のこと、ブログのコメントに書き込みがあった。

「ほかのわらじはもうすてたのかな。わらじの忘れ形見、まだもってるよ」

というコメントだった。
名前はかいていなかった。
しかしすぐ誰だかわかった。
そんなのを渡した相手なんて1人しかいないのだ。

忘れ形見とは、昔、僕がK子に描いた似顔絵とイラストのことだ。
もう随分前のことなのに未だに持っていてくれるとは思わなかった。

夢のかけらを持っていた、そんなような気分だった。

もう忘れていることもたくさんある。

楽しかった高校生活から20年近くの月日が流れた。
あの頃は高校卒業してからのことなんて想像も出来なかったし、
卒業しても高校3年間以上の時間をよそで過ごすことが耐えられなかった。
時が経つにつれて、楽しかった思い出が薄れていくのが嫌だったのだ。

しかしそういうわけにはいかない。
時は残酷にも流れ続けている。
いつか忘れる。

今あのころいた高校演劇で一緒だった人たちはどうしているのだろうか?
たくさんいた京都の演劇部の人間たちはどこにいったのだろう。
僕の知る限り、未だに芝居をしている人は、僕意外一人しかいない。

寂しいかぎりである。
せめてそんなたくさんの人たちと出会ったことを記録しておこうと
思ったのがこの日記の始まりなのだ。
このコメントの文章がきっかけなのだった。

僕にとって高校時代は今も続いている。
年もとって、環境もかわった。しかしやっていることはあの頃と何の変わりもない。
今の原点はこのころにある。だから懐かしいなんて思わないし、20年も経ったなんて気がしない。
いまだにあの頃の線の上の続きを歩いているのだ。

もしこれを読んでいる人のなかであのころその場所にいた人がいたのなら、
遠慮なく書き込んで欲しいと思っている今日この頃なのでした。












オレ日記4

2005年06月15日 | 日記
さてシマヅヤマ3話が第8回インディーズムービーフェスティバルに入選したとの連絡があってホッとした。
これで少しは周りに顔が立つと思っているところに、いま進めている空間製作社の
仕事で、プレゼンの機会がいただけるこという電話が入り、二重の喜びの日だったのです。
6月20日にある会社に出向くことに。
いま3つほどプロジェクトが進行していて、それがうまくいけば事務所の自立も夢じゃない
といったところなのだ。
できれば空間製作社オフィスとして仕事していくのが当面の目標なのです。

さて先日、久々にK子から何年かぶりにメールがあった。
しばらくメールをやり取りする機会にめぐまれた。

その人は今となっては思い出の人で、彼女とは随分長いつきあいになる。
初めて会ったのが高校二年の今ごろだったから、あれからもう倍の人生の付き合いになってしまう。
あのころ演劇部だった僕は、僕らの代から始まった演劇部を盛り上げるため、いろんなことを考えていた。
先輩のいない僕たちには、前例がない。
なのでクラブ活動を活発にしていくのにはどうすればいいのかわからない。
知名度も上げていかなくてはいけない。
みんなで相談した結果、文化祭などの学校の授業以外にも、演劇をして参加しようということになった。
そこで当時みんなが聞いていた「青春放送局」というラジオ番組に出品しようということになった。
それは学校の放送部や演劇部が作ったラジオドラマを放送していた番組で、ぼくらは好きでよく聞いていたのだった。
放送のあった次の日は面白かったとか、つまんなかったとか、話していた気がする。
同じ年の子が作ったお話が、メディアで流れるということがすごく特別なものに見えたのだった。
しかもストーリーも自分たちで作るのだから、それだけでラジオドラマを作ろうというものだった。
これは残念ながら実現しなかったのだが、もう一つのほうの、学校外のイベントに参加するというのは希望がかなった。
で、ある日、市の主催する福祉祭に参加することになった。
これは芝居以外にもボランティアの方も参加することとなった。
ぼくは、料理を手伝うことになったのだが、そこでボランティアで知り合った女子高の子が、同じ演劇部だからと紹介してくれたのがK子だった。

今の僕をみると想像できないことだが、それまであまり他所の女の子と話したことがなかった。
中学生時代にしゃべった女の子は片手で数えられるぐらい。そんな内気な美少年だったのだ。
メガネかけてたしね。銀縁の。

ちょっと緊張してあってみると、髪がストレートで長く、背の高い大人びた女の子だった。
「綺麗な子やなァ」というのが第一印象だった。
その頃のぼくの周りにいる女の子の中では一番綺麗な子だと思った。
まあ本人が聞いたら「そんなことないで」というと思うが、僕の知っている子のなかではそうだったのだ。

「演劇部やってなぁ。演協とか出んのん?」
と聞かれたのを覚えている。
演協とは京都の高校演劇部たちが生徒だけで運営している演劇協会のことだった。
終戦間もない昭和23年から続く伝統ある協会で、大会も毎年8月の夏に大きなホールを借りて5日ほど行われている。
それ以外にも毎月集まる部長会議と3ヶ月に一回あつまる定例会があった。
資金あつめから会場の手配、チラシの製作まで全部生徒がやるのだ。
戦後いち早く、生徒だけの手でたちあがったこの協会は、大人たちを寄せ付けずに自分たちの力ですべてをまかなっていた。
だから京都の演劇部ではこの大会に出て賞を貰うのが憧れだったし、実際演劇の大会で一番大きな大会でもあった。
しかしその独特の運営がゆえに、あとから成立した全国高等学校演劇大会に加入することが出来ず、長い間、京都と沖縄だけが独立した形となっていた。
これはのちにかいけつするのだが、このころはまだこの大会で優勝するのが僕たちにとっての一番だったのだ。
両親とも演協出身。先生も学生のときに演協にいたというひとも結構いた。
その演協にぼくらもこの夏の大会から参加できることとなったのだ。
いわば彼女とはライバルである。

「うん、出るで」
「ほんま。お互いがんばろな。なにやんのん?」
「ちょっと他でやったことない芝居するんや」
「どんなん?」
「ひみつや。そっちは何やんのん?」
「デジャウ゛86やんねん」
「デジャウ゛?」

当時小劇場ブームが絶頂期で、そのなかでも第三舞台の人気はすさまじく、チケットなんかは数分で売切れてしまうほどだった。有名人のコンサートならまだしも、演劇でそんなことになるのは今までほとんどなかった。
その人気はこの年の大会で三つの高校が「デジャウ゛86」を上演したことでもわかる。
しかし演劇のえの字もしらなかった僕たちは鴻上も第三舞台もなんのことかもわからなかった。
「へえー」としかいえなかった。
そのときは名前と言い合って、ちょっと雑談をした程度だった。
無事福祉祭りが終わるとそのまま別れた。

メールなんてない時代である。彼女とはこのあと、演協の部員も出席する定例会まで見かけることはなかった。
部長会では部員も数人ついてくることがあるのだが、その月(6月)はいなかったように思う。
彼女の高校の席をさがしたがいなかったのをおぼえている。
ほんとに演劇部にいるのだろうか?しかし知らない女の子に、急に
「K子っている?」
なんてきけないし・・・。そのときはあきらめた。

次に会があったときも捜した。7月はいよいよ大会も近づいてきたので、ツキイチではなく、回数も多くなっていたはず。
なにしろ京都中の演劇部があつまるので人が多い。
伏見の桃山高校の視聴覚教室だったはず。
捜すのにも一苦労した。
そこに彼女もきていて、お互い目があって気が付いた。
軽く合図した。

彼女は大会の役員の女の子と親しいらしく、大会の手伝いをしていた。
おかげでこちらもやる気が100倍である。

なので大会に顔を出すと彼女と会うことが出来た。
僕らは「死神」という、落語にある話を新作狂言に取り入れた作品をやった。それだけだと短いので「鎌腹」という鎌をもった女房に追いかけられる話を付け加えた。
大会当日の朝、岸元首が亡くなった記事があったので、ろうそくが消えると命がなくなるというシーンに
「あの消えたろうそくは岸元首相じゃ」
というセリフは当時大受けした。
ぼくはそのうだつの上がらない、パッとしない人生を送っている亭主の役で主役だった。
まあ、いまもあんまり変わってないけど・・・
当時高校生で古典芸能をやるところなんて珍しく、一気にうちの演劇部は演協のなかで有名になってしまった。
随分たって20代なかごろに南河内万歳一座の東京公演を見に行ったとき

「演協に出ていた上田さんですよね?」

と劇団員に声をかけられたことがあった。
どこで誰に会うかわかんないものである。

古典芸能といっても、純粋な狂言ではなく、普通の芝居や歌舞伎の要素も入ったものだった。
この大会以外にも、狂言の公演はよくやっていて、ただみようみまねでやったのではなく、きっちりと狂言をやっていたのを崩した芝居になったのがよかったようだ。

おかげで大会のほうも、彼女の高校は優秀賞を貰い、ぼくらも初出場で特別賞をもらった。
人前で賞をもらうのは初めてで、舞台に上がるのを緊張したのを覚えている。
そのあとうれしくって、ぼくらはホールの前で万歳をした。
彼女の高校の連中もいて、ぼくらに対抗して万歳の掛け声をやり、おたがい負け時と、ホールの前の道で万歳の声の張り合いをした。

以来彼女とは親しくなり、ちょくちょく二人で会うこともあった。
部長の権限でクラブ活動を早く終わらせ、電車通いの彼女が家に近いところを通る駅に自転車を走らせ会いに行ったこともある。
その駅のちかくにある運動公園のベンチで色々な話をした。
その頃の僕はマンガ家になりたくて、いつかなってやると思っていた。
事実、年四回行われる新聞のマンガフェスティバルに、2回に一回の割合で入選していたのだった。
しかし新聞だけじゃだめで、やはりマンガといえば雑誌持込である。
演劇部位外にもボランティア活動や中国拳法もやっていたぼくはなかなかそこまで手が廻らなかった。
中国拳法は剣に刀に長拳、陳式太極拳、24式とやっていたし、その頃は演劇部のほうはなんと、年7本の作品を公演するようになっていた。
(普通は2本ぐらい。おおくて3本が相場なのです。人気劇団以上の回数ですねこりゃ)

前にも書いたが、ぼくは高校のときがピークなのだ。
次ぎの年になんと第40代目の演協の会長を引き受けることとなってしまった。
そんなこともあって、ファンレターや花束をもらうことが多くなった。
しかも返事も全部に書いていたので、いつのまにか文通のようになってしまい、かなりの量が押入れのひきだしにたまってしまった。
ファンの女の子からバレンタインの日に手作りチョコをもらい、そのまま喫茶店に忘れてしまったことも、いまではいい思い出である。
レジでお金を払っていると店員が

「これ忘れ物ですよ」

と親切にも持ってきてくれた。

「せんぱ~い!忘れんといてくださいよ~!」

と女の子に怖い目で睨まれた。
かなり怒っていたと思う。
あの店員の親切は一生忘れません。
忘れませんとも。

しかしぼくはK子のことがずっと気にかかっていたので、だれとも付き合うことなく高校時代を過ごしていた。

やがて3年になり、いよいよ卒業の時期がきてしまった。
そこでぼくは学生時代の最後の思い出に、告白しようと思ったのである。

                                          つづく

ロードショーなのだ4

2005年06月06日 | 日記
東京おしゃれ探偵シマヅヤマゴウGOで、主役のゴウに負けないぐらいおいしいキャラ
を演じてもらっているのは、シュリケン役のまっきんこと牧野耕治さんである。
彼はサラリーマンを経験した後、フリーで役者になり、数々の舞台を踏んできた役者さんである。
見ての通り、自分のおいしいところは絶対はずさないし、主役以上に
もっていく人で、物語をより面白く引き立ててくれるスパイスのような役者さんなのだ。

僕としては監督3作目「STRAY DOGS~犬と月~」に出演してもらって以来の常連で
なくてはならない役者さんの1人でもある。
彼の持っているキャラクターから作られた役も多い。
中でもこのシュリケン役と先日上映した7作目の「水ノオト、波ノコエ」でパチプロの渡辺という
役は彼しか演じられないし、彼のために用意された役でもある。
彼のサービス精神はたいへんなもので、少しでも観客に楽しんでもらおうと、現場で数々のアイデアを出してくる。
だから共演者や僕はいつも笑うのをこらえてたいへんである。
ぼくがはまったのは「2話トロイの木馬」のニセものをあつかう宝石商夏目翆玉を追い詰めたところで
「ハテサテ、何者でござろうな?」といって、手裏剣をチラつかせるところだ。
この「ハテサテ」にはまった。
強くなさそうなへんな忍者が、いきがって手裏剣をちらつかせるその姿は、まるで強がって不良っぽくみている子どものように見えた。
それを30後半の男がやってるんだからこれは笑ってしまう。
監督が笑ってしまって何度も取り直しをしてしまった。
それを見て今度は共演者たちもつられて笑ってしまう。
悪いので歯を食いしばって撮影すると、今度は持っているカメラがブレてしまってNGに。
「監督が笑ってNGなんてねえよ。」
とマッキンさんに言われてしまった。

同じ2話で猫バスを待つシーンもシュリケンのあの歌がBGMに流れるアイデアもマッキンさんだ。
先日上映した(5月8・9日中野ZEROにて)「水ノオト波ノコエ」なんかも彼のアイデアで出来た
シーンがいくつもある。まあ役柄がパチプロだから彼にしかできないセリフがほとんどなんだけどね。
イマジネーションたっぷりのアイデアマンなのだ。

ちなみに彼のお気に入りの女優は上原美佐(黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」の姫役)。
あまりに気に入って、「隠し砦の三悪人」のポスターを大枚はたいて買ったこともあるくらいだ。
「上原美佐いいよねえ」といっていたので
「中野ブロードウエイでポスター売ってたよ」
というと、ソッコー買いに行ってた。
上原美佐ってひとは生涯2本の映画しかでなかったので非常に資料や写真が少ない。
だからよけいに欲しくなる。マニア心をくすぐる女優さんだ。
ないとわかれば余計に欲しくなるのが人情で、ひところは「上原美佐いい」「上原美佐いい」「写真とかないの?」ばっかりだった。
ああみえてけっこう純真なのだ。