人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

女性性の目覚め

2021-03-08 11:39:45 | スピリチュアル
今日は国際女性の日なんだそうです。
先日、ある街頭で何かの伝道でか、本を配っていた女性二人組は、「これからの未来は女性が切り開くのですi」とか言っていました。
しかし、私は多分そういうことにはならないと思いますよ。何故って、女性は本来からしてそのように前に出て、何かを主張し、推進してゆくようには出来ていないからです。
そういうものはいつも男が主導してきたのです。人類の歴史は、そのようにして男性性が支配してきたと言ってもいいでしょう。
だから...現代世界はかくの如く、混迷、行き詰まりの様相を呈しているのです。
何かと出たがる男、自己主張の強い男、余計なことをおっ始める男、ネット上での中傷合戦、路上のトラブル、そして国際紛争...男の居るところ業火が絶えることがありませんi
私はいつも思います。この世が男だけだったら、とっくの昔に滅び去っているであろう、と...。
これからは女性がイニシアチブを取るというより、女性はその本来性に、男性はずっと蔑ろにされてきた女性性に目覚めなければ、我々に未来は無いのではないか?...というようなことを先の二人組に話したら拍手喝采を受けたのでした。
私は男に生まれついたからこそ、そういう男のサガについて言えるのです。そして、それは自分でどうにもならないということも...も一つ、分かっちゃいるけど止められないサガ...それはH性i...ああ、もし私の中に女性性というものが全く無かったとしたらと思うと...
この女性性ということを端的に言い表すとしたら、"愛"というものでしょう。
愛し、愛されるというものばかりが愛じゃない、愛そのものとしか言い様の無い愛というものがあるのですi
私がそのことに意識的になり、自覚されるようになったのは、数年前のことです。これはホントにホント~に人生で大きな発見なのです。心底生きてて良かったと思ってますよi
気が付かなかったが、今までもずっとそうだった...精神的苦境から解かれたのも、倫理道徳などでは制御の効かない暴力的衝動、エゴの暴走へと駆り立ててゆくものを心性、感性の根底から抑えるものはこの愛だったのです。
愛にあれば、どんなものも克服出来るかもしれない。そのようにオールマイティなものではないか? "愛こそはすべて"なのでしょうか?
イヤ、何一つ克服など出来ないのかもしれません。"出来たi"などと思う必要も無いのでしょう。
愛にあり、愛にとどまっておれば...自分で出来なくとも、自ずと超えられてしまう...
愛というものほどスピリチュアルなものは無いでしょう。それは思いを超えたものだから...女性には本来的にスピリチュアルなものが根付いているのかも分かりません。
真理の追及だの、究極のなんちゃらだの、理に走り、自説に固執し、ケンケンガクガクの議論が交錯したところにそんなものが感じられるでしょうか?
女性は、男性がそのサガによりかえって見えなくしてしまう悟り、覚醒の道に駆り立てられること、男性より少ないと言えるでしょう。
本来的に、男性より女性性にすぐ目覚められる、自然にそう赴く性質が備わっているためでしょう。
女性の方がより神に愛でられる存在なのか?
いいや、我々がそれに取って代わらなければならないi
そうして女性性は封じ込められ、男性の野心に満ちた、支配の歴史が始まったのでしょう。
それも、もうこの日蝕禍で終わりを告げる..かもしれない...。
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あなたはあなた自身にならなければ...

2021-03-07 10:33:05 | 求道、探究
もし、仮に私が何かの宗教やスピの教師だとして、あるグループを運営し、日頃書いているような、例えば"意識を神に向ける"、とか"神的なものを呼び起こす、現臨にある"、というようなことが体系的な教えやメソッドのようになって普及したりし出したら...
んなこた、想像するだにあり得んことでしょうi?
"先生、中々意識を神に向けられません"、"現臨が降りて来ませんi"...なんておかしいでしょ?  おかしいことを言っているのかもしれませんが、あれは私の、おそらく私にしか通用しないような言い回しをしているのであって、"こう信じて、やればいいのです"、なんてこと伝える意図など全く無いのです。(やって出来る人って居るか? 私だって出来ないぞi?)
ただ、言い方は色々あるのでしょうが、広く宗教、スピには昔から伝えられていることに通じるであろう、と勝手に思っていることを言っているつもりなのです。
要するにちっとも体系的じゃないから、あり得んことなのです。体系的な教えもメソッドも、それに則ってやっている人は、私は依拠していないだけで、別に否定してる訳じゃないので、多いにされたらいいでしょう。何かのヒントにでもなったら有難いですが...(教えやメソッドに洩れちゃうような人向きに書いているのは確かなことなのです)
そういうこととは別の意味で...やっぱ、それはおかしいですよi...何で人のお追従なんかしなきゃならないのか? ...信者が沢山出来て嬉しいだろうか? 冗談じゃないi...コピー人間の増産、行列なんて...ゾンビの群れだi ...君と世界が終わってしまうよi
やっぱり特定の教え、メソッドを否定しているのかと思われるでしょうが、正直、"はい、ある面では..."でも、それは意識の持ち方、在り方次第だと思います。
今更ですが、これはエンライトメント、本心を開くこと、神と一つになること、真我実現...言い方は色々だけど、こういうことを前提に話をしているのです。
いつまでも"先生、先生!"なんて、お追従なんかで、その道が開かれる訳無いでしょi
これ以上のあなた自身の、あなたの主なるものの問題など無いじゃないですか?
ホンモノの教師というのは、イヤ、教師という言い方がおかしいのかもしれない...あなたの神縁の人を見つけるのは難しいことなのかもしれませんが、あなたの主は本気で望めば、臨んでくる...かもしれない(あなたの主に聞くべしi)
私はデモ教師気取りで、これだけはお教えしましょうi
"あなたはあなた自身にならなければ、絶対に幸福になれませんi...."
それ以外の教えはすべてウソと思ってもいいでしょう。
多くの宗教、スピは、この一人一人において開かれる道を閉ざし続けて来たのではないかi...なんと罪作りな...この業はとても深いi
教師と信者の共依存はホントに、ホント~におかしいi...フツーに考えても分かるでしょ、どっかであなたとあなたの主へとシフトしなきゃおかしいのです。
そうでなきゃ、目覚めるどころか、どこまでも惰眠をむさぼり続けるだけでしょう。

もしも...って具体的に思い描いてたら、もう怒りがこみ上げてきて...ずっと前にちょこっと教師になろうか、なんて思ったことありましたが、そんな自分が今じゃ信じられませんi...絶対、許さんぞi
イヤ、信じられないですよ、全く教師と信者のクサレ縁というのはi...
何で、又突然、こういう思いがこみ上げて来たのかよく分からないのですが...
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宗教とそうでないもの

2021-03-04 11:47:30 | 宗教
先日、街頭で本を無料で配布している女性二人連れに会いました。
"何の本かなあ?...何かの宗教の布教かなあ?"と思いつつ、本を取って見てみると、中々面白そうなことが書いてありそう...しかし...

"気をつけろi、瞬く間にマインド.ウイルスに感染するぞi...ディスタンスを守って、自らの主なるものにステイせよi"

今までの経験上、こういうのは大体が宗教的なものが絡んでいるんです。で、訊いてみました...。
「これは宗教ですか?」すると、おネエちゃんの一人...「いいえ、宗教は神を信じるけど、神なんて居ないんですi 皆自分で自分の運命を、人生を切り開くのですi」とのこと...
"にゃにおうi"...こうして、機せずして私がここで書いているようなことを力説する羽目になってしまったのですi(内心はそれを望んでいたんじゃないのか?)
「神は居ないって、どうして決めつけられるのですか? そりゃ、私も居るのか、居ないのか分からないけど、自分は自分だけで生きていないのは確かだし、誰も自分で生まれようとして生まれて来てないでしょ? その自分を超えた何にかを神に見立ててもいいと思うんですけど...」これについておネエちゃん「実は自分で望んで生まれて来ているんですよ~」と、言うので「僕はそんなこと覚えてません。あなたは覚えているのですか?、知ってて生まれたんですか?...いいや、誰かが言っていることを信じているだけじゃあないのか?(ここが大事なポイント!)」
つまるところ、神を信じているか、宗教でないか、どうかということはどうでもいいことだと思うのです。
最大の新宗教、S学会だって、神を信じちゃいないですよ。強固な共産主義や今でしたら米国のトランプ.カルトなどもそうです。
だけど、特定の思想、信条を掲げ、それを押し広げようとし、他者を精神的に操作し、引き入れようとする、私が"集団的思念"と呼んでいるものがその集団を支配しているような構造...これを宗教と呼ぼうが、何とか会と呼ぼうが一緒じゃありませんか?
私は、この人たちがやっているグループがそうだと決めつけるつもりなどありませんが、多くの人々が宗教にまつわることで、ウサンクサさを感じているのは、すべてここから来ている、と言っても過言ではないでしょう。
そうと知ってか、"安心して下さい、これは宗教じゃありませんよ~"、という手来が実に多いのです。これだったら、"うちの研究会は、宗教、神をもっと哲学的に深めて行こうとしているんです"、と宗教を表に出してやってる方が安心出来ようというものです。
で、先の話の続きで、その某会では、魂を存在させてくれる生命体のことを"真性"と呼んでいるのです。(体というものがあるのかどうかは分からないが)これ正しく私が神的なもの、神に見立てているもの、そのものと言ってもいいものじゃありませんか?
真性でも神性でもいいじゃないか!(心の奥で共感出来るものがあるかどうかが肝心なのですi)
要するに、自分以外の何かを信じない(これはある面で私も共感出来るが、このこと自体が一つの信仰にスリ代わることもあり得る)生き方にせよ、自分を超えたものに依拠する生き方、神を信じるも信じないも、人それぞれの観方、感じ方次第だということでしょう。(そう言ったら、先のお二方から拍手が...)
一人一人が真性(神性)に目覚めねばなりません。それにはどっかの団体に属さなきゃならない必要もないし、誰かが言っていることを信じる必要もありません。
あなた自身を、あなたの主なるものを集団的思念で覆い隠し、それにおもねってはなりません。あなた自身の真実は、あなた自身からしか開かれないでしょう。

ああ、こういうことをキレイなおネエちゃんと二人きりで話していたい(あの二人がそうじゃないと言ってる訳じゃないですよi)...本当の気付きは教会やセミナー室でなく、レストランか喫茶店で生まれるのではないでしょうか?
と、いうことを考えながら、昼メシを食べ、それから無料配布していた二冊の本のもう一冊をせしめようとその場所へ行ってみたが、もう居ませんでした...。
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2021-03-03 10:22:45 | 独語
道がある...
ここはどこだか分からないが、どっから来たかは分からないが...
どうやら山道らしい...
何にしても道がある
いくつも道など無い、この道しかない
道があるから、歩くことが出来る
どうやって歩くのか、という方法などナンセンスだ
ここに留まってなど居られない、歩かなければならない
"この道を行け"、と言わんばかりに道が続いている
この道で正しいのか?、などと考えて居られない
この大地を踏みしめ、歩いている感覚だけが頼りだ
しばらく歩くと、道標があった...
どうやらこの道を下ると里に出られるらしい
又、しばらく歩くと、登って来る人とスレ違った...
"山頂はこっちですか?"、と訊かれたが、本当の頂きはどっちだか分からず、ウソを言う訳にいかないので...
ただ、思い描いただけの、あるかないか分からない道のことを言う訳にいかないので...
"分かりません、中途から来たもので..."、と答えて別れた...
中途に留まってる訳にはいかない
あっちは上るのが前進、こっちは下るのが前進...どっちが正しいのか分からないが...
とにかく前へ進まねばならない
足を進めなくてはならない...それが進歩だ
歩いているうちに、何とはなしに心が弾んできた...
里に出れることばかりでなく、歩くことでそうなってきた...
何かに導かれているように...
何かに引き付けられるように...
みちびき...
ここに道があった...

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言葉、感覚、意識

2021-03-02 12:36:18 | 哲学・思想
私は、このブログで初めていくつか、それまで感じてきたことを言葉に表して来ました。
例えば、"神的なものに意識を向ける"とか、そうすると、"ぱっと現臨が..."とか...
そのような感覚は、その前からずっとあった訳ですが、これが意識の領域に関わるもの故、何とも表現し難いものでして...
読み手にどれだけ伝わるかはともかく、拙いながらも言葉にしてみたのです。
すると、それまでも"じんじん"といった、具体的な感覚を伴ったものではあったのですが、より一層それがありやかになってきたように感じられてきたのです。
このブログで初めて使った"現臨"なんて言葉は、当初は哲学的表現のつもりでいたものでしたが、我ながらこんなにもアリアリとしたものだとは思いませんでした。
言葉にはこのように、形無きものを具象化させるハタラキがあるのでしょう。
これには、その言葉に言い表されない、又意識と切り離されない感覚的なものが先にあるのです。
もしこの感覚無しに、それを通り越して、言葉に寄りかかってしまえば、言葉は抽象に浮き、中身の無いものになるだけでしょう。
そうなると、主体である精神が言葉に囚われ、使うべき言葉によって使役されてしまうという、本末転倒した事態に陥ってしまうのです。
これは言葉に追従し、隷属してしまう宗教の狂信者などに顕著に見られるものですが、それがスカスカな言葉がメディアを通じて拡散し、溢れかえってしまう現代社会を象徴しているようにも思えます。
言葉というものは実に諸刃の刃であると言わざるを得ません。
言葉は本来形無きものを象徴して表すところにその役割があります。媒体ということ。
その多くは、他者への伝達手段として使われて来ました。
しかし、これは改めて思うに、自らの感覚を養う上においても大きな意義があると言えるのです。
まあ、こうしていつも記事をUPしている訳ですから、外に向けて何かを伝えようとしているにゃ違いないですが...
この喜びを伴った感覚に導かれるからやめられない、ってのは絶対ある訳でして...
そして"これが伝わらないかなあ..."という願いも強くあるのです。
それには、あまりこの拙い言葉には囚われないで欲しいです。
一人一人の自由な感性あっての言葉なのですから...私が望んでいるのは信仰の押し売りでなくて、共感し合うということなのです。
言葉は同じ表徴であっても、意識の在り方次第で、全く別の感じ方を持ってしまうもの...自重せずにおれません。
イヤ、本当に言葉っていうのは、人間の精神というものを象徴しているものですね。
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