地震・台風・火事・親父、とは少し古いが、こういう情報は常時発信されていなくてはいけない。単行本では稀に出ることはあっても、マスメディアは動かない。マスメディアは、それが自らの社会的責任と自覚していなければならない。今度の東日本大震災を決して一過性のものとすべきではない。我が列島は、全てが災害危険地帯なのだからだ。
産経 【文化】 東日本大震災 〔地震記録から見た震災〕 歴史学者 磯田道史 (茨城大准教授)
地殻変動期に暮らす覚悟を
1日40回という猛烈な余震、茨城大学図書館の書庫に入り、床に25?の厚さで積もった本のうえを裸足で歩き、『大日本地震史料』と『新収日本地震史料』を探し回った。過去におきた巨大地震の経過をさぐり、この先のことを考えようと思った。地震記録をみて感じた。今後も、この島国ではしばらく地震が続くかもしれない。私も何かしなくてはいけない。理系の研究者と歴史学者が地震津波を研究する「歴史地震研究会」に入会することにした。
江戸時代以来、この国は5回の地震活動期を経験している。1610年頃の慶長期。1700年頃の元禄宝永期。1855年頃の安政期。1890年頃の明治中期。そして昭和20(1945)年頃の5回だ。50年か100年ごとに地震活動期がきている。一度、活動期に入ると、列島の地下構造の破壊がすすみ、数年から20年は地震津波が続いている。今回の大地震は東北三陸沖の太平洋プレートで起きたが、これが南海トラフの東海地震・南海地震に影響しない保証はない。
というのも、今回に最も似ている約1150年前の貞観地震が東北を襲ったときには18年後に仁和南海地震・東海地震がおきている。400年前の慶長三陸地震も今回の地震に似ているが、この前後の慶長期は、日本中が地震活動期になっていた。まず九州で霧島山が、次いで浅間山が噴火。畿内で大地震が起き、伏見城が崩壊、太閤秀吉は庭で女の着物をかぶっていたところを救助されている。5年後、岩木山と伊豆大島が噴火。さらに4年して東海から西日本で超巨大地震(慶長地震)が発生。大津波が千葉から四国・九州を襲った。翌年、関東で大地震。さらに6年後、会津で大地震がおきたあと、今回の地震に似た「慶長三陸地震」が発生。三陸・仙台平野から茨城・千葉までを巨大津波が襲った。
今回のようなM(マグニチュード)9の巨大地震がおきたときは西日本も東日本も地震と無縁ではなくなると覚悟したほうがよい。長いときは20年ちかく、地震・火山活動も活発になる可能性がある。津波も一回きりではないかもしれない。史料から判断すると、もはや日本は6回目の地震活動期に入った可能性が高い。
考えてみれば、戦後の繁栄そのものが、たまたま地震活動がない時期の平和を謳歌したものであった。地震休眠期ならではの甘い想定で原子力発電を計画し、そのエネルギーを基礎に、鬼の居ぬ間の洗濯のような、危うい経済社会を築いていた。
なにしろ今回の地震は有史以来のM9だ。われわれには、地殻変動期のこの島で暮らす相当の覚悟が要る。建物を補強し、病院などに発電機を備え、家財を固定し、地震被害を軽減しなくてはならない。低地に高い避難やぐらを建て、高台への避難路を整え、住宅を高所に移し、津波に備えなくてはならない。防潮堤は費用対効果を考えて設置したい。また海底津波計を日本列島の沖合にくまなく沈めて、津波を早期に察知し、沿岸住民にすばやく警報する準備が急がれる。津波警報の精度が悪いと警報の信頼がなくなり悲劇がおきる。
また被災地復興には、江戸人の知恵に学びたい。江戸時代の領主は、津波の被災地を「塩入り」とよび、5年も10年も年貢を減免した。思い切って10年無税にするぐらいの誘導策をとらねば、壊滅した被災地に、にぎわいは戻ってこない。昔の人はそれを知っていた。(寄稿)