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ヨーロッパの歴史・経済-中世/後期-その2

2019年09月26日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史-中世/後期-2


■中世後期(1330年-1370年)
この時期は、ポーランド・リトアニア同盟の崩壊が始まり、ビザンチン帝国の内乱によってオスマン帝国やセルビア帝国が台頭してくる。また、モンゴル帝国の西ヨーロッパへの侵攻は止まったが、イギリスとフランスの百年戦争が勃発した頃でも有った。東ヨーロッパではモスクワ大公国が台頭して来た。

・ポーランド・リトアニア同盟の崩壊
1330年、リトアニアのゲディミナス大公の娘アルドナとポーランド王ヴワディスワフ1世の息子カジミェシュとの政略結婚によって結ばれたポーランド・リトアニア同盟の崩壊が始まった。

・ブルガリアのセルビア遠征/ヴェルブジュドの戦い
1330年、ブルガリア皇帝ミハイル3世とビザンチン皇帝アンドロニコス3世は、マケドニア地方に勢力を伸ばしていくセルビア王ウロシュ3世に対抗する為、反セルビア同盟を結び、セルビア遠征を決行するが、7月のヴェルブジュドの戦いでセルビア軍に大敗し、更にブルガリア皇帝ミハイル3世は戦死した。これにより、ビザンチン帝国はアドリアノープルに退却した為、セルビア軍はマケドニアを征服した。

・ビザンチン帝国の侵入
同年8月、セルビア王ウロシュ3世は甥イヴァン・ステファンをブルガリア皇帝に即位させると、ミハイル3世の後妻テオドラは子供たちを連れて、コンスタンティノープルの兄弟アンドロニコス3世を頼った。その後、ビザンチン帝国はセルビアと休戦し、ブルガリア攻撃を開始し、バルカン山脈南部の黒海沿岸部の都市を奪った。

・ハンガリーのワラキア遠征/ワラキア公国の独立
1330年、ハンガリー王カーロイ1世はワラキアに遠征軍を派遣するが、同年11月12日にバサラブ1世はポサダの戦いでハンガリー軍を打ち破り、ワラキア公国はハンガリーから独立した。

・ボヘミアのシロンスク遠征/併合の失敗
1330年、ボヘミア王ヨハンは、シフィドニツァ公ボルコ2世やグウォグフ公プシェムコ2世を従わせる為、シロンスク遠征を決行したが、シロンスク・ピャスト家の最後の独立諸公となったシフィドニツァ公ボルコ2世ハンガリー王カーロイ1世やポーランド王ヴワディスワフ1世と同盟を結んで激しく抵抗した為、グウォグフ公国のみしかボヘミア王冠領に併合出来なかった。完全にシロンスクを併合するには、1368年まで待たなければならなかった。


・ブルガリア貴族の反乱
1331年3月、タルノヴォの貴族たちはイヴァン・アレクサンダルを擁立し、イヴァン・ステファンを廃位させた。その後、アレクサンダルがブルガリア皇帝に即位すると、エディルネに向かって進軍し、同盟を結んでいたジョチ・ウルス軍と共に、短期で北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸地方南部を奪回した。

・セルビアの内乱/ウロシュ3世の廃位
1331年、セルビア王ウロシュ3世がブルガリアと和睦したことに不満を抱く貴族たちと、息子のウロシュ4世によって、ウロシュ3世は廃され、息子のウロシュ4世が即位する事件が起きた。

・ビザンチン帝国の小アジア遠征の失敗
1331年3月、ペレカノンの会戦でオスマン皇帝オルハン軍にビザンチン軍が敗北すると、ニカイアも陥落した。その後、小アジアのビザンチン帝国領がオスマン帝国の手に落ちることが確実に成ると、アンドロニコス3世はバルカン半島に目を向けた。


・ボヘミア王ヨハンのイタリア遠征
1331年、ボヘミア王ヨハン及び息子のカール4世はイタリアまで勢力を拡大する為、イタリア遠征を行ったが、失敗し、33年にはボヘミアに帰還した。

・プウォフツェの戦い/ポーランド・ドイツ騎士団戦争
1331年、ドイツ騎士団はボヘミア王国と同盟を結び、ポーランド北部のドブジンを占領した。その後も、ヴィエルコポルスカに攻め込み、グニェズノを略奪し、更にポメラニアに進軍した。しかし、進軍途中でポーランド王国軍と激突し、プウォフツェの戦いでドイツ騎士団は破れ、彼らの領地拡大は止まった。

・ポーランド・ドイツ騎士団戦争の終焉
1332年にドイツ騎士団はクヤヴィ公国を占領した為、ポーランドはドイツ騎士団の占領地を領土とすることを認める休戦協約を認めざるを得なかった。33年、ポーランド王ヴワディスワフ1世は死去し、カジミェシュ3世が即位した。

・セルビアとの同盟/ルソカストロの戦い
1332年、ブルガリア王イヴァン・アレクサンダルとセルビア王ウロシュ4世は同盟を結ぶと、ミハイル3世の弟ベラウルがブルガリア北西部のヴィディンで反乱を起こすと、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世軍がブルガリアに進軍して来た。しかし、ルソカストロの戦いでブルガリアとモンゴルの連合軍に破れ、両国は新たに同盟を締結し、ビザンツ帝国に奪われたトラキア地方の領土の大部分を回復した。

・シュルギアンネスの暗殺/ビザンツ帝国
1334年、カンタクゼノスに破れたシュルギアンネスがセルビアに亡命すると、セルビア王ウロシュ4世はシュルギアンネスを擁立してビザンツ帝国西部の征服に乗り出した為、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世は刺客を放してシュルギアンネスを暗殺した。

・カラバグの戦い/キプチャク・ハン国の敗北
1334年、キプチャク・ハン国のウズベク・ハンがカスピ海西岸のダルバンド経由で南下し始めると、イルハン朝のアブー・サイード軍は進撃し、カスピ海南西部のアッラーン地方のカラバグで両軍は交戦した。

・イルハン朝フレグ家の断絶
1335年、アブー・サイードが戦死した、イルハン朝のフレグの嫡流が断絶してしまった為、アブー・サイードの宰相らはジョチ・ウルスとの戦いで軍が動揺することを恐れて、4代大ハーン・アリクブケの玄孫アルパ・ケウンを即位させた。即位後、アルパ・ケアウンはアブー・サイード妃のバグダード・ハトゥンが自分を軽蔑した事より処分し、キプチャク・ハン国軍を撃退した。しかし、イルハン朝の君主アルパの権力は弱かった為、君主アルパはファールス領主マフムード・シャーなどの有力者を処分して領地を取り上げ、自分の権力を強めて行った。

・ボヘミアとポーランドの和睦
1335年、ポーランド王カジミェシュ3世は大金を払ってボヘミアと和睦した。

・ヴィシェグラード会合/オーストリア攻撃
1335年、ハプスブルク家に対抗するため、ハンガリー王カーロイ1世はトレンチェンにてポーランドおよびボヘミアと同盟を結び、同年10月からヴィシェグラードにおいて2ヶ月に及ぶ友好的な会合を行った後、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と同盟を結ぶオーストリア公アルブレヒト2世を攻撃。2年後、カーロイ1世の勝利に終わった。

モンゴル・イルハン朝の解体期(1336-1353)

・アリーの反乱/イルハン朝の解体期
1336年、バクダットの支配者アブー・サイードの叔父のアリー・パーディシャーは、ムーサーを擁立して反旗を翻した為、イルハン朝の君主アルパ・ケウンは自ら討伐軍を率いてバクダットに向かったが、多くの味方に裏切られて大敗すると、逃亡中に自ら処刑したファールスの領主マフムード・シャーの一族に捕まり、殺された。

・フランドル商人の反乱/フランドル都市連合の結成
1336年、イングランドはフランドルに経済制裁を始めると、12月にはフランドルの羊毛業者の乱が勃発した。翌年の百年戦争を機に、ヘントの商人ヤコブ・ヴァン・アルテベルデはフランドル都市連合を結成し、フランドル伯ルイ1世を追放された。

・大ハサン討伐/イルハン朝の解体期
1336年、アルパの死去により、ムーサーが単独でイルハン朝の君主に成った。しかし、大ハサンが他の傍流一族のムハンマドを擁立した為、ムーサーは叔父アリーと共に大ハサン討伐を決行した。一時優位に立ったが、叔父アリーが暗殺されたのを機に大敗した。その後、ムーサーはイラン北西にある首都タブリーズで暮らす事になる。

・マラーガの戦い/イルハン朝君主トガ・テムル
1337年、ホラーサーンの統治者シャイフ・アリーらによって、トガ・テムルがイルハン朝の君主に即位するとムーサーと共に、大ハサンを倒す為にマラーガの戦いに挑むが、トガ・テムルは戦う前に逃げた為、ムーサーは敗北し、戦死した。

・トヴェリ大公の反撃/モスクワ公国の台頭
1337年、プスコフに逃亡したトヴェリ大公アレクサンドルはリトアニア大公国の支援を受け、息子フョードルとともに、モスクワ大公イヴァンに報復すると、キプチャク・ハン国のウズベク・ハンに呼び出されると、イヴァン1世の讒言を受けたウズベクは、翌38年にアレクサンドル親子を処刑した。
イヴァン1世は、キプチャク・ハン国に忠誠を誓い、キプチャク・ハン国の徴税人となってモスクワを裕福し、ベロオーゼロ公国、ガーリチ公国、ウグリチ公国、コストロマー公国など分領公国を傘下に納めた。

・リトアニアのトラカイ公を設置
1337年、リトアニア大公ゲディミナスは、息子・ケーストゥティスをトラカイ公に任命すると、ケーストゥティスはドイツ騎士団から西リトアニア及びサモギティアを守り、逆にドイツ騎士団を攻撃した。

--百年戦争(1337年 - 1453年)--

百年戦争とは、
フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。また、この戦争から、国家・国民と言うアイデンティティーが生まれ、イギリスとフランスの国境線がはっきりと決まった。


・フランスへの宣戦布告
1337年、フランス王フィリップ6世がイングランド王エドワード3世の「スコットランド王デイヴィッド2世の引き渡し要求」を拒否すると、エドワード3世はフィリップ6世に追われているロベール3世・ダルトワを亡命させた。これにより、フィリップ6世はアキテーヌ公領及びポンチュー伯領の没収宣言し、ガスコーニュに進軍した。これに対してエドワード3世はフランス王を名乗り、フランスに宣戦布告した。


・イングランドの北フランス侵入
1337年8月、エノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯らはフランスの脅威を感じて、イングランド王エドワード3世と同盟を結んだ。更に翌38年、ルートヴィヒ4世が神聖ローマ皇帝に即位すると、神聖ローマ帝国もイングランドと同盟を結んだ。一方、エドワード3世は財政難に陥り、7月にベルギーのアントウェルペンに渡り、イタリアの銀行家から多額の借金をする。9月、ようやくフランス北部に侵入を開始した。

・ガスコーニュの占領/フランス
1337年、イングランドが財政難に苦しんでいる間、フランスはジェノヴァのガレー船を雇い、イングランドの海岸地帯を襲撃し、翌38年にはガスコーニュの攻撃を開始した。翌39年4月にはガスコーニュのアジュネの城ペンやガロンヌ川沿いのブライ、ブールの2市を占領された。

・スコットランドのパース奪回
1338年8月、スコットランド軍はフォース湾の北における最後のイングランド側拠点であるパースを奪回した。一方、エドワード3世はイタリアの銀行からの資金調達は限界に達し、イングランドの大商人ウィリアム・ド・ラ・ポールからの高利の借金に頼らざるを得なくなった。翌39年10月、エドワード3世はフィリップ6世に挑戦状を送りラ・シャペルでの決戦を迫ったが、フィリップ6世に回避され、エドワード3世は撤退した。

・アゼルバイジャンの覇権争い/イルハン朝解体期
1338年、モンケ・テムルの玄孫ムハンマドは大ハサンを引き連れて、サティ・ベクを擁立したチョバンの孫小ハサンを倒す為、アゼルバイジャンの戦いに挑むが、途中で大ハサンがタブリーズに帰還したため、ムハンマド軍だけで小ハサン軍と交戦し、ムハンマドは戦死した。その後、大ハサンはジハーン・テムルをイルハン朝君主に擁立して小ハサンと抗戦を続けるが、40年にはバグダードへ敗走する。

・マクデブルク法/ハールィチ・ヴォルィーニ王国
1338年、ハールィチ・ヴォルィーニ王ボレスワフ・ユーリー2世は、協定により義兄あるポーランド王カジミェシュ3世をハールィチ・ヴォルィーニ王国の後継者に指名し、翌39年にはポーランド南東のサノク市にマクデブルク法を適用する。

ハールィチ・ヴォルィーニ戦争(1340年-1392年)

・ユーリー2世の暗殺/ハールィチ・ヴォルィーニ戦争の勃発
1340年、ボレスワフ・ユーリー2世に不満を抱いたハールィチ・ヴォルィーニの貴族たちによって毒殺された。その後、彼らはリトアニア大公国の君主ゲディミナスの末子で、ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーの支配者リュバルタスをハールィチ・ヴォルィーニ王に迎えると、ポーランド王カジミェシュ3世がウクライナ西部のリヴィウに侵入した。
翌41年、リトアニアの支持によりジョチ・ウルスがポーランドのルブリンを占領するハールィチ・ヴォルィーニ戦争が勃発し、ボレスワフ・ユーリー2世の未亡人エウフェミアはヴィスワ川に沈められた後、ハールィチ・ヴォルィーニ王リュバルタスがヴォルィーニを、ポーランドのカジミェシュ3世がハールィチを支配した。

・ジョチ・ウルスのスモレンスク遠征
1340年、スモレンスク公イヴァンは、リトアニア大公ゲディミナスと同盟を結び、ジョチ・ウルスへの税の支払いを拒んだ為、モスクワ大公国、リャザン大公国、ジョチ・ウルスの軍に攻め込まれた。

・チョバン朝の建国(1340年-1357年)
1340年、大ハサンのクーデターを討伐した小ハサンはアゼルバイジャン・イラン地方を支配し、チョバン朝を建国し、首都をタブリーズに定めた。そして、43年に小ハサンが暗殺された。

・ジャライル朝の建国(1340年-1432年)/イルハン朝の滅亡
1340年、バグダードに敗走した大ハサンはイルハン朝の君主ジハーン・テムルを廃し、自らハンを名乗りイラク地方にジャライル朝を建国した。

チャガタイ・ハン国の東西分裂
1340年、西部のマー・ワラー・アンナフル方面のモンゴル人は都市生活・イスラム社会に深く関わり合う様になり、自分たちを「チャガタイ族」と呼んだ。一方、東部のセミレチエ地方のモンゴル人は遊牧生活・伝統的な習慣を保持し、自分たちを「モグール族」と呼び、両者は対立するように成った。

・エピロス専制侯国の消滅
1340年、エピロス専制公国の内紛を機に、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世はエピロス専制侯国制服に乗り出し、エピロス専制公国を併合することに成功すると、翌41年にアンドロニコス3世は死去した。

・イングランド王エドワード3世のフランス王宣言/スロイスの海戦
1340年、中世の封建道徳では神の恩寵を受けた正統な王に対する反抗は重大な罪と考えられた為、エドワード3世はヘントでフランス王を名乗り、フランドルと同盟を結んだ。6月、オランダのスロイス海戦に於いてフランス艦隊を破ると、ドーバー海峡の制海権を握った。
その後、イングランドとフランスの両国の間で休戦条約が結ばれた。

・フランス北部サン・トメールの戦い
1340年7月、イングランド・フランドル連合軍は二手に分かれ、ロベール3世・ダルトワ軍をフランス北部のアルトワを攻めさせたが、サン・トメールの戦いで、フランス軍に敗北した。一方、エドワード3世軍はフランス北部の大都市トゥルネーを攻撃したが、戦いが長期化したため、ロベール3世はフィリップ6世と、9月に休戦条約を結んだ。その期間中は、反フランス同盟軍は解体し、フランドル以外の低地諸侯軍は引き上げた。

・モスクワ-リトアニア同盟/ゲディミナスの死去
1340年、リトアニア大公ゲディミナスはモスクワ大公国のセミョーンに娘のアナスタシアを嫁がせて同盟を結び、更に北ロシアやプスコフ共和国に援助を行い、モスクワ公国を宗主国に認めさせ、ノヴゴロド公国から離脱させた。翌41年、ゲディミナスが死去すると、ヤヴーヌティスがリトアニア大公に即位させた。

・権力なきカラーウーン家のマムルーク朝支配
1341年、マムルーク朝のナースィルが没すると、有力マムルークが後を継いだ子のマンスール・アブー=バクルを暗殺し、権力闘争を展開すし始める。その為、ムハンマドの息子たちは有力マムルークやアミールの傀儡として利用されて行ったがが、権力なきカラーウーン一族の世襲支配は40年続いた。また、ナースィルが復活させたアイユーブ朝も消滅した。

・ビザンチン帝国の内乱(1341年-1347年)/カンタクゼノスの皇帝宣言
1341年、アンドロニコス3世が死去して、幼いヨハネス5世が皇帝に即位すると、皇太后アンナが摂政に就いた。やがて、皇太后アンナは重臣カンタクゼノスが対立し、カンタクゼノスに朝敵宣告を突きつけると、カンタクゼノスはトラキア都市ディディモティコンで皇帝宣言し、皇太后アンナたちと戦った。

ブルターニュ継承戦争/百年戦争の代理戦(1341年-1365年)

・シャントソーの戦い/ブルターニュ継承戦争
1341年10月、ブルターニュ公ジャン3世の公位継承権を巡り、シャントソーでブロワ家とモンフォール家が抗戦した。ブロワ家とノルマンディー公ジャン2世の連合軍が勝利し、モンフォール家当主・ジャン・ド・モンフォールが捕虜に成り、パリのルーヴル宮殿に幽閉された。その後、モンフォールの妻ジャンヌが徹底抗戦をし、更にイングランドとフランスの停戦期間が終了すると、長きに渡るブルターニュ継承戦争が勃発した。

テッサロニキ(エピロス専制侯国の首都)での反カンタクゼノス運動
1342年、テッサロニキで熱心党によって反カンタクゼノス運動が勃発すると、ヨハネス6世カンタクゼノスの支持者シュナデノスが追放され、熱心党がテッサロニキの市政を牛耳ると、各地でヨハネ5世を支持する声が高まり、ヨハネス6世カンタクゼノスはセルビア王ウロシュ4世に救いを求め、亡命したが、カンタクゼノスがマケドニア、テッサリア地方で勢力の回復すると、野心家のウロシュ4世と対立した為、次にオスマン皇帝オルハンと同盟を結んだ。

・ハンガリ王ラヨシュ1世のクロアチア奪還
1342年、父カーロイ1世が死去すると、長男・ラヨシュ1世がハンガリ王に即位し、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国の傘下と成っていたクロアチアとダルマチアを奪還した。

・チョバン朝のバクダット遠征
1343年、チョバン朝の小ハサンは、大ハサンが勢力を盛り返した事を知ると、バクダット遠征を開始しすると、妻によって暗殺された為、弟アシュラフがチョバン朝の君主に成ったが、支配下のアゼルバイジャンで略奪・殺人など暴政を繰り返して人心を離反させた。

ポーランドを除くヨーロッパへペストの伝播が起きる(1347年-1351年)


・セルビア帝国の誕生(1346年-1355年)
1345年、ビザンツ皇帝ヨハネス5世を支持したセルビア王ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。更に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌46年にはセルビア皇帝に即位した。

・リトアニア王ヤヴーヌティスの廃位
1345年、アルギルダスはケーストゥティスと共謀し、無能な弟・ヤヴーヌティスを廃位し、アルギルダスがリトアニア大公となるが、実際には東部をアルギルダスが、西部をケーストゥティスが統治していた。

・アキテーヌへの進軍/クレシーの戦い
1345年、イングランド王エドワード3世はフランス南西部のアキテーヌにダービー伯ヘンリー軍を派遣し、翌46年にはエドワード3世は手薄になったノルマンディーに上陸し、パリ近くまで侵攻した。その後、フィリップ6世が大勢のフランス軍がサンドニに集結しているのを聞いて、エドワード3世はフランドルへ撤退するが、クレシーの戦いで、追ってきたフィリップ6世のフランス軍を破った。

・カレー包囲戦(1346年-1347年)
1346年、クレシーの戦いの後、イングランド王エドワード3世がフランスの港湾都市カレーをフランス攻撃の拠点に据えると、カレー包囲戦を行い、フランス軍を退けた。

・ネヴィルズ・クロスの戦い/スコットランドvsイングランド
1346年、スコットランド王デイヴィッド2世は、イングランドがフランスを攻めている最中、フランスの依頼により、イングランド遠征を開始したが、ネヴィルズ・クロスの戦いでイングランド軍に負けて、捕虜になった。

・神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の廃位/アヴィニョン捕囚時代
1346年、教皇クレメンス6世からルートヴィヒ4世は廃位され、カール4世が対立王に擁立されると、翌年に、ルートヴィヒ4世は死去した。

・アミール国時代/チャガタイ・ハン国
1346年、チャガタイ・ハンのカザンが中央集権を推し進め、封建的アミールと対立を深め、カルシの戦いで有力者カザガンに敗れて落命した。その後、カザガンはドゥア家のバヤン・クリを傀儡のハンに擁立して権力を牛耳ると、チャガタイ・ハン国の西部から遊牧民を追い出した。

・ビザンチン帝国の共同統治/内乱の終焉
1347年、オスマン軍を率いたヨハネス6世カンタクゼノスは、帝都コンスタンティノポリスに入城すると、皇太后アンナを退け、ヨハネス5世に娘を嫁がせ、正式にヨハネス6世カンタクゼノスは帝位に就いた。内乱中、ジェノヴァにキオス島を奪われた。

・モグーリスタン・ハン国の建国(1347年 - 1363年)
1347年、西チャガタイ・ハン国では、アミールが群雄割拠した一方、東チャガタイ・ハン国では、トゥグルク・ティムールをハンに擁立し、チャガタイ・ハン国から独立したモグーリスタン・ハン国を樹立した。

・ジョチ・ウルスのカッファ包囲
1347年、ジョチ・ウルスの当主ジャーニー・ベクはジェノヴァが領有するクリミア半島の都市カッファを占領するため、包囲戦を仕掛けたが、軍内にペストが蔓延して撤退を余儀なくされた。

・ストレーヴァの戦い/ハールィチ・ヴォルィーニ戦争
1348年、ストレーヴァの戦いでリトアニア人がドイツ騎士団に敗れた後、リュバルタスはヴォルィーニ東部とルーツィク以外の全ての領土をカジミェシュ3世とその同盟者であるハンガリー王ラヨシュ1世に奪われた。

・キオス島の戦い/ビザンチン帝国
1349年、ヨハネス6世カンタクゼノスは内乱に乗じてキオス島を不法占拠したジェノヴァ人を排除するため、艦隊を率いて戦いに挑むが、完敗してしまった。

・モレアス専制公領の樹立
1349年、ビザンチン皇帝カンタクゼノスは、次男マヌエルをペロポニソス半島に派遣し、モレアス専制公領を樹立した。

・ウィンチェルシーの海戦/百年戦争
1350年、フィリップ6世の死去し、息子ジャン2世がフランス王に即位すると、フランス海軍の勢力を復活させた。フランスの同盟国のカスティーリャ艦隊もイングランドに占領されたカレーの襲撃を企てると、8月にはイングランド海軍とウィンチェルシーの海戦を行い、カスティーリャ艦隊は敗北した。

・テッサロニキ地方政権の崩壊/ヨハネス5世の行政職
1350年、テッサロニキでセルビアに開城しようとする熱心党に対する反動クーデターが起き、熱心党政権が打倒されると、カンタクゼノスはテッサロニキに入城し、そこを拠点にしてセルビア王国から奪われた領地を回復しょうとしたが、テッサロニキとその周辺に留まった。そのため、ヨハネス5世をテッサロニキの行政職に任命し、テッサロニキに留め置いた。

・ポーランドと赤ルテニア遠征/ハールィチ・ヴォルィーニの支配者リュバルタスの解放
1351年、ハンガリーに破れたリトアニア大公リュバルタスはポーランドと赤ルテニア遠征を決行し、ラヨシュ1世に捕らわれてしまった。その後、兄ケーストゥティスによって解放されると、翌52年にはヴォルィーニ、ポジーリャ、ベルズ、ヘウムを獲得した。

・ポーランドへの併合/マゾフシェ公国
1351年、ポーランドから独立を維持していたマゾフシェ公もポーランド王の封臣となったが、プウォツク司教区はグニェズノ大司教区の一部であり続けた。

・30人の戦い/ブルターニュ継承戦争
1351年、ブルターニュ継承戦争が膠着状態に陥ると、ブロワ家にモンフォール家からの一騎討ちの挑戦状が届いた。その後、両家から30人が選ばれて、30人の戦いが行われ、ブロワ家側が勝利した。

・モーロンの戦い
1352年、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣して、本格的にブロワ派の支援を再開し、フランス西部のレンヌを占領し、港湾都市ブレストへ進軍すると、イングランド軍とモンフォール派の軍勢が結集し
始め、モーロンの戦いを繰り広げ、ネスレ卿ギー将軍が戦死し、フランス軍は敗北。

・ボスポロス海峡の戦い/ヨハネス5世の反乱
1352年、ヨハネス6世カンタクゼノスはヴェネツィア共和国及びアラゴン王国と同盟を結び、ボスポロス海峡でジェノヴァ共和国と海戦するが、決着は着かないまま終わった。一方、ヨハネス5世はセルビア及びブルガリアと同盟を結んでカンタクゼノスに反旗を翻したが、カンタクゼノスを支援したオスマン君主オルハン軍に敗北し、逃亡した。

・リトアニアのポーランド攻め/リトアニアの異教徒討伐
1353年、リュバルタスが、再びポーランドを攻めた為、カジミェシュ3世はリトアニアの異教徒討伐を行ったが、成果が上がらなかった。

・ヨハネス6世カンタクゼノスの廃位
1353年、ヨハネス6世カンタクゼノスは、ヨハネス5世が国外に逃亡したため、息子のマテオスを共同皇帝に即位させた。一方で、国民は、トルコ人の力を借りて戦うに勝利するカンタクゼノスに不安を感じ、翌年にはパレオロゴス家のヨハネス5世を首都イスタンブールに呼び戻し、ヨハネス6世カンタクゼノスを廃位した。

チョバン朝の滅亡/ジョチ・ウルスのアゼルバイジャン征服
1355年、ジョチ・ウルスのベルディ・ベクはチョバン朝の支配下にあったアゼルバイジャンを占領すると、統治をアミールのアヒジャクに委ねて、ベルディ・ベクは帰還した。57年にはジョチ・ウルス軍はチョバン朝のアシュラフを捉えて処刑した為、チョバン朝は滅亡した。一方、ベルディ・ベクは父と対立して父を殺し、ジョチ・ウルスの第13代君主に成った。

・ポワティエの戦い/百年戦争
1355年、エドワード3世は、前年のアヴィニョン和平会議でジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの領地を与える事を約束したが、ジャン2世が一蹴りしたため、エドワード3世は挙兵した。翌56年のポワティエの戦いで、フランス王ジャン2世が敗北し、ジャン2世はロンドンに連行された。

・ジャライル朝の台頭/ゼルバイジャンの奪還
1356年、大ハサンが死去し、息子のシャイフ・ウヴァイスがジャライル朝の君主に即位、翌57年にはジャライル朝がゼルバイジャンをジョチ・ウルスから奪還した。

・セルビア帝位争い/イピロス・セサリア皇帝
1355年、義兄のニキフォロス2世に、エピロス専制侯のシメオンはマケドニアのカストリアへ追放された。翌56年、シメオンはセルビア帝位を狙って、第2代目セルビア皇帝ウロシュ5世と争うが失敗した。59年、ニキフォロス2世が死去したため、シメオンはイピロス専制公に復帰し、エピロス・セサリアの皇帝に即位した。

ジャックリーの乱/フランス農民一揆
1358年、ポワティエの戦いの敗北で、フランス国王の権力は失墜し、傭兵団による農村への略奪が横行、更に貴族からの重税に苦しむ様になると、サン=ルー=デスラン村で一揆が勃発し、領主一族が殺害された。その後は、ピカルディ、ノルマンディー、シャンパーニュなどフランス北東部の広範に農民一揆が広まっていった。
やがて、農民軍を指揮するギヨーム・カルルが現れると、彼はパリで叛乱を起こしたエティエンヌ・マルセルとの共闘を目指したが、6月のメロの戦いにおいてナバラ王シャルルによって敗北し、反乱軍の農民たちは皆殺しにされた。

西チャガタイ・ハン国の群雄割拠時代
1358年、西チャガタイの将軍カザガンが暗殺され、息子のアブドゥッラーフが跡を継ぐが、60年にはアミールの支持を失い、スルドゥズ部族のバヤンとバルラス部族のハージーによって地位を追われると、チャガタイ・アミールと呼ばれる地方勢力が割拠し始めた。

・ジョチ・ウルスの混乱期
1359年、ウズベク・ハンの孫ベルディベク・ハンが、弟クルナに暗殺されると、ジョチ・ウルスは各地に君主が乱立する混乱期に突入し、クルナもすぐに暗殺された。その後、ママイが台頭し、多くの王族をハンに擁立した。やがて、ジョチ・ウルスはヴォルガ川を境に東西に分断され、ヴォルガ以西のキプチャク草原、クリミア半島をママイが支配し、東のオルダ・ウルスのオロスと敵対した。

・東西チャガタイ・ハン国を再統一
1360年、モグーリスタン・ハンのティムールはマー・ワラー・アンナフル遠征を決行し、西チャガタイ・ハン国の有力エミールたちを制圧すると、モグーリスタン軍は帰還した。翌61年、再びバルラス部の指導者ハージーが反旗を翻すと、モグーリスタン軍は西トルキスタンに進攻し、スルドゥス部のバヤン、ヤサウリー部のヒズルを捕まえて処刑された。一方、ハージーは逃亡中にアフガンのサブゼヴァール市民に暗殺された為、西トルキスタンのエミールたちや、ハージーの甥・ティムールがトゥグルク・ティムールに降伏した。その後、モグーリスタン・ハンはティムールをバルラス部の指導者に認めた。
翌62年、息子イリヤース・ホージャを西トルキスタンの統治者にし、ティムールをその後見人に据えると、モグーリスタン軍は帰国した。その後、ティムールは逃亡する

・スーフィー朝の建国(1361年-1379年)
1361年、ジョチ・ウルスが無政府状態に陥ると、コンギラト部のフサインがホラズム北部のクフナ・ウルゲンチを首都してスーフィー朝を建国し、64年にはマー・ワラー・アンナフルを支配する西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じて、フサインはホラズム南部のキャトとヒヴァを占領した。やがて、ティムール朝と対立する

・キシュ近郊の戦い/西チャガタイ・ハン国の復活
1362年、ティムールはモグーリスタン軍に追われるアミール・フサインと合流し、ヒヴァ領主を殺害すると、モグーリスタン軍に捉えられてメルブで過ごす事になった。二年後、ティムールとフサインの連合軍は、ウズベキスタンのキシュ近郊でモグーリスタン軍を破ると、マー・ワラー・アンナフル地方からイリヤース・ホージャを追放し、新たな西チャガタイ・ハン国にチャガタイ家のカーブル・シャーを擁立した。

・オーレの戦い/ブルターニュ継承戦争の終結
1364年、ブレティニー条約によりイングランド・フランスが停戦中、ジャン4世がイングランドのジョン・チャンドスの支援を受けて、フランス・ブロワ側の支配下にあるオーレを攻撃すると、フランスのシャルル・ド・ブロワ軍とオーレの戦いを繰り広げ、シャルルを戦死させた。これによって、ゲランド条約が締結して、ドルー家のジャン4世がブルターニュ公に即位し、ブルターニュ継承戦争の終結した。

・イリヤース・ホージャの暗殺/モグーリスタン・ハン国の内戦
1365年、トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したイリヤース・ホージャは雪辱を期してマー・ワラー・アンナフルに親征し、ティムールとフサインの連合軍を打ち破った。その後もサマルカンドに進軍するが、サルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅したため、マー・ワラー・アンナフルから退却した。イリヤース・ホージャは敗走中にドグラト部のカマルッディーンによって殺害され、カマルッディーンはモグーリスタンのハンを名乗った。チンギス統原理を尊重する部族長たちはカマルッディーンの即位を認めず、モグーリスタン・ハン国は長期の内戦状態に陥った。

第一次カスティーリャ継承戦争(1366年-1369年)/百年戦争
1366年、カスティーリャ王ペドロ1世に追放された異母兄エンリケが、国内の多くの不平分子を結集して武装蜂起した為、第一次カスティーリャ継承戦争が始まった。翌67のナヘラの戦いでは勝利したが、69年のモンティエルの戦いで、カスティーリャ王ペドロ1世が戦死すると、エンリケがカスティーリャ王に即位した。

・ティムールのサマルカンド奪還/フサインとの対立
1366年、ティムールとフサインはサルバダールを殺害して、サマルカンドを奪還した。その後、両者は対立して争うが、モグーリスタン・ハン国の攻撃に備えて、一時的に和解した。

・ジョチ・ウルスの再統一
1368年、オロスはシグナクでハン位につくと、バトゥ家とオルダ家が断絶して以来混乱の続くジョチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指し、1372年、首都サライを占領する。



・ティムールのバルフ攻撃/フサインの死
1369年、フサインの政権下に置かれたティムールは、ハーン・オゴデイの末裔であるソユルガトミシュを西チャガタイ・ハン国のハンに擁立し、バルフへ進軍すると、フサインは降伏した。翌70年、ティムールの同盟者によってフサインと西チャガタイ・ハンのアーディル・スルターンが処刑された。その後、ティムールはチンギス・ハーンの子孫の娘を娶り、アミール・キュレゲンの地位を得ると、バルフからサマルカンドに遷都し、ティムール朝を確立した。


・ヴォルィーニ全域の奪還
1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が死去すると、ハールィチ・ヴォルィーニ王国の支配者リュバルタスが、ポーランド領のヴォルィーニを奪い取った。その後、ハンガリー王ラヨシュ1世がポーランド王に即位した。

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2 コメント

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力作ですね (風来居士)
2019-07-21 18:40:02
力作ですね。
Unknown (職案人)
2019-07-22 09:46:26
大作になってしまいました。ヨーロッパだけを書くつもりが、いろいろ関わって来るのでモンゴル帝国やルーシ諸国やイスラム帝国まで書かなければならなくなった。
中世を書き終わるのに1年を要する気がする

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