■大航海時代(1453年-1469年)
ヨーロッパ人がアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われた。その背景として、オスマン帝国に地中海の制海権を握られていた為、ヨーロッパ諸国が地中海以外の新たな交易ルートの開拓せざる負えなくなる。つまり、重商主義。また、百年戦争後、イングランドの薔薇戦争が起きた。また、東ローマ帝国の滅亡前後には、多くの知識人がイタリアへ亡命し、その携えた古典の文献がイタリアに伝えられて、イタリアでルネサンス運動が起きる
中世の封建社会では、領主が農奴を使役して経営する私有地(荘園)で、自給自足を営んでいた。いわゆる、閉鎖的経済であった。
やがて、農業が三圃式農業から三圃式農業に変わると、生産性が向上し、余剰生産物の貨幣化が進み、貨幣経済が興り、それにより農民の自立と荘園への貨幣地代の導入され、荘園制とそれを支えていた農奴/農奴制が崩壊して行く、また人口増加により十字軍運動が起こると、それに伴って商業ルネサンスが興り始め、イスラム国家のオスマン帝国が地中海に勢力を伸ばすと、大航海時代が到来する。
・アブー・サイードの台頭/ティムール朝
1453年、ティムール朝のサマルカンド政権の支配者アブドゥッラーにアブー・サイードが反旗を翻し、新たなサマルカンド政権の支配者になると、ヘラート政権への進撃を開始する。
・白羊朝の台頭
1453年、黒羊朝とティムール朝がアゼルバイジャンおよびイラン西部の支配を巡って争っているすきに、黒羊朝の従属国である白羊朝のウズン・ハサンは勢力を伸ばし、更にアナトリア北部のトレビゾンド皇帝ヨハネス4世の娘を娶り、トレビゾンド帝国と同盟を結び、オスマン帝国から独立した。
・ベオグラード包囲の失敗/オスマン帝国
1454年、オスマン皇帝メフメト2世はセルビア公ジュラジに割譲した領土の返還を求めた。しかし、ジュラジに拒否された為、翌55年にオスマン帝国はセルビアの首都ベオグラード遠征に乗り出し、56年にはメフメトが率いるオスマン軍がベオグラードの包囲を開始した。しかし、ドナウ川に浮かぶオスマン軍の艦船はドミニコ会修道士カピストラヌスが率いる民衆の攻撃を受けて壊滅し、ベオグラード市内に突入したオスマン軍はハンガリーのフニャディ・ヤーノシュの反撃を受けて惨敗し、エディルネに帰還した。その直後、フニャディはペストに罹り、死亡した。
・十三年戦争(1454-1466年)
1454年、ドイツ騎士団から独立を得るための、プロシア諸都市と地方貴族の反乱として始まった。プロシア連合は、ポーランド王カジミェシュ4世に助力を請い、プロシアをポーランド王国に取り込むと申し出た。国王がそれを承諾すると、戦争はプロシア連合が支援するポーランドとドイツ騎士団の支援者との間で起こった。1466年、プロシア連合側の勝利に終わった。
・イングランド王の精神錯乱/ヨーク公の台頭
1454年、カスティヨンの戦いの敗北後、イングランド王ヘンリー6世が精神錯乱に陥った為、枢密院は王妃マーガレットの願いを退け、ヨーク公リチャードを護国卿に任命した。その後、ヨーク公は政敵のサマセット公はロンドン塔に投獄し、政権を牛耳った。
薔薇戦争/イングランドの勃発(1455-1485年)
・セント・オールバンズの戦い/薔薇戦争
1455年、ヘンリー6世が回復すると、ヨーク公リチャードの施策を覆した。ロンドン塔に幽閉されたサマセット公を開放し、ヨーク公から護国卿の地位を没収した。5月、ヘンリー6世はヨーク公リチャードたちを反逆罪に問う為、レスターの大評議会に向かったが、途中のセント・オールバンズ付近でヨーク公軍と交戦する。セント・オールバンズの戦いに於いてサマセット公は戦死し、国王軍は大敗した。戦後、サマセット公を支持していたランカスター派の指導者たちは処刑されると、ヘンリー6世は再び精神錯乱に陥った為、ヨーク公が護国卿に返り咲いた。
・ジャンヌ・ダルク復権裁判
1456年、フランス王シャルル7世はジャンヌの名誉回復を図るため、ジャンヌ・ダルク復権裁判を開き、翌57年にはジャンヌの有罪判決の無効が宣言された。
・イングランド北部の領土問題勃発/フランス海軍の略奪
1456年、ヘンリー6世が回復すると、2月にヨーク公は護国卿を解任し、サマセット公ヘンリー・ボーフォートを寵愛した。マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた。また、イングランド北部ではネヴィル家とパーシー家が領土問題を起こし、南部海岸では、フランス海軍による海賊行為が増加していたが、ヘンリー6世は何もしなかった。
・アテネ公国の滅亡/オスマン帝国に併合
1456年、オスマン帝国のメフメト2世によってアテネ公国は征服された。しかし、その後もアラゴン王国内において「アテネ・ネオパトラス公」の称号は使われ続けている。
・ヴラド3世(ドラキラ伯爵のモデル)のワラキア公位回復
1456年、ヴラド3世からワラキア公位を奪ったヴラディスラフ2世がオスマン迎合政策を取り始めると、ハンガリー王国摂政兼トランシルヴァニア侯・フニャディ・ヤーノシュのフニャディの不興を買い、トランシルヴァニア内のワラキア公伝来の所領であったアムラシュ及びファガラシュを没収され、ヴラド3世に与えられた。これより、ヴラディスラフ2世はヴラド3世の暗殺を謀ったが失敗する。8月、フニャディの支援を受けたヴラド3世軍にヴラディスラフ2世は敗北して戦死すると、ワラキア公にヴラド3世が返り咲いた。その後、ヴラド3世はハンガリーと対オスマン同盟を結び、一方でオスマンに貢納金を払っていた。
翌57年には、シュテファン3世を支援して、モルダヴィア公に即位させた。
・フニャディ・ラースローの暗殺/ハンガリーの反乱
1456年、フニャディ・ヤーノシュが死去すると、ツェリェ伯ウルリク2世がハンガリー王国軍総司令官の職に就き、フニャディ・ヤーノシュが国庫から借り出して未払いのままになっているという借金の返済を息子・ラースローに迫ったが、ラースローは窮地をうまく切り抜けた。しかし、ツェリェ伯とハンガリー王ラディスラウスは、ラースローを自分たちの軍隊から追い出した。11月、ツェリェ伯がフニャディ家の者に暗殺されると、少年王ラディスラウスはフニャディ一家を庇護し、ラースローに王国軍総司令官の地位を与えた。
翌57年、ラースローは都市ブダでラディスラウスに対して謀反を企んだとして逮捕され、処刑された。これによって、ハンガリーで大規模な反乱を引き起こすことになり、国王はプラハに逃れ、11月にはプラハで国王ラディスラウスは病死した。
・ハンガリー王マーチャーシュ1世の誕生
1458年、ハンガリー王ラディスラウスが急死したことで、次男のマーチャーシュがハンガリー王に選出された。その後、オーストリア、ボヘミア方面に侵出し、ボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトからモラヴィアを奪い、後を継いだヴラジスラフとの戦いも有利に進め、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現する。
・黒羊朝の台頭/ティムール朝の混迷
1458年、黒羊朝のジャハーン・シャーは、ティムール朝のサマルカンド政権の支配者アブー・サイードと同盟を結び、ヘラート政権を破り、翌年にはペルシャを黒羊朝とティムール朝で東西に分割する。
・イングランド両派の和解/コヴェントリー評議会
1458春、カンタベリー大司教トマス・バウチャーは両派の和解を調停しようとし、大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、両派は一旦和解した。その後、カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった為、彼は査問のためにロンドンに召還するが、カレーに戻った。更に、ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集するが、拒絶された。
・アルバニア人の反乱/モレアス専制公国の内乱
1458年、コンスタンティノポリス陥落後、東ローマ系国家モレアス専制公国の共同統治者であるソマスとディミトリオスが対立し、やがて、ソマスはディミトリオスに宣戦布告した。その後、モレアス専制公国は混乱に陥り、国内の有力者やアルバニア人勢力の離反していった。
・オスマン帝国のセルビアの征服
1459年、オスマン帝国は後継者問題で揺れているセルビアにオスマン軍を派遣し、親オスマン派を支援し、反オスマン派を討つと、セルビアを手中に治め、翌年にはボスニア攻撃を開始した。
・ブロア・ヒースの戦い/薔薇戦争
1459年、ヨーク公はネヴィル一族をラドロー城に集結させたると、ソールズベリー伯がミッドランズ北東部のミドルハム城からミッドランズ南西部のラドロー城に向けて行進した。それを聞きつけたマーガレット王妃は、オードリー卿ジェームス・トゥチェットにそれを捕らえるよう命じるが、9月のブロア・ヒースの戦いで、ランカスター軍を率いていたオードリー卿が戦死すると、ランカスター軍の一部がヨーク軍に合流し、味方を攻撃し始めた為、ランカスター軍は敗北した。
・ラドフォード橋の戦い/薔薇戦争
1459年10月、ブロア・ヒースの戦い後、ヨーク派はウスターに向かって進軍した。途中でヘンリー6世指揮する強大なランカスター軍に遭遇すると、すぐに拠点のあったシュロップシャーのラドフォード橋まで撤退した。その後、ヨーク派のアンドリューが離反して、ランカスター派に寝返ると、ヨーク公及びウォリック伯とソールズベリー伯は夜逃げし、ラドフォード橋の戦いに於いて、ヨーク派の居城ラドローを奪われた。
・ヴラディスラフ2世の息子・ダン3世のワキア攻撃/ヴラド3世のトランシルヴァニア遠征
1460年、ヴラディスラフ2世の息子・ダン3世がトランシルヴァニアで挙兵し、ワラキアを襲撃したが、ヴラド3世はこれを打ち破ると、ダン3世に加担したブラショヴに制裁を加えるためトランシルヴァニアに侵攻し、ブラショヴに賠償金の支払いや、ワラキアがオスマン帝国やモルダヴィアから攻撃された際には援軍を送ること等ヴラド3世に有利な条項を含んだ平和協約を締結した。
・ノーサンプトンの戦い/ウェイクフィールドの戦い/薔薇戦争
1460年、ランカスター派がヨーク派逃走の機を捉え、議会を招集して彼らを私権剥奪に処して徹底的に弾劾、官職を取り上げて別人を任命して討伐隊を派遣した。ウィルトシャ―伯ジェームズ・バトラーをアイルランド総督に、サマセット公ヘンリー・ボーフォートをカレー総督に任命し、ヨーク派一掃を開始した。しかし、ヨーク派のウォリック伯軍によりサンドウィッチにあった艦隊が撃破された。
6月、国王ヘンリー6世と王妃マーガレットがロンドン北西のコヴェントリーにいるすきを見て、ウォリック伯・ソールズベリー伯・マーチ伯はロンドンに入った。
7月、ノーサンプトンの戦いでヨーク派はランカスター派を破り、ヘンリー6世を捉えたが、マーガレット王妃はウェールズに逃れた。
12月、マーガレット王妃は王太子エドワードを擁立し、ヨーク公を討つべく兵を集結させると、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯は、これを討つためにウェイクフィールド近郊のサンダル城に入ったが、マーガレット王妃軍に囲まれると、ウェイクフィールドの戦いに臨み、マーガレット王妃が率いるランカスター軍軍に大敗した。この戦いで、ヨーク公と17歳の次男のラトランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された。
・オスマン帝国のペロポニソス半島征服/モレアス専制公国の消滅
1460年5月、メフメト2世のオスマン帝国軍はペロポニソス半島全土の併合に乗り出し、モレアス専制公国の共同統治者・ディミトリオスを拘束すると、もう一人の統治者で兄のソマスは抵抗を諦めてヴェネツィア船でケルキラ島に脱出した。夏までには半島全土がオスマン朝の領土に加えられた。その後、イタリア・ローマに渡り、ペロポニソス半島奪回の為の十字軍の結成を訴えたが、65年にバチカンで病死した。
・アラゴン王フアン2世の父子対立
1460年、フアン2世はナバラ王位を巡って争った(ナバーラ内戦)長男ビアナ公カルロスを許して釈放するが、カルロスがカスティーリャと内通していた事を知ると、再び彼を投獄した。翌61年、アラゴン連合王国のカタルーニャがフアン2世の横暴に反発し、アラゴン王フアン2世にカルロスの釈放を要求すると、カルロスは釈放されたが、まもなく死去した。その為、幼い我が子・フェルナンドをアラゴンの王太子にした。
・アブー・サイードの再統一/ティムール朝
1461年、ティムール朝の第7代君主アブー・サイードはアフガニスタンの大部分を征服し、ウルグ・ベク以来サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール朝を再統合を成し遂げた。
・フランス王ルイ11世の誕生
1461年、シャルル7世は息子ルイ11世との対立に苦しみながら、崩御した。その後、フランス統一を目論むルイ11世がフランス王に即位し、近隣の大諸侯の権力を減殺する事に余念が無かった。翌62年、アラゴン王フアン2世を支援した事でルシヨンとセルダーニュを割譲された。
・モーティマーズ・クロスの戦い/薔薇戦争
1461年、父ヨーク公リチャードが戦死すると、息子のエドワードがヨーク公に即位した。2月、モーティマーズ・クロスの戦いで、マーガレット王妃の主流軍に合流しょうとするペンブルック伯ジャスパー・テューダーとウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーを攻撃して倒し、オウエン・テューダーを処刑した。
・第二次セント・オールバンズの戦い/薔薇戦争
1461年2月、マーガレット王妃率いるランカスター本体軍は南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指してロンドンへ南下していると、セント・オールバンズ付近でウォリック伯リチャード・ネヴィルのヨーク軍と交戦した。第二次セント・オールバンズの戦いに勝利したランカスター軍は、ヨーク軍が置き去りにしたヘンリー6世を奪還すると、捕えたモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルを処刑した。一方、ウォリック伯はマーチ伯エドワードとの合流を図り西へ退却した。勝利したランカスター軍は兵に略奪を許したために民衆の信望を失い、ロンドン入城を拒まれてしまう。その隙きに、ヨーク派のエドワードがロンドンに入城し、3月にイングランド国王に即位し、ランカスター派のヘンリー6世を廃位した。
これより、ヨーク派によるランカスター派の掃討作戦が開始される。
・フェリブリッジの戦い=タウトンの戦い/薔薇戦争
1461年3月27日、ヨーク派のイングランド国王エドワード4世は兵を集結させて、ヨークシャーのフェリブリッジへ進軍した。先に乗り込んだウォリック伯軍は、エア川のランカスター派の拠点を陥落させる為、フェリブリッジの戦いを繰り広げた。ウォリック伯はエア川に橋を架け、対岸に進軍すると、クリフォード卿とネヴィル卿が率いるランカスター派軍の奇襲を受け、大きな損害を被ったが、翌日には対岸に渡った。29日、エドワード4世のヨーク派主力軍が到着すると、ランカスター軍を蹴散らし、サマセット公が率いるランカスターの主力部隊と、タウトンの戦いを繰り広げ、大勝利を収めた。破れた王妃マーガレットとヘンリー6世、サマセット公はスコットランドに逃げた。
・トレビゾンド帝国の滅亡
1461年、白羊朝とオスマン帝国との不戦条約の締結されると、白羊朝の同盟国で有ったトレビゾンド帝国がオスマン帝国によって滅ぼされ、皇帝ダヴィドは63年に3人の息子とともに斬首された。
・トゥルゴヴィシュテの戦い/オスマン帝国の敗北
1461年、ワラキア公ヴラド3世は、オスマンへの貢納金の引き上げを機に、オスマン帝国から独立しようとすると、メフメト2世は大軍を率いてワラキア遠征をした。翌62年、トゥルゴヴィシュテの戦いで、メフメトの首を狙って、ヴラド3世は激しい夜襲を掛け、オスマン帝国軍とブルガリア兵を2万人を串刺しにして殺害すると、メフメト2世はワラキアから撤退せざる負えなくなった。
・カタルーニャの反乱と対立王との抗争(1462年-1472年)
1462年、カタルーニャはフアナ・エンリケスとフェルナンド王子が滞在していたジローナを包囲すると、アラゴン王フアン2世はフランス王ルイ11世の支援を求め、二人を救出したが、これにより、フランス、カスティーリャ、ポルトガルの介入も招き、対立王が3人も擁立される事態と成り、内戦が10年も続いた。
一人目はカスティーリャ王エンリケ4世(1462年 - 1463年)、二人目はアラゴン王ペドロ5世(1463年 - 1466年)、3人目はアンジュー公ルネ・ダンジュー(1466年 - 1472年)と戦ってフアン2世は勝利し、カタルーニャの反乱を終息させた。
・ヴラド3世の幽閉/ワラキアの継承問題
1462年、ヴラド3世に破れたオスマンのメフメト2世はヴラド3世の弟・ラドゥ美男公に内乱を起こさせ、ヴラド3世をトランシルヴァニアへ追いやった。その後、ヴラド3世はハンガリー王マーチャーシュ1世にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となる。
10月、ラドゥはワラキア公に即位すると、オスマンは自国に友好的なラドゥが治めるワラキアの貢納金を減額した。その後、ワラキア公ラドゥはハンガリー王マーチャーシュ1世にも、臣下として奉仕することを誓約することによってワラキアの安全を図った。
・ボスニア王国の滅亡/オスマン・ボスニア戦争
1463年、オスマン皇帝メフメト2世はボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され、ボスニア王スティエパン・トマシェヴィチが処刑され、ボスニア王国は消滅した。
・ウィーンの暴動/アルブレヒト6世の暗殺
1463年、ローマ皇帝フリードリヒ3世が不在の間、弟アルブレヒト6世大公はウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせ、皇后エレノオーレと、息子のマクシミリアンを幽閉した。その後、フリードリヒ3世は屈辱的な内容の講和をアルプレヒトと取り交わすが、アルブレヒト6世が暗殺された為、ウィーン市民と和解したフリードリヒ3世はウィーンに帰還した。
・ヘッジレイ・ムーアの戦い/薔薇戦争
1464年4月、ヨーク派のウォリック伯の弟・モンターギュ卿はニューカースルでのスコットランドの外交使節との会合に出席するために北進している途中、サマセット公が率いるランカスター軍と、ヘッジレイ・ムーアの戦いを繰り広げ、ランカスター軍を打ち破った。
・ヘクサムの戦い/薔薇戦争
1464年5月、ヘッジレイ・ムーアの戦後、ヨーク派はスコットランドが和平を結ぶと、ランカスター派の北部基地は、ヨーク派に脅かされ始める。イングランド王エドワード4世は、レスターに軍を集結させ、北進を開始した。その後、ノーサンバーランドのヘクサムの戦いで、サマセット公が率いるランカスター軍を打ち破り、サマセット公は捕えられて処刑された。再びヘンリー6世はウォリック伯によって、ロンドン塔に幽閉された。一方、マーガレット王妃はフランスへ逃亡した。
・オスマン帝国に対する十字軍の中止
1464年、ローマ教皇ピウス2世はオスマン帝国に対する十字軍遠征を神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を始め、ヨーロッパ諸侯に呼びかけ、十字軍の出発地として決定されたアンコーナに赴くと、急死したため、十字軍遠征は中止に成った。
・オスマン帝国のカラマン征服
1464年、オスマン皇帝メフメト2世はカラマン侯国で起きた後継者争いに介入し、領土の割譲を条件にピール・アフメド・ベイを支援し、66年にはカラマン侯国のコンヤ、カラマンを略奪する。
・エドワード4世VSウォリック伯
1464年、ウォリック伯リチャードはイングランド王エドワード4世と、フランス国王ルイ11世の義理の妹・ボナとの縁談を進めたが、エドワード4世は既に結婚していた為、この縁談は破断に成り、フランスを欺いた事に成った。やがて、怒りを覚えたウォリック伯リチャードは宮廷から遠ざかり、反乱を企てる。また、ウォリック伯リチャードの弟・モンターギュ卿ジョンはノーサンバランド伯に叙された。
・モルドヴァ公のキリア奪還
1465年、モルドヴァ公シュテファン3世はワキア公ラドゥ3世から、ドナウ河口の要衝・キリアを奪還した。
・ロレーヌ公ジャン2世のイベリア遠征
1466年、息子のニコラとルイ11世の娘アンヌ・ド・ボージューの婚約を機に、カタルーニャの支援でイベリア半島に向かい、アラゴン王フアン2世と戦ってジャン2世は敗北した。
・オスマン帝国VS白羊朝
1466年、オスマン軍に領土を奪われたベイリク国家のカラマンのピール・アフメドは白羊朝のウズン・ハサンに庇護を求めた為、オスマン帝国と白羊朝の関係が悪化し始めた。
・アストラハン・ハン国(1466-1556年)の建国
1466年、ノガイ・オルダの支援するティムール・クトルクの後裔・カシム・ハンはヴォルガ川右岸のアストラハンにアストラハン・ハン国を建国した。この頃、ムーサーが支配していたノガイ・オルダも全盛期を迎えていた。
・バイアの戦い
1467年、モルドヴァ公シュテファン3世は、バイアの戦いで、父を暗殺した叔父のペトル・アロンを捉え、2年後に処刑した。
・ブルゴーニュ公シャルルの台頭/公益同盟
1467年、父・フィリップ3世が死去すると、三男・シャルルがブルゴーニュ公に即位した。翌68年には、イングランド王エドワード4世の妹マーガレットを3番目の妻として迎え、フランスの統一を図るルイ11世に対抗する為、ブルゴーニュを中心とした公益同盟を築き、エージュ司教領・ネーデルラントの支配権を握り、フランス王ルイ11世と戦った。
・黒羊朝の白羊朝討伐/黒羊朝の滅亡
1467年、黒羊朝のジャハーン・シャーは、黒羊朝の従属国である白羊朝のウズン・ハサンが勢力拡大を図ると、ウズン・ハサンを討つために西に進軍したが、黒羊朝のジャハーン・シャーは白羊朝にムシュで奇襲をかけられ殺害され、やがて黒羊朝は白羊朝に併合された。
・カザン・ハン国(ヴォルガ川中流域)の内乱
1468年、マフムーデクの次男・イブラーヒームがカザン・ハン国の第3代君主に即位すると、モスクワ大公国と戦闘を開始し、ヴャトカを従属させた。その後、イブラーヒームの子のアドハムとムハンマド・エミーンがカザン・ハン位を巡って争いを起こし、アドハムがハン位を勝ち取った。
・アラゴン皇太子のシチリア王即位
1468年、アラゴン皇太子フェルナンドはシチリア王に即位し、フェルディナンド2世となった。翌69年、カスティーリャ王女イサベルと結婚した。
・ハーレフ城の包囲戦/薔薇戦争
1468年、唯一残っていたランカスター派の拠点であるウェールズのハーレフ城をイングランド王エドワード4世は包囲して陥落させた。これにより、ランカスター派は全滅する。
・カザフ・ハン国の建国/ウズベク・ハン国の分裂
1468年、アブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベク・ハン国は分裂状態に陥り、その多くはモグーリスタン辺境のカザフのもとへ流れ、翌69年にケレイ,ジャーニー・ベクの両ハンを君主とあおいでカザフ・ハン国を建国した。一方で、アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。
・白羊朝のイラン高原支配
1469年、ジャハーン・シャーの息子たちは、ティムール朝の君主アブー・サイードに救いを求めると、再び白羊朝のウズン・ハサンに戦いを挑むが、再び敗北して、ティムール朝のアブー・サイードは政敵ヤードガール・ムハンマドに引き渡されて処刑された。その後、白羊朝はイラン高原西部を支配下に収めた。
・ティムール朝の分立時代
1469年、ティムール朝の君主アブー・サイードの処刑後、息子のアフマドがサマルカンドとその周辺を支配するサマルカンド政権を樹立し、ヘラートをはじめとする地域はフサイン・バイカラが占領していた。
・エッジコート・ムーアの戦い/薔薇戦争
1469年、ランカスター派に成ったウォリック伯はスパイを使って、エドワード4世が私生児である噂を流すと、クラレンス公ジョージがヨーク家の正当な後継者であるとして、ウィリアム・コンヤーズ卿が反乱を起こした。そのため、イングランド王ドワード4世は討伐隊を派遣するが失敗し、ノッティンガムで、新たに援軍を待った。
7月、ウォリック伯とクラレンス公は反乱軍に対する支援を表明し、ウォリック伯は軍を率いてロンドンを発ち、26日のエッジコート・ムーアの戦いで国王軍を破り、エドワード4世はミドルハム城に幽閉し、エリザベスの父リヴァーズ伯と弟ジョンを処刑した。その後、エドワード4世とウォリック伯は和解し、エドワード4世を開放した。
・チロル領主ジギスムント大公の策略
1469年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の従弟でチロル領主ジギスムントはシャルル突進公と共にスイスの拡大を防ぐため、アルザスにある自分の領地を抵当としてブルゴーニュ公シャルルに譲渡したが、ブルゴーニュ公はスイス攻撃せず、バーゼルやストラスブール、ミュルーズなどの都市に対抗して、通商の禁止令を出すと、アルザスはベルンに救援を求めた。
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ヨーロッパ人がアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われた。その背景として、オスマン帝国に地中海の制海権を握られていた為、ヨーロッパ諸国が地中海以外の新たな交易ルートの開拓せざる負えなくなる。つまり、重商主義。また、百年戦争後、イングランドの薔薇戦争が起きた。また、東ローマ帝国の滅亡前後には、多くの知識人がイタリアへ亡命し、その携えた古典の文献がイタリアに伝えられて、イタリアでルネサンス運動が起きる
中世の封建社会では、領主が農奴を使役して経営する私有地(荘園)で、自給自足を営んでいた。いわゆる、閉鎖的経済であった。
やがて、農業が三圃式農業から三圃式農業に変わると、生産性が向上し、余剰生産物の貨幣化が進み、貨幣経済が興り、それにより農民の自立と荘園への貨幣地代の導入され、荘園制とそれを支えていた農奴/農奴制が崩壊して行く、また人口増加により十字軍運動が起こると、それに伴って商業ルネサンスが興り始め、イスラム国家のオスマン帝国が地中海に勢力を伸ばすと、大航海時代が到来する。
・アブー・サイードの台頭/ティムール朝
1453年、ティムール朝のサマルカンド政権の支配者アブドゥッラーにアブー・サイードが反旗を翻し、新たなサマルカンド政権の支配者になると、ヘラート政権への進撃を開始する。
・白羊朝の台頭
1453年、黒羊朝とティムール朝がアゼルバイジャンおよびイラン西部の支配を巡って争っているすきに、黒羊朝の従属国である白羊朝のウズン・ハサンは勢力を伸ばし、更にアナトリア北部のトレビゾンド皇帝ヨハネス4世の娘を娶り、トレビゾンド帝国と同盟を結び、オスマン帝国から独立した。
・ベオグラード包囲の失敗/オスマン帝国
1454年、オスマン皇帝メフメト2世はセルビア公ジュラジに割譲した領土の返還を求めた。しかし、ジュラジに拒否された為、翌55年にオスマン帝国はセルビアの首都ベオグラード遠征に乗り出し、56年にはメフメトが率いるオスマン軍がベオグラードの包囲を開始した。しかし、ドナウ川に浮かぶオスマン軍の艦船はドミニコ会修道士カピストラヌスが率いる民衆の攻撃を受けて壊滅し、ベオグラード市内に突入したオスマン軍はハンガリーのフニャディ・ヤーノシュの反撃を受けて惨敗し、エディルネに帰還した。その直後、フニャディはペストに罹り、死亡した。
・十三年戦争(1454-1466年)
1454年、ドイツ騎士団から独立を得るための、プロシア諸都市と地方貴族の反乱として始まった。プロシア連合は、ポーランド王カジミェシュ4世に助力を請い、プロシアをポーランド王国に取り込むと申し出た。国王がそれを承諾すると、戦争はプロシア連合が支援するポーランドとドイツ騎士団の支援者との間で起こった。1466年、プロシア連合側の勝利に終わった。
・イングランド王の精神錯乱/ヨーク公の台頭
1454年、カスティヨンの戦いの敗北後、イングランド王ヘンリー6世が精神錯乱に陥った為、枢密院は王妃マーガレットの願いを退け、ヨーク公リチャードを護国卿に任命した。その後、ヨーク公は政敵のサマセット公はロンドン塔に投獄し、政権を牛耳った。
薔薇戦争/イングランドの勃発(1455-1485年)
・セント・オールバンズの戦い/薔薇戦争
1455年、ヘンリー6世が回復すると、ヨーク公リチャードの施策を覆した。ロンドン塔に幽閉されたサマセット公を開放し、ヨーク公から護国卿の地位を没収した。5月、ヘンリー6世はヨーク公リチャードたちを反逆罪に問う為、レスターの大評議会に向かったが、途中のセント・オールバンズ付近でヨーク公軍と交戦する。セント・オールバンズの戦いに於いてサマセット公は戦死し、国王軍は大敗した。戦後、サマセット公を支持していたランカスター派の指導者たちは処刑されると、ヘンリー6世は再び精神錯乱に陥った為、ヨーク公が護国卿に返り咲いた。
・ジャンヌ・ダルク復権裁判
1456年、フランス王シャルル7世はジャンヌの名誉回復を図るため、ジャンヌ・ダルク復権裁判を開き、翌57年にはジャンヌの有罪判決の無効が宣言された。
・イングランド北部の領土問題勃発/フランス海軍の略奪
1456年、ヘンリー6世が回復すると、2月にヨーク公は護国卿を解任し、サマセット公ヘンリー・ボーフォートを寵愛した。マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた。また、イングランド北部ではネヴィル家とパーシー家が領土問題を起こし、南部海岸では、フランス海軍による海賊行為が増加していたが、ヘンリー6世は何もしなかった。
・アテネ公国の滅亡/オスマン帝国に併合
1456年、オスマン帝国のメフメト2世によってアテネ公国は征服された。しかし、その後もアラゴン王国内において「アテネ・ネオパトラス公」の称号は使われ続けている。
・ヴラド3世(ドラキラ伯爵のモデル)のワラキア公位回復
1456年、ヴラド3世からワラキア公位を奪ったヴラディスラフ2世がオスマン迎合政策を取り始めると、ハンガリー王国摂政兼トランシルヴァニア侯・フニャディ・ヤーノシュのフニャディの不興を買い、トランシルヴァニア内のワラキア公伝来の所領であったアムラシュ及びファガラシュを没収され、ヴラド3世に与えられた。これより、ヴラディスラフ2世はヴラド3世の暗殺を謀ったが失敗する。8月、フニャディの支援を受けたヴラド3世軍にヴラディスラフ2世は敗北して戦死すると、ワラキア公にヴラド3世が返り咲いた。その後、ヴラド3世はハンガリーと対オスマン同盟を結び、一方でオスマンに貢納金を払っていた。
翌57年には、シュテファン3世を支援して、モルダヴィア公に即位させた。
・フニャディ・ラースローの暗殺/ハンガリーの反乱
1456年、フニャディ・ヤーノシュが死去すると、ツェリェ伯ウルリク2世がハンガリー王国軍総司令官の職に就き、フニャディ・ヤーノシュが国庫から借り出して未払いのままになっているという借金の返済を息子・ラースローに迫ったが、ラースローは窮地をうまく切り抜けた。しかし、ツェリェ伯とハンガリー王ラディスラウスは、ラースローを自分たちの軍隊から追い出した。11月、ツェリェ伯がフニャディ家の者に暗殺されると、少年王ラディスラウスはフニャディ一家を庇護し、ラースローに王国軍総司令官の地位を与えた。
翌57年、ラースローは都市ブダでラディスラウスに対して謀反を企んだとして逮捕され、処刑された。これによって、ハンガリーで大規模な反乱を引き起こすことになり、国王はプラハに逃れ、11月にはプラハで国王ラディスラウスは病死した。
・ハンガリー王マーチャーシュ1世の誕生
1458年、ハンガリー王ラディスラウスが急死したことで、次男のマーチャーシュがハンガリー王に選出された。その後、オーストリア、ボヘミア方面に侵出し、ボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトからモラヴィアを奪い、後を継いだヴラジスラフとの戦いも有利に進め、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現する。
・黒羊朝の台頭/ティムール朝の混迷
1458年、黒羊朝のジャハーン・シャーは、ティムール朝のサマルカンド政権の支配者アブー・サイードと同盟を結び、ヘラート政権を破り、翌年にはペルシャを黒羊朝とティムール朝で東西に分割する。
・イングランド両派の和解/コヴェントリー評議会
1458春、カンタベリー大司教トマス・バウチャーは両派の和解を調停しようとし、大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、両派は一旦和解した。その後、カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった為、彼は査問のためにロンドンに召還するが、カレーに戻った。更に、ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集するが、拒絶された。
・アルバニア人の反乱/モレアス専制公国の内乱
1458年、コンスタンティノポリス陥落後、東ローマ系国家モレアス専制公国の共同統治者であるソマスとディミトリオスが対立し、やがて、ソマスはディミトリオスに宣戦布告した。その後、モレアス専制公国は混乱に陥り、国内の有力者やアルバニア人勢力の離反していった。
・オスマン帝国のセルビアの征服
1459年、オスマン帝国は後継者問題で揺れているセルビアにオスマン軍を派遣し、親オスマン派を支援し、反オスマン派を討つと、セルビアを手中に治め、翌年にはボスニア攻撃を開始した。
・ブロア・ヒースの戦い/薔薇戦争
1459年、ヨーク公はネヴィル一族をラドロー城に集結させたると、ソールズベリー伯がミッドランズ北東部のミドルハム城からミッドランズ南西部のラドロー城に向けて行進した。それを聞きつけたマーガレット王妃は、オードリー卿ジェームス・トゥチェットにそれを捕らえるよう命じるが、9月のブロア・ヒースの戦いで、ランカスター軍を率いていたオードリー卿が戦死すると、ランカスター軍の一部がヨーク軍に合流し、味方を攻撃し始めた為、ランカスター軍は敗北した。
・ラドフォード橋の戦い/薔薇戦争
1459年10月、ブロア・ヒースの戦い後、ヨーク派はウスターに向かって進軍した。途中でヘンリー6世指揮する強大なランカスター軍に遭遇すると、すぐに拠点のあったシュロップシャーのラドフォード橋まで撤退した。その後、ヨーク派のアンドリューが離反して、ランカスター派に寝返ると、ヨーク公及びウォリック伯とソールズベリー伯は夜逃げし、ラドフォード橋の戦いに於いて、ヨーク派の居城ラドローを奪われた。
・ヴラディスラフ2世の息子・ダン3世のワキア攻撃/ヴラド3世のトランシルヴァニア遠征
1460年、ヴラディスラフ2世の息子・ダン3世がトランシルヴァニアで挙兵し、ワラキアを襲撃したが、ヴラド3世はこれを打ち破ると、ダン3世に加担したブラショヴに制裁を加えるためトランシルヴァニアに侵攻し、ブラショヴに賠償金の支払いや、ワラキアがオスマン帝国やモルダヴィアから攻撃された際には援軍を送ること等ヴラド3世に有利な条項を含んだ平和協約を締結した。
・ノーサンプトンの戦い/ウェイクフィールドの戦い/薔薇戦争
1460年、ランカスター派がヨーク派逃走の機を捉え、議会を招集して彼らを私権剥奪に処して徹底的に弾劾、官職を取り上げて別人を任命して討伐隊を派遣した。ウィルトシャ―伯ジェームズ・バトラーをアイルランド総督に、サマセット公ヘンリー・ボーフォートをカレー総督に任命し、ヨーク派一掃を開始した。しかし、ヨーク派のウォリック伯軍によりサンドウィッチにあった艦隊が撃破された。
6月、国王ヘンリー6世と王妃マーガレットがロンドン北西のコヴェントリーにいるすきを見て、ウォリック伯・ソールズベリー伯・マーチ伯はロンドンに入った。
7月、ノーサンプトンの戦いでヨーク派はランカスター派を破り、ヘンリー6世を捉えたが、マーガレット王妃はウェールズに逃れた。
12月、マーガレット王妃は王太子エドワードを擁立し、ヨーク公を討つべく兵を集結させると、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯は、これを討つためにウェイクフィールド近郊のサンダル城に入ったが、マーガレット王妃軍に囲まれると、ウェイクフィールドの戦いに臨み、マーガレット王妃が率いるランカスター軍軍に大敗した。この戦いで、ヨーク公と17歳の次男のラトランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された。
・オスマン帝国のペロポニソス半島征服/モレアス専制公国の消滅
1460年5月、メフメト2世のオスマン帝国軍はペロポニソス半島全土の併合に乗り出し、モレアス専制公国の共同統治者・ディミトリオスを拘束すると、もう一人の統治者で兄のソマスは抵抗を諦めてヴェネツィア船でケルキラ島に脱出した。夏までには半島全土がオスマン朝の領土に加えられた。その後、イタリア・ローマに渡り、ペロポニソス半島奪回の為の十字軍の結成を訴えたが、65年にバチカンで病死した。
・アラゴン王フアン2世の父子対立
1460年、フアン2世はナバラ王位を巡って争った(ナバーラ内戦)長男ビアナ公カルロスを許して釈放するが、カルロスがカスティーリャと内通していた事を知ると、再び彼を投獄した。翌61年、アラゴン連合王国のカタルーニャがフアン2世の横暴に反発し、アラゴン王フアン2世にカルロスの釈放を要求すると、カルロスは釈放されたが、まもなく死去した。その為、幼い我が子・フェルナンドをアラゴンの王太子にした。
・アブー・サイードの再統一/ティムール朝
1461年、ティムール朝の第7代君主アブー・サイードはアフガニスタンの大部分を征服し、ウルグ・ベク以来サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール朝を再統合を成し遂げた。
・フランス王ルイ11世の誕生
1461年、シャルル7世は息子ルイ11世との対立に苦しみながら、崩御した。その後、フランス統一を目論むルイ11世がフランス王に即位し、近隣の大諸侯の権力を減殺する事に余念が無かった。翌62年、アラゴン王フアン2世を支援した事でルシヨンとセルダーニュを割譲された。
・モーティマーズ・クロスの戦い/薔薇戦争
1461年、父ヨーク公リチャードが戦死すると、息子のエドワードがヨーク公に即位した。2月、モーティマーズ・クロスの戦いで、マーガレット王妃の主流軍に合流しょうとするペンブルック伯ジャスパー・テューダーとウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーを攻撃して倒し、オウエン・テューダーを処刑した。
・第二次セント・オールバンズの戦い/薔薇戦争
1461年2月、マーガレット王妃率いるランカスター本体軍は南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指してロンドンへ南下していると、セント・オールバンズ付近でウォリック伯リチャード・ネヴィルのヨーク軍と交戦した。第二次セント・オールバンズの戦いに勝利したランカスター軍は、ヨーク軍が置き去りにしたヘンリー6世を奪還すると、捕えたモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルを処刑した。一方、ウォリック伯はマーチ伯エドワードとの合流を図り西へ退却した。勝利したランカスター軍は兵に略奪を許したために民衆の信望を失い、ロンドン入城を拒まれてしまう。その隙きに、ヨーク派のエドワードがロンドンに入城し、3月にイングランド国王に即位し、ランカスター派のヘンリー6世を廃位した。
これより、ヨーク派によるランカスター派の掃討作戦が開始される。
・フェリブリッジの戦い=タウトンの戦い/薔薇戦争
1461年3月27日、ヨーク派のイングランド国王エドワード4世は兵を集結させて、ヨークシャーのフェリブリッジへ進軍した。先に乗り込んだウォリック伯軍は、エア川のランカスター派の拠点を陥落させる為、フェリブリッジの戦いを繰り広げた。ウォリック伯はエア川に橋を架け、対岸に進軍すると、クリフォード卿とネヴィル卿が率いるランカスター派軍の奇襲を受け、大きな損害を被ったが、翌日には対岸に渡った。29日、エドワード4世のヨーク派主力軍が到着すると、ランカスター軍を蹴散らし、サマセット公が率いるランカスターの主力部隊と、タウトンの戦いを繰り広げ、大勝利を収めた。破れた王妃マーガレットとヘンリー6世、サマセット公はスコットランドに逃げた。
・トレビゾンド帝国の滅亡
1461年、白羊朝とオスマン帝国との不戦条約の締結されると、白羊朝の同盟国で有ったトレビゾンド帝国がオスマン帝国によって滅ぼされ、皇帝ダヴィドは63年に3人の息子とともに斬首された。
・トゥルゴヴィシュテの戦い/オスマン帝国の敗北
1461年、ワラキア公ヴラド3世は、オスマンへの貢納金の引き上げを機に、オスマン帝国から独立しようとすると、メフメト2世は大軍を率いてワラキア遠征をした。翌62年、トゥルゴヴィシュテの戦いで、メフメトの首を狙って、ヴラド3世は激しい夜襲を掛け、オスマン帝国軍とブルガリア兵を2万人を串刺しにして殺害すると、メフメト2世はワラキアから撤退せざる負えなくなった。
・カタルーニャの反乱と対立王との抗争(1462年-1472年)
1462年、カタルーニャはフアナ・エンリケスとフェルナンド王子が滞在していたジローナを包囲すると、アラゴン王フアン2世はフランス王ルイ11世の支援を求め、二人を救出したが、これにより、フランス、カスティーリャ、ポルトガルの介入も招き、対立王が3人も擁立される事態と成り、内戦が10年も続いた。
一人目はカスティーリャ王エンリケ4世(1462年 - 1463年)、二人目はアラゴン王ペドロ5世(1463年 - 1466年)、3人目はアンジュー公ルネ・ダンジュー(1466年 - 1472年)と戦ってフアン2世は勝利し、カタルーニャの反乱を終息させた。
・ヴラド3世の幽閉/ワラキアの継承問題
1462年、ヴラド3世に破れたオスマンのメフメト2世はヴラド3世の弟・ラドゥ美男公に内乱を起こさせ、ヴラド3世をトランシルヴァニアへ追いやった。その後、ヴラド3世はハンガリー王マーチャーシュ1世にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となる。
10月、ラドゥはワラキア公に即位すると、オスマンは自国に友好的なラドゥが治めるワラキアの貢納金を減額した。その後、ワラキア公ラドゥはハンガリー王マーチャーシュ1世にも、臣下として奉仕することを誓約することによってワラキアの安全を図った。
・ボスニア王国の滅亡/オスマン・ボスニア戦争
1463年、オスマン皇帝メフメト2世はボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され、ボスニア王スティエパン・トマシェヴィチが処刑され、ボスニア王国は消滅した。
・ウィーンの暴動/アルブレヒト6世の暗殺
1463年、ローマ皇帝フリードリヒ3世が不在の間、弟アルブレヒト6世大公はウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせ、皇后エレノオーレと、息子のマクシミリアンを幽閉した。その後、フリードリヒ3世は屈辱的な内容の講和をアルプレヒトと取り交わすが、アルブレヒト6世が暗殺された為、ウィーン市民と和解したフリードリヒ3世はウィーンに帰還した。
・ヘッジレイ・ムーアの戦い/薔薇戦争
1464年4月、ヨーク派のウォリック伯の弟・モンターギュ卿はニューカースルでのスコットランドの外交使節との会合に出席するために北進している途中、サマセット公が率いるランカスター軍と、ヘッジレイ・ムーアの戦いを繰り広げ、ランカスター軍を打ち破った。
・ヘクサムの戦い/薔薇戦争
1464年5月、ヘッジレイ・ムーアの戦後、ヨーク派はスコットランドが和平を結ぶと、ランカスター派の北部基地は、ヨーク派に脅かされ始める。イングランド王エドワード4世は、レスターに軍を集結させ、北進を開始した。その後、ノーサンバーランドのヘクサムの戦いで、サマセット公が率いるランカスター軍を打ち破り、サマセット公は捕えられて処刑された。再びヘンリー6世はウォリック伯によって、ロンドン塔に幽閉された。一方、マーガレット王妃はフランスへ逃亡した。
・オスマン帝国に対する十字軍の中止
1464年、ローマ教皇ピウス2世はオスマン帝国に対する十字軍遠征を神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を始め、ヨーロッパ諸侯に呼びかけ、十字軍の出発地として決定されたアンコーナに赴くと、急死したため、十字軍遠征は中止に成った。
・オスマン帝国のカラマン征服
1464年、オスマン皇帝メフメト2世はカラマン侯国で起きた後継者争いに介入し、領土の割譲を条件にピール・アフメド・ベイを支援し、66年にはカラマン侯国のコンヤ、カラマンを略奪する。
・エドワード4世VSウォリック伯
1464年、ウォリック伯リチャードはイングランド王エドワード4世と、フランス国王ルイ11世の義理の妹・ボナとの縁談を進めたが、エドワード4世は既に結婚していた為、この縁談は破断に成り、フランスを欺いた事に成った。やがて、怒りを覚えたウォリック伯リチャードは宮廷から遠ざかり、反乱を企てる。また、ウォリック伯リチャードの弟・モンターギュ卿ジョンはノーサンバランド伯に叙された。
・モルドヴァ公のキリア奪還
1465年、モルドヴァ公シュテファン3世はワキア公ラドゥ3世から、ドナウ河口の要衝・キリアを奪還した。
・ロレーヌ公ジャン2世のイベリア遠征
1466年、息子のニコラとルイ11世の娘アンヌ・ド・ボージューの婚約を機に、カタルーニャの支援でイベリア半島に向かい、アラゴン王フアン2世と戦ってジャン2世は敗北した。
・オスマン帝国VS白羊朝
1466年、オスマン軍に領土を奪われたベイリク国家のカラマンのピール・アフメドは白羊朝のウズン・ハサンに庇護を求めた為、オスマン帝国と白羊朝の関係が悪化し始めた。
・アストラハン・ハン国(1466-1556年)の建国
1466年、ノガイ・オルダの支援するティムール・クトルクの後裔・カシム・ハンはヴォルガ川右岸のアストラハンにアストラハン・ハン国を建国した。この頃、ムーサーが支配していたノガイ・オルダも全盛期を迎えていた。
・バイアの戦い
1467年、モルドヴァ公シュテファン3世は、バイアの戦いで、父を暗殺した叔父のペトル・アロンを捉え、2年後に処刑した。
・ブルゴーニュ公シャルルの台頭/公益同盟
1467年、父・フィリップ3世が死去すると、三男・シャルルがブルゴーニュ公に即位した。翌68年には、イングランド王エドワード4世の妹マーガレットを3番目の妻として迎え、フランスの統一を図るルイ11世に対抗する為、ブルゴーニュを中心とした公益同盟を築き、エージュ司教領・ネーデルラントの支配権を握り、フランス王ルイ11世と戦った。
・黒羊朝の白羊朝討伐/黒羊朝の滅亡
1467年、黒羊朝のジャハーン・シャーは、黒羊朝の従属国である白羊朝のウズン・ハサンが勢力拡大を図ると、ウズン・ハサンを討つために西に進軍したが、黒羊朝のジャハーン・シャーは白羊朝にムシュで奇襲をかけられ殺害され、やがて黒羊朝は白羊朝に併合された。
・カザン・ハン国(ヴォルガ川中流域)の内乱
1468年、マフムーデクの次男・イブラーヒームがカザン・ハン国の第3代君主に即位すると、モスクワ大公国と戦闘を開始し、ヴャトカを従属させた。その後、イブラーヒームの子のアドハムとムハンマド・エミーンがカザン・ハン位を巡って争いを起こし、アドハムがハン位を勝ち取った。
・アラゴン皇太子のシチリア王即位
1468年、アラゴン皇太子フェルナンドはシチリア王に即位し、フェルディナンド2世となった。翌69年、カスティーリャ王女イサベルと結婚した。
・ハーレフ城の包囲戦/薔薇戦争
1468年、唯一残っていたランカスター派の拠点であるウェールズのハーレフ城をイングランド王エドワード4世は包囲して陥落させた。これにより、ランカスター派は全滅する。
・カザフ・ハン国の建国/ウズベク・ハン国の分裂
1468年、アブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベク・ハン国は分裂状態に陥り、その多くはモグーリスタン辺境のカザフのもとへ流れ、翌69年にケレイ,ジャーニー・ベクの両ハンを君主とあおいでカザフ・ハン国を建国した。一方で、アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。
・白羊朝のイラン高原支配
1469年、ジャハーン・シャーの息子たちは、ティムール朝の君主アブー・サイードに救いを求めると、再び白羊朝のウズン・ハサンに戦いを挑むが、再び敗北して、ティムール朝のアブー・サイードは政敵ヤードガール・ムハンマドに引き渡されて処刑された。その後、白羊朝はイラン高原西部を支配下に収めた。
・ティムール朝の分立時代
1469年、ティムール朝の君主アブー・サイードの処刑後、息子のアフマドがサマルカンドとその周辺を支配するサマルカンド政権を樹立し、ヘラートをはじめとする地域はフサイン・バイカラが占領していた。
・エッジコート・ムーアの戦い/薔薇戦争
1469年、ランカスター派に成ったウォリック伯はスパイを使って、エドワード4世が私生児である噂を流すと、クラレンス公ジョージがヨーク家の正当な後継者であるとして、ウィリアム・コンヤーズ卿が反乱を起こした。そのため、イングランド王ドワード4世は討伐隊を派遣するが失敗し、ノッティンガムで、新たに援軍を待った。
7月、ウォリック伯とクラレンス公は反乱軍に対する支援を表明し、ウォリック伯は軍を率いてロンドンを発ち、26日のエッジコート・ムーアの戦いで国王軍を破り、エドワード4世はミドルハム城に幽閉し、エリザベスの父リヴァーズ伯と弟ジョンを処刑した。その後、エドワード4世とウォリック伯は和解し、エドワード4世を開放した。
・チロル領主ジギスムント大公の策略
1469年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の従弟でチロル領主ジギスムントはシャルル突進公と共にスイスの拡大を防ぐため、アルザスにある自分の領地を抵当としてブルゴーニュ公シャルルに譲渡したが、ブルゴーニュ公はスイス攻撃せず、バーゼルやストラスブール、ミュルーズなどの都市に対抗して、通商の禁止令を出すと、アルザスはベルンに救援を求めた。
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