数日前に師匠の永沢さんよりお手紙をいただいていました。
あんまり嬉しくて、急にやる気が出て気て、一気に数日前の
「ホテルの中庭の木」を塗ったのですが、
永沢さんには本当にいつも励まされてばかりです。
(私が落ち込みすぎなのか。。?)
絵を描く以前のことで、すぐに躓いて先に進めなくなる私の
背中をすっと押してくれる人です。
今回は以前の去年のニュースレターで「生きてること篇」
も同封されていました。
その内容とは関係ないのですが、それを読んでいて
ちょっと昔のことを思い出しました。
多分幼稚園の頃だと思うのですが、
ふと「あれ?私の意識は今までどこにあったの?」
という疑問が沸いたのです。
小さかったので、意識という言葉は知らなかったにしても、
ものを感じたり、考えたり、今「生きている」と分かる自分の感覚は
どこからきたのか、母に何度も聞いたことがありました。
(どうしてもどこからかやってきた、という感覚があったので。)
結局未だに分からないのですが(笑)、
ゴーギャンの晩年の絵にそういうタイトルの絵があったのを思い出して
分からないからいいんだ!?と思ったり。
いろんな神秘的なこととか、どうやっても分からないこととか
分からないからできることもあるのかもしれない。
感動したり、きれいだなぁとか、わーーぉ!とか思えるのは
分からないことがいっぱいあるからなのかも。
サンタクロースと同じように、全部分かっちゃったら
楽しみもお終い、みたいな。??
お手紙にスケッチ仲間の個展の案内状も同封されていました!
一緒にフエに行ったスケッチ仲間の個展です。
詳しくはとりさわさんのブログへ。
永沢先生のお便り、画面で見せていただきました。右側のピンクの桜は永沢先生の桜では僕が始めて見るものです。今年は何枚描かれたのでしょうか?。
僕は結局桜は3枚でした。今、そのうちの1枚を塗り始めています。この日曜に集中して塗りたいのですが、一方で、近所の藤の花が咲き出しており、それをスケッチしたいとも思っており、つくづくサラリーマンの時間のなさに溜息が出ます。
グエンさんの言った『今「生きている」という時間の感覚』とは若干違うのかもしれませんが、僕も幼稚園の時、自分の「意識」が自分だけのもので、他の人とははっきり違うものだと感じて、それを大人に必死で説明しようとしていたということの記憶がはっきりあります。自我を意識する年齢は案外早いのかもしれません。
ところで、前回お便りした時、「永沢教室のベトナムスケッチ便り」と書いたところ、グエンさんは「永沢さんのベトナムスケッチ便り」だと思われていたようですが、これは、グエンさんが書いた「永沢教室のベトナムスケッチツアー」を呼んだということです。そうご理解ください。
でも桜3枚描けたらすごいじゃないですか?
「自分の意識」はみんなその頃に分かるんですね。
物心がつくっていうんでしょうか。
昨日長男に聞いてみると
「どこからか来たとは思わなかったけど、
何で生きているんだろう?って5歳の時に思った。」と言ってました。
最初の自分の記憶がある頃でしょうか。
ベトナムスケッチ便り、了解です!
誤解してました。