人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一つの告白

2023-08-13 04:07:31 | 現臨、ハタラキ
素直に認めなければならない!
ありのままの自分を認め、受け入れないとならない!

私は自分の信仰を他に押しつけようという気など毛頭ありません!
私自身、他からそのように為されたものなど受け付けません!
だから、これは信仰じゃありません!
ありのままを認め、受け入れるということは!
これは、万人に当てはまるのかどうかは知らないけれど...
誰もが理解され、受け入れるものなのかどうかは知らないけれど...
ありのままを、感じたままを書いてみたいのです。
一つの告白と思って読んで下さい!

度々言ってるように、私自らありのままの自分になったりなど出来ないのです!
それは、そういう境地になったり、到達したりするものじゃありません!
そう思ったり、為そうとするのは、ありのままの自分ではありません!
そう在らしめるものがある、光を照らしているものがある...
そのもの無しには、かかる現実などあり得ない!
ありのままである、というこれ以上無いような現実!
現実在らしめるものが臨む...
かく現臨するもの無しに、そういう私はあり得ないのです!
真我という...何が真実かは知らないけれど、少なくともそこに偽りなどというものがあろうはずが無い!
ありのままの真実!...だからそれが如何に惨たんたる状態の私だろうと受け入れるしかないのです!
だから、そこから離れて如何に自分を高く、進んだもののように思い描こうとし、なろうとする自分こそは偽り、幻想と言わねばならないのです!
現臨無しには私の現実、真実は無い!
かくの如く現臨するものは思い描いたり、信じたりする神ではない!
神は思いを超えたもの...
こうした意味合いで私は神を受け入れざるを得ません!
そのものと私は切り離されないもの...
二つで一つ!...すべてで一つ!

こういうことをずっと私は書いてきた、否書かされてきたのです。
それは、一つの私の表現に過ぎないものです。
一つの...すべての?
少なくとも、あなたの真実は、あなたの現実在らしめるものに照らされなければならないでしょう?
信じるか、否そう受け入れるかどうかはあなた次第です!...


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もっとも直接的な方法

2023-08-12 09:44:34 | 求道、探究
精神的な道には、悟りに至るとされるものなどで数々の方法がありますが、もっとも最良な方法とは方法の無い方法だと私は思います。
ヘンな言い回しですが、方法が無いとは直接的なものと言うこと...直接的とは、まず直ちに行われ得るもののことです。
寝ているのなら寝たままで、歩いているのなら歩いているままで、テレビを観ているのなら観ているままで...何かの座法とか呼吸法とか、精神集中など、そこに段構えというものが無いもののことです。
考えてもみて下さい、重い病気で寝たきりになっている時とか、災害に見舞われ、危急存亡にある時など何かの方法に頼ってなどいられるでしょうか?
いや、本当はそういう時にこそ、効力が発揮されなければ何にもならないのではないでしょうか?
それは又、例えば何時から、何分間行うとか時間も場所の制約も一切無く、いつでもどこでも出来るものなのです。
このように、そこに自己と方法といったものとの乖離というものが無いということであり、それは又対象が無いということ...思念された教義、教師、神の存在といった自己と対象との間に何ものも設けないという意味でも直接的なものです。
では、具体的にどういう方法で行うのか?...だから方法なんて無いと言ってるでしょうが!
もし、真我を見つけたいのなら、何が真で偽りかとか考えたりしてないで、どうやってもヘチマもなく、直ちに何の色づけもされてない、ありのままのあなたにぶつかっていけばいいのです。
...勿論、とても乱暴な、型破りな、道理を無視したことを言っているのは分かってますよ。
でも、本当にあなた自身に目覚めるというのなら、あなた以外の何ものかに依存など出来ないのではありませんか?
そう、あなたの間に何ものかを設えるのは依存に他ならない。あなたが依存している方法なり教えというものは、所詮他人が敷いた(強いた)レールに過ぎないのです!
又、あなたは目覚めたい、覚醒したいと思っているのですか?、心からそう思っている、願っているのですか?
では、よく考えて、意識してみて下さい!...目覚めるとは、今のあなたが睡眠状態にあるという自覚が大前提なのです。
睡眠状態で典型的なものは、ある宗教の教え、カルトの教えなどに囚われているようなことでしょう。
そういう人間は、自分が睡眠、催眠状態にあることに気付くこともなく、ある人など現実の自分とかけ離れた、高次元に進んだ、悟りを開いた自分の幻想を追い求め、夢を見続けているのです。
これは、もっとも、目覚めから遠い状態と言わねばならないでしょう。
そして、自分は今睡眠状態にあることに気付くこと...これは目覚めることと同じはずなのです。
あなたが本当にその気なら、いつでもどこでも目覚められるのではないでしょうか?
居るのか、居ないのか分からない神なんかに頼ること無しに!...ん?
それは、言うまでもなく、他人が何とか言ってる、あなたが思い描いている神のことを言っているのです。
しかし、あなたが病に伏している時、危急存亡にある時、無意識に何かに頼るのではありませんか?
これは、先の能動的な依存と区別されるべきでしょう。
だからだから、ありのままの自分の状態を認め、受け入れないとならないのです。
自分自らは、本当の自分に目覚めることが出来ないのならば、素直にその状態を受け入れなければ...そうすれば、直ちに現前に何かが開かれる...かもしれない。
直接的な道とは要するに、これ以上無いほど自分に素直になるということではないでしょうか?...
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自然に、赴くままに...

2023-08-11 10:01:16 | スピリチュアル
私が“神の手に捉えられる“と呼んでいる、神的現臨により、思考機能がマヒして、思うことも為すことも出来なくなる意識状態について、当然のことながらあまり理解されないようです。
そう、これは自分の思いは自分でコントロール出来る、と思っている人間には絶対に理解出来ないことでしょう。
こうなったら、もう任せる、ゆだねるしかありません。その時、本当にその意味を知らされるのです。
そんな自分の意志、思考が奪われたら、自由というもの、主体性というものはどうなってしまうのか?、それで幸せなのか?、って誰しもが感じることでしょう。
それに対して私ははっきり明言します!...そんなことになって...人生でかくも自由、主体性を、そして幸福を感じたことは無かった、と!
これは、思うこと、為すことだけがすべてと思っている自分からは、望むべくもないものだ、と言っているのです。
この状態は、通常の状態からすれば、ある意味で“死“を意味しているのかもしれません。
しかし、私がそこで目の当たりにしたものは、絶え間ない、生成、創造活動といったものだったのです。
その主体となるものは、このチッポケな私をまったく超えたものであるのは、言うまでもありません。
主体ということを言いましたが、私は本当の自分、真我というものが、どういうものなのか、存在論的には分かりません。
けれど、チッポケな私には求められなかった、その“私は在る“という純粋感覚に与ることが出来たのでした。(この意味で私にはブッダは、実体としての真我は否定したかもしれませんが、この有り様を否定したとはとても思えないのです。そうでなければ、どこにブッダが説いた安らぎというものを求めることが出来よう?)
もっとも、こういうことがずっと続いていたら、先のことでも、実際に死のことが過ったりもしたのですが、命がいくつあっても足りないくらいでしょう。
かと言って、それは走馬灯のように、来ては去って行く人生のメモリアルのように、消えてゆくものではありません。私のどこか深部に刻印されているのです。
だから、この幻想に満ちた現実世界のことでなく、本源的世界のことに意識を向けて生きていくのです!...って、そんなこたあない!...そんな即身仏(生けるミイラ)みたいな生き方なんぞ考えたことも無いですよ!
私は頭の先からつま先に至るまて、普通に泣いたり、笑ったりして生きている人間に過ぎないのです。(あったりめえだろ!)
ただ、どっかに当たり前でないものを頂いているという、それだけの話です。
正しく、己を律してゆくような、骨のようにカタイ生き方はさて置き(あのね、自分からやろうとしたって出来ないことなの!)、私にはどうしても忘れることの出来ないものによって知らず知らずに人生航海の舵を握られているようで...
要するに、私の人生の主眼となるものは、自然に、赴くままに、ということなのでしょう?
それは、一体どこに向かおうとしているのか?...サッパリ分からない!



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ブッダの裏読み②

2023-08-09 09:26:28 | 仏教関連
ブッダのニルヴァーナ(涅槃、悟り)についての教えでよく知られているものは、それは“欲望や渇望、執着といった思いが無い“、ということでしょう。
そして、何と多くの求道者たちは、欲望、執着を無くさなければならない!、という思いに駆り立てられたことでしょうか?!...まるで、執着を無くすことに執着しているようだ...
ブッダは本当にそういうことを言ったかもしれません。
しかし、このことに限らず、誰が何を言ったか、経典に何が書かれているか、ということから離れて、自分の身になってみなければ、何にもならないでしょう?
私には、こういう自分からそのように無くさなければ、捨てなければならないという在り方には、何にもリアリティを感じません。(囚われるな、というのは又別ですが...)
もっと具体的に言えば、そういうことに意識が動かない、ということなのです。“無くさないと!“という思いとは別に...
現実にそうならないということは、どうしようもないことなんですよ!
いや、もしかしたらブッダは、現実にそうすることなんかじゃなくて、ただニルヴァーナというのは、欲望、執着の無い状態のことを言っただけだったかもしれないのです。(言い回しにご注意を!)!)
そう、これがニルヴァーナの現実なのではないか!
私の意識は、自ずからそっちに向けられます。ということはそっちにリアリティを感じてきます!
そして、無くさなければならない、すべてのこうしなければならない、というたぎるような思いから解放されるのを覚えます。
ついでに肝心なことにも触れましょう。ニルヴァーナが渇望、執着の無い状態だとすると、又多くの求道者たちがそれに駆られたであろう、ニルヴァーナを追い求める思いからも解放されるようなのです。
むせ返るような暑気に涼風が吹き込むような爽快さを覚えます。
“自ずと思いから離れるような状態というものがある!“
それは、元よりこの思おう、為そうとする自分には求めることは出来ません!
そういう状態へと向かわせるものがある!...それは全く自分の思いを超えたものでしょう!
自然と意識が動くことには、それにゆだねるしかありません。
それは自分であって、自分でないあるもの...
ブッダは自分自身を拠り所としなさい、と言いました。しかし又同時に形なき命(ダンマ)を拠り所としなさい。とも言ったのです。
命は私だけのものじゃないけど、命あっての私...ブッダは私!
すべての経典も私が語っているのではないか?

どう感じるかはあなた次第です!...
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ブッダの裏読み

2023-08-07 10:02:19 | 仏教関連
宗教、スピで説かれる言葉には、文字通りに捉えると、誤解を生みかねないものが多々あります。
そこで、どういうことを主眼に言おうとしているのか、言葉の裏に隠されているもの、含まれているものを洞察し、その言い回しに留意する必要があるでしょう。
取り分け、ブッダが語ったとされる言葉などは典型的なものと言えます。
その中でよく認知されているものは、「自らを拠り所としなさい。他者に頼るなかれ!」と、他人の言説も、神とか○○霊といった、所謂形而上の存在を認めることも、勿論頼ることもしなかった、とされている教えです。
だから、仏教はキリスト教などの一神教と違い、神が人間、世界を創造したという教えを否定していたのだ、と。
これは、神、霊的存在といった、通常知ることも、感ずることも出来ないものを思い描き、思念に囚われることから離れること、言い換えると自己実存から切り離された想像(想いによって造られた像)を思念世界に持ち込まないことを言ったものと思われます。
何故ならば、それは偶像、定見となるものだから!
創造神を想像することも定見。考えても分からないものには何一つ定かなものは無い!、空想するだけ無駄!、そうすることで段々自己から離れてしまうであろう!...
このように、定見を退け、自己を明らかなものにすることを勧めたのです。だから神も霊的存在も否定した!
いや、待てよ!...そのように否定することは定見につながらないのか?
考えても分からないからといって、自分の思いの外では、創造神も何かの霊も存在しているかもしれないではないか?
それに...師はそう言われた、だから想像したものに頼ってはいけないのだよ!...って、それ他人の言葉に頼っているんじゃないのか?
いいや、そうは言ってもこれは原初のブッダの、根本仏教の教えなんですぞ!..って、又権威付けか!...それこそは、鼻持ちならない定見ではないか!
仏教もキリスト教も無い!...どこまでも自己を明らかに、自己実存に向き合わなければならないのです!
ブッダは又アートマン、真我的な存在を否定したとされます。これも先と同じように理解されるものでしょう?
本当の自分が示されるかどうかは、自分自身が自分自身にぶつかってみなけりゃ分からないんですよ!
その方法は、禅やテーラワーダ仏教などに瞑想法が示されているそうですよ!
だけど...よく考えてみよ!、方法論ってヤツは自己実存とは直接つながらないものですよ!...私が居て、そういうものに着手するのだから!
何故、ブッダはそのように定見となるものを退けられたのか?
分かりきったこと!...それが平安、安らぎに覆いを掛けるからでしょう。
だから、他の何ものにも拠らない自己自身に尋ねよ!...やってみるのです!
え?...尋ねようにも、ぶつかってみようにも、どう掴んでいいか分からない?
だから、人は容易く諸々のものを掴んでしまうのだ!...分かりますね!
掴もうとしても、掴めない...壁にぶち当たるのが普通でしょう?
つまりは...デ.キ.ナ.イ!
しかし...私には何もデキナイけど、そこに私の思いを超えて(想像する余地がない)、私が掴むのでなく、捉えられてしまうあるものに当たってしまうのを覚えざるを得ないのです。
それは自分自身であって、自分自身でないあるものとしか言いようがありません。

これを読んでどう感じるか(無闇に信じちゃ、ダメ!)はあなた次第です!
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