掴んでいては離せない。
今の状態に固執している限り別の状態にはなれない。
別の自分になりたければ今の自分を手放すしかない。
ヨーガで創り出す深いリラックスは今の自分を手放すための技法。
今の自分を正確に掴みきり、手放す。
功徳に固執することはその今の自分の別のバージョンを創り出すことでしかない。
始まりがあって、中間があり、終わりがある。そして無限大。
別の自分になりたければ今の自分を手放さなければ。
今の状態に固執している限り別の状態にはなれない。
別の自分になりたければ今の自分を手放すしかない。
ヨーガで創り出す深いリラックスは今の自分を手放すための技法。
今の自分を正確に掴みきり、手放す。
功徳に固執することはその今の自分の別のバージョンを創り出すことでしかない。
始まりがあって、中間があり、終わりがある。そして無限大。
別の自分になりたければ今の自分を手放さなければ。
かないませんねw
つまり、目標をたてて、行動して
あとは任せるw
これはむずかしかったけれど
今は理解できるし納得いきますねw
筏のように、川を渡りきったら手放すのだということでしたが、
解脱に至る前に、その欲求を手放すのが正解なんですか?
解脱!解脱!う~!と力んでいるうちは、
解脱には至らないということなのですかね?
途中までは肯定されると思います。
が、それも程度の問題であまりにそのことにガチガチになって緊張し、周りが見えない視野狭窄状態では意味はありません。
ヨーガや仏教はそんな状態になることを戒めているし、最近思ったことは瞑想している時こそが自分の普通の状態くらいまでになること、つまり、本当にナチュラルに瞑想できないといけない。瞑想にあまり自分のエゴや意味を持たせたは辿り着くべきところに辿り着けないと思うようになりました。
だって、その辿り着くべきとこは想像すら付かない場所で、我々はそこがどこかすらも知らないのだから。
辿り着くのを待つしかないのだから。
辿り着いた時にだけ「辿り着いた」と分かる。
これは仏典にも同じことが書かれています。
力んで解脱しているならもっと多くの人が解脱しています。
今じゃ無い自分に辿り着きたかったら、今の自分の全てを手放さなければ。
それは思考もそう。
道元の教えに、只管打坐というのがありますが、
それも同様のことを言っているのかもしれませんね。
座相に集中し、通常の認識の出てくる余地を与えず、
ただひたすら座り続けるそうです。
こんな説明を見つけました。
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-zen12.htm
最後には、この座相における集中もはずしていくのではないかと想像するんですけど、どう思われますか?
ヨーガ的見解、または俺なりの見解がありますが、
実際に座ってそこまでの状態に至った人で無いと分からないと思うので敢えて書きません。
実際に座ってそこまでの状態に至った人で無いと分からないと思うので敢えて書きません。
なるほど・・。了解しました。