散歩者goo 

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昨日記160522日 (自然史博物館 天野氏古稀おろしの会)

2016年05月25日 17時44分45秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴 最高/最低℃ =27.8  17.0
この日は昼食を早めにとって、大阪市立自然史博物館へ行った。

昔、自然史博物館の友の会の会員になっていて、会の自然観察会にはよく参加した。
また、たまに定例の探鳥会が開かれていて、これにもよく参加していて、長居公園にもなじみがあった。
しかしそれらは、長居スタジアムが計画される前の話で30年以上前の話だ。

2時から博物館で講演会がありその内容に興味があった。
しかし、自然史博物館に着くと、長蛇の列が。
そもそも、講演会は2時から始まるのだが、それに15分以上遅れていたのであきらめていたが、これでは講演会の1時間前でも入場できなかっただろう。
とにかく、子供が多かった。
会場では、化石が多く展示され、そこに詳細な説明パネルが展示されていた。
化石とイラストを見比べながら、太古の時代様々な生物が地上や海を跋扈していた情景を覆い浮かべていた。
展示は動物の化石が中心だったが、植物ももっと展示してほしかった。
そもそも酸素による呼吸そのものが生物にとって、酸素は体を酸化させる毒ガスでもあると聞いている。それを進化の過程で、エネルギー発生に使った。
バクテリアから、単細胞生物をして、多細胞生物、植物による葉緑体による炭酸同化作用による酸素の発生と生物の適応、目の獲得、感覚器官の獲得、神経系の獲得、ミトコンドリア、度重なる生物の絶滅・・・・・
その他生物の進化に関して、未だ解明されていないことは山ほどある。
そうした意味でも、謎が多い古生物学は面白く、興味は尽きない。
最後はサルから現代人への進化の過程も取り上げられていた。
興味深かったのが、ネアンデルタール人の遺伝子が、アジア人にも多く入っている事実だ。
ネアンデルタール人と現生人類は混血せず、現生人類がネアンデルタール人を駆逐したと聞いていたが、どうやらDNAを見る限り混血しているらしく、ウイキで調べても分子生物学による最新研究では、現生人類には、ネアンデルタール人から受け継いだ痕跡か残されていると記載されている。
自然史博物館内は人で一杯だったが、隙間を縫ってしっかりとみることが出来た。
結構疲れた。

博物館が閉まるので、博物館を後にした。
その後、天野氏の古稀おろしの会に参加する予定だったが、条件として飲み物持参ということなので、駅近くのスーパーでワインを購入して、会場のある心斎橋に向かった。
会は4時から始まっていて、宴もたけなわで料理もお酒もかなり無くなっていた。
その後8時過ぎまで、知り合いの人を見つけては、いろいろ話し込んだ。
始めて会う人が、私の経歴を尋ねたので、つい長い時間話してしまった。

経歴を話すといろいろありすぎて、簡単に話しても結構時間がかかる。
大まかにいえば、生まれも育ちも現住所も同じの、貧困層の70代の独居老人である。
工業高校を卒業後、環境試験装置の会社e社に10年、退職後倒産して無くなった農事用温暖機の会社s社に3年、食品機械の会社f社に10年、いずれも開発設計技術者として勤務した。
最後のf社では、技術部門の統括責任者(係長だが会社の全技術部門を統括し工場の品質管理や営業サービスを指導していて、会社の幹部会にも技術部門の長として出席し、部門の年度計画も立てた。)で、40歳になったときに退職した。
その後1年半、アメリカのシカゴとメキシコのクエルナバカに語学留学し、中南米首都を回りの民芸雑貨を持ち帰った。
帰国後順次喫茶店を1年、中南米の民芸雑貨店を1年、画廊を天王寺区石ヶ辻町で5年、その後西天満で5年の10年経営し倒産した。
その後非正規社員や契約社員やアルバイトや自営業を経て、職も見つからず、やむを得ず65歳ぐらいから生活保護前後の年金生活に入る。
今から約8年前には、倒産した会社時代に作った借金が原因で、自己破産した。
簡単に書いても、これだけの項目があり、しかもその職務内容は、多岐にわたり、非常にユニークな信じられないような内容も含まれている。(例:ソビエトの宇宙飛行士の生体機能試験装置<最初の会社e斜で設計担当者の一員だった。> この例以外にも40歳までの前期のサラリーマン時代だけでもいろいろ面白い経験をしている。)
趣味も、いろんな方面に興味を持っていたのでそれらについても話せる。
特に今は趣味となっている美術関係は、仕事でもあり、今も趣味として関係していて、この日の会の出席そのものが、美術関係のご縁によるものでもある。

この様に私の経歴関係については、非常に複雑なので、このブログに大まかな経歴の概要として「私の簡易履歴(追)」を書いています。
興味ある方はブログ内検索で「私の簡易履歴(追)」(2013年5月)を検索して見てください。
それ以外にも、例えば考古学を勉強するきっかけなんかについても、以前30代の時の失業時代の話しをこのブログに書いたと思う。
帰宅は、途中スーパーにより10時前になり、よく動き回った一日となった。


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島之内寄席(ダイエー)の思い出

2016年05月25日 12時29分54秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
先ほどFBを見ていて4代目林屋小染に関する記事があったので、以前ブログに書いた云々といったコメントを載せた。
だが調べても林屋小染については1カ所名前だけ触れただけのものがあり、書いていなかった。
以前ネットを調べて、彼の死真相を知ったとき、その直前の島之内寄席の高座では異常なまでの緊迫感を持って高座に上がっていたことを思い出した。
確かに、小染に関して書こうと思って調べたのも事実だが、最後に近い高座と結び付けて書くと、あまりに生々しく、当時のプログラムもとってあるはずだが、家探ししないとわからないし、高座の思い出は録音を取ってあるわけでないので、正確なことが書けないのでやめた。

そのことについて、ブログを書こうとして資料を調べたこともあるので、ブログに書いたものと勘違いしたようだ。

彼は、亡くなる数年前から徐々に、デレデレした愛嬌のある呑み助の顔から、なんとなく締まった顔になり、どすの効いた人情話もするようになっていて、何とも言えない気迫を感じていた。
同時に、噺もうまくなり、ベテラン(当時の四天王や露の五郎)に近づいたように思っていた。
当時若手で注目していたのは、小染、春蝶、三枝、仁鶴、枝雀、ざこば といった面々であった。
無論、中堅の落語も面白かった。
島之内寄席(ダイエー)は毎月行われていて、上方落語の大御所(米朝、松鶴、小文枝、福団治、露の五郎)も若手も一緒に法被を着て下足番をし、靴を渡してくれたりしていたので恐縮した。
夏は決まって怪談物がかけられた。
大ネタもよくやっていた。
その代わり、同じネタも何度も聞いている。
例えば「代書屋」や「子ほめ」や「三十石」・・・・
福団治・春団治の「代書屋」は何度も聞いた。
島之内寄席が無くなってから、安い落語会は無くなり、足が遠のいたが、当時四天王や露の五郎兵衛や先ほど挙げた噺家の生の高座をたくさん見ることが出来たことは、私の大きな財産でもある。
落語は、聞くだけのものではなく見るものでもあり、ライブなのだ。
お囃子によっても変わる。
特に文枝のハメモノは楽しかった。
それ以外の落語家もハメモノや、所作で雰囲気がずいぶん盛り上がり、臨場感が出る。
余裕が出来れば、繁盛亭に行きたいと思うが、今は支出順位からすると低いので当分行けそうにない。
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