人生においてターニングポイントというものが存在するのなら、
僕にとって、最初にして最大のターニングポイントはこの頃のことだと思う。
高校を卒業するときに、演劇協会の役員仲間と卒業公演をしようという計画が
持ち上がった。
きっかけは演劇の大会のときの、役員主催の芝居だった。
全部の出場校が終わった後、審査結果待ちの間に役員たちが芝居をするというのが恒例となっていて、
毎年役員と有志による芝居を上演していた。
今年も例によってすることとなったのだが、
自分の出場する作品以外に、大会の準備に忙しい僕らには、なかなか打ち合わせをする時間も稽古もなかった。
稽古はいつも大会の期間中の夜にしかできなかった。
稽古場所もすぐ近くにある「京都御所」というのも、今となっては京都らしい稽古のやりかただと思う。
台本も何かの本を元にOBOGと一緒に練って作った。
有志芝居も毎年先輩のOBOGが付き合って協力してくれる。
内容は忘れたが、たしかテキサスの田舎夫婦が日本の若者と出会って日本のよさを教えるという話で
いい加減な若者たちがでたらめな事を教えて、最後はなぜか船で帰し「ヤンキーゴーホームー!」といって帰す話だったと思う。
僕と副会長のマロンは(彼女の女子高は甘いものをニックネームにするので他のみんなもそう呼んだ。
いかにも女子高らしい名前の付け方だ。あんずとかそんな名前のコもいた)テキサスの夫婦で
英語風にウェイダーとマローンだった。
これはなかなか好評で(といっても内輪受けのレベルで)みんなが知っている人が馬鹿なことをやって盛り上げている
というのでけっこう受けた。
これに気をよくした僕たちは、せっかくだからこんな感じのノリで小劇場を借りて芝居をやろうではないかと
恐れ多くも公演をやろうと思ったのであった。
でも小劇場で公演をしたことがない僕らにとって、お金がいくらいるのもわからないし、もしお客が少なくって
赤字になったらどうしようという思いがあった。
そこでK子と卒業公演の話をしていたところ、彼女の女子高の連中も卒業公演をしたがっているというのであった。
いいことを聞いたぼくはヒラメいたのだ。こういうときに限ってケチな・・いや天才的なヒラメきをするのは
、ぼくの数少ない長所の一つなのだ。
それは2本立てにすることだ。2位本立てといっても2本連続ではなく、1日に2回別々で上演し、それぞれの
お客を呼ぶのだ。
そうすれば小屋代2分の1、お客は2倍になる。
スタッフもお互いが補えばいいのだ。
そういうことでお互いの卒業公演を一つの劇場でやるという、奇妙な舞台をすることになった。
彼女は自分の高校の演劇部だから、稽古場が部室だからいいが、ぼくら5人はみんな別々の高校なので稽古場に
困った。
稽古場を借りることも出来ないので、有志劇を稽古したみたいに公園ですることになった。
しかし御所は遠いので、みんなが集まりやすいのはやはり中心街であった。
そこで選ばれたのは桜で有名な円山公園だった。
いまでこそ路上ライブなんてのがあちこちでやっているが、当時としてはめずらしく、小屋の大きさを取るために
砂利に線を引くと、そこに人が集まってきて、舞台を囲むように大勢の人が見物に現れた。
黒山の人だかりで、稽古どころではなかった。
そりゃあそうだ。円山公園といえば八坂神社の裏にある観光地なんだから当然である。
3年の3学期は卒業までたっぷりある。ぼくらは長い春休みの中、毎日稽古した。
途中いろいろなハプニングがあったが、またその頃のことは別の機会にかくことにする。
さてそんなこんなで公演した芝居も無事終了した。
さらに気をよくした僕らは、以後年二回劇団として公演することとなった。
ぼくたちは、はじめて学校という枠からはずれ、大きく大人への一歩を踏み出したのだった。
いままでは学校というカテゴリーの中で、僕らは窮屈に動き回っていたのだが、やっとそこから抜け出すことが
できたのだ。
広い地平線の見える大地に放り出されたような感じだ。
大きく伸びをして、深呼吸するような気分だった。
それは当時学校のことでいろいろあって、いい加減うんざりしていたこともあった。
ブラックリストに載ってるらしいぞということを聞いたのは高2の頃で、
以来学校の窮屈さに辟易していたのだった。
もう何もしがらみはない。だれにも干渉されないし、止めるものもいない。
僕はこれ以後様々なところに顔を出し、芝居の作り方や照明のプランや仕込みの仕方
などを覚えていく。
さて卒業公演を終え、いよいよ卒業式だ。
僕は最後に心残りがあった。
それはK子のことだった。
僕は大阪の保育の学校へ、彼女は同じ系列の大学へ進学することとなった。
もう会うこともあるまい。
そう思った僕は告白することを決心した。
でも会って言うのも何なので、電話でいうことにした。
家のものにちかくをうろつかれると嫌なので、裏の庭の離れにある電話で言うことにした。
緊張しながら電話をした。
彼女はすぐに出た。
僕は言いにくいのでなかなか言い出せなかった。
そのうち彼女は
「なんなん?いいたいことあんねんやったら言いぃさー」
といった。あまり時間が経つといいにくいのでシンプルに率直に言った。
「・・・え?」
という小さな声がして、一瞬彼女のびっくりしたような顔が浮かんだ。
「・・・そういうことや。ほなな・・」
といって電話を切った。
史上初めて告白した瞬間だった。
後にも先にも、このとき以外に、人生で自分で告白したのは2回だけである。
長い人生でしかも男で2回は少ないと思うが如何だろうか?
つっかえていたものが取れたような気がした。
何かあれば電話がかかってくるだろうし、なければそのままだし、あとの判断は向こう次第なのだ。
電話でいうというのは、ある意味では便利なものだなあと思った。
会って言うと、即決しないといけない気がするし、なんだかその後が気まずいようになってしまう。
しかしそれから2日たっても3日たっても連絡が来なかった。
卒業式を迎え、ぼくらは高校生ではなくなった頃、ようやく電話がかかってきた。
家族がいるのでこれまた離れのほうに電話を回して出た。
まるで運命を決める判決のような気がした。
あれからちょうど一週間が経っていた。
少し緊張して出た受話器の向こうからは、正真正銘、彼女の声が聞こえてきた。
彼女の答えは
「私・・・どうしたらええやろ・・・」
だった。
ぼくは白か黒かの判決が出ると思っていただけに、困ってしまった。
しかしあれから一週間も経っているのでぼくは彼女にはその気がないのだろう。
所詮、友達程度にしか思われていなかったのだろうと思い、
「今までどおりいこうや。な、ええやん。今までどおりの付き合いでこれからもいこうや」
といって、その場を治めてしまった。
結局卒業後も時々会う機会があり、今までどおりの付き合いが続いた。
卒業公演後、劇団としてスタートした劇団「恥知らず」の公演にも役者として出演してもらったこともあった。
やがて僕らは二十歳になり、劇団の連中も就職やなんかで別れ別れになってしまった。
僕も就職で東京に行くことになり、最後の記念に今度は同じ高校の演劇部の連中と、有志が集まって公演
することとなった。
僕は演劇と決別し、いつかは漫画家になりたいと思い、いっそ就職を期に京都を出ようと決心したのだった。
初めての演出作品は、北村想の作品「碧い彗星の一夜」を選んだ。
同じ頃、彼女も有志で「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」というのを上演し、お互いたいへんやなあと
いうことで再び連絡をとり始めた。
3月6日~9日に公演をしたと思う。
それから僕が作ったチラシを見て、大阪のデザイン会社から話がきた。
一度会いたいと言ってきたのだ。
ある日K子と電話で話をしていると、2年前のことが話しに出た。
「あのとき私が電話かけたとき、あんたがちゃんと言うてくれたら付き合ってたのになぁ・・・」
といわれてしまった。
あの時ぼくは一週間も後にくるぐらいなんだからだめだろうと思ってしまっていたのだった。
まさかそんなことは夢にも思わなかった。
あのときすぐにあきらめてしまった自分を恨んだ。
なぜすくに手を引いてしまったのか・・。
しかしもうこの時はK子は彼氏がいたし、僕は東京に就職が決っていた。
大阪のデザイン会社のほうも東京に就職が決っていますのでと言ってしまった。
「東京へ行く日、ホームでシンデレラエキスプレスしたるわ」
K子は電話でそういってくれたのだが、
「ありがとう・・・でも夜遅くに出発するしええわ」
と言った。
気持ちはうれしかったが、今となってはもう・・・と思った。
別れの日は友達四人と京都中をトランクを捜し回った。
京都を出る記念に「浪漫飛行」みたいにトランク欲しい。
といったところ、車を運転してかばん屋を廻ってくれた。
しかし思ったのが見つからなかったが、最後に
「そうや。古道具屋やったらあるかも」
と思い、四条木屋町にある古道具屋を思い出した。
映画関係者も小道具探しに来ると聞いたことがあった。
あそこならあるかもと思った。
古い京町家に所狭しとおかれた道具の中に、歌に出てくるような古い革のトランクがあった。
亭主が言うには大正時代のものらしい。
カギが片方馬鹿になっているので安くしてもらい、少し雨の振る中、車に乗った。
木屋町は河原町から一本東に入った南北のとおりで、飲み屋が多い繁華街だ。
人通りをぬけ、車でまつ友人のところまで走っていった。
電車がくるまで最後に京都タワーに登った。
そこから見渡す夜景は綺麗だった。
京都タワーは京都の人間にとって景観を壊すと、未だに評判は悪いが、
このとき見る夜景はさすがに綺麗に見えた。
碁盤の目のような道が、ライトによって放射状にみえる。
やがて夜行列車に乗り,僕は友達と別れ、京都時代に別れを告げた。
これでもうK子とも会うことはないだろうと思ったが、不思議なことに、その後も続いていた。
就職した彼女は、出張で東京に来ることがあったのだ。
その時あっていたのだ。
お互い付き合っている人がいたが、普通にあっていた。
以前京都を出る前に芝居をやったとき、打ち合わせをうちの離れでやっていたが、その時、K子から電話が
あった。ぼくは打ち合わせを中断して電話に出たのだが、そのとき僕を好きだという女の子がいて、
その電話がK子だと知ると、いっきに顔つきが変わり、まるで般若のようだったと、止めるに必死だったと、
後日その場に居合わせた人たちがいっていた。
それとも知らず僕はいい気になって電話で話をしていたのだった。
まさか真後ろでそんなことがあるとは夢にも思わなかった。
また、東京に出てその頃一時期一緒にすんでいた彼女がいたときも、K子と会う約束が手帳に書いてあったのを
見て大変な目に会ったことがあった。
ちょうどぼくはその彼女とうまくいっていなかったので、お互い距離を置こうといおうとしていた矢先で、
別にやましいことはなかったが、会うことは事実なので、そのことについてはいい訳もしなかった。
しかしそれがよけいにややこしい結果となり、静めるのに大変だった。
その彼女と別れたあと、今のアパートを捜すにK子に付き合ってもらって決めた。
最初に入った不動産屋の物件を一緒に見に行った。
一目で決めた。
条件にぴったりだったのだ。
トイレ風呂別。二部屋に庭、角部屋日当たり良し、であった。
不動産屋に
「一緒に住まれるんですか?」
と聞かれた。
「いえ・・彼女は付き添いです」
「ああ・・そうなんですか・・・一緒に住まれるのかと思いましたよ」
僕は判子を押しながら、一瞬もしかするとあの時うまくいっていれば、そんな可能性があったかもしれない、と思った。
今となってはもう戻れない遠い昔のこととなってしまった。
もしあのとき付き合うことになっていたなら、僕は東京に来ていなかったし、大阪のデザイン事務所にいたかもしれない。
今ごろはデザイナーの端くれぐらいにはなっていたかもしれない。
芝居はそこそこ趣味で、関西の劇団を2人で見ていたかもしれない。
少なくともこんなに芝居や映像の仕事をして、蒲田に事務所なんて持っていなかっただろう。
その後僕が関西に帰るときに会ったりしていたが、3年ほど前に彼女が結婚することとなって会うことがなくなってしまった。
ようやく32歳にして僕の青春時代はピリオドを迎えた。
映画を作り始めて、HPができ、ブログに思いついたことをチョコチョコと書いている。
ある日のこと、ブログのコメントに書き込みがあった。
「ほかのわらじはもうすてたのかな。わらじの忘れ形見、まだもってるよ」
というコメントだった。
名前はかいていなかった。
しかしすぐ誰だかわかった。
そんなのを渡した相手なんて1人しかいないのだ。
忘れ形見とは、昔、僕がK子に描いた似顔絵とイラストのことだ。
もう随分前のことなのに未だに持っていてくれるとは思わなかった。
夢のかけらを持っていた、そんなような気分だった。
もう忘れていることもたくさんある。
楽しかった高校生活から20年近くの月日が流れた。
あの頃は高校卒業してからのことなんて想像も出来なかったし、
卒業しても高校3年間以上の時間をよそで過ごすことが耐えられなかった。
時が経つにつれて、楽しかった思い出が薄れていくのが嫌だったのだ。
しかしそういうわけにはいかない。
時は残酷にも流れ続けている。
いつか忘れる。
今あのころいた高校演劇で一緒だった人たちはどうしているのだろうか?
たくさんいた京都の演劇部の人間たちはどこにいったのだろう。
僕の知る限り、未だに芝居をしている人は、僕意外一人しかいない。
寂しいかぎりである。
せめてそんなたくさんの人たちと出会ったことを記録しておこうと
思ったのがこの日記の始まりなのだ。
このコメントの文章がきっかけなのだった。
僕にとって高校時代は今も続いている。
年もとって、環境もかわった。しかしやっていることはあの頃と何の変わりもない。
今の原点はこのころにある。だから懐かしいなんて思わないし、20年も経ったなんて気がしない。
いまだにあの頃の線の上の続きを歩いているのだ。
もしこれを読んでいる人のなかであのころその場所にいた人がいたのなら、
遠慮なく書き込んで欲しいと思っている今日この頃なのでした。