人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ざるを得ないi

2021-03-15 08:27:35 | 人生の教師
「あなた方、集会は楽しいかね?」(小池辰雄)

集会からは、遠ざかっていますが、いつも小池先生の本を読んでいると楽しくなってきて仕方ありません。
「愛は愛である。恋愛であろうと、夫婦愛であろうと、友人の愛であろうと、又君臣の間の愛であろうと、神と自分との関係の愛であろうと、みんな愛は愛で一貫している。"愛にはエロースとアガペーがあるじゃないか?"なんてあるけれども、本当の世界はそんな分析しているようなものではない」(小池辰雄/キリスト告白録第二巻.霊の貧者)
"ああ、小池先生は、"愛は分けることは出来ない"と、私と同じようなことを言われていたんだなあ...「君い、バカなこと言っちゃイカンよi」と言われそうですが、何度か読み返しているこの本なのですが、最後に読んだのは、4、5年くらい前だったのは確かだと思います。
それ以降だったら、絶対に私はこの言葉を素通りにするはずが無いからです。
"あの時は分かったような、分からないようなことだった..."
思えば、私には、このように先生の本、そして直接的には、講話などで接しているその世界から受けるものは、40年ほど前の最初からそんな感じだったのです。
先生は、常々その講話などで語られるものは「これは信仰ではない、告白ですi、私はキリストに圧倒されているだけですi」と言われていました。
しかし、中々主知的、主我的な思いが抜けない私は、"そうは言っても、あれは先生が信じている世界のことを言っているのだろう..."なんて感想も抱いて聞いていたのでしたが、そういう私の生来からの質を突破したいという気持ちもあったのです。
「とにかく、キリストに己を投げ入れ、圧倒されて、降参しなきゃダメですi」"いや、こりゃ本当じゃないかi"...しかし、何をどう投げ入れ、圧倒され、降参したらいいかが分かりません。第一私はクリスチャンでも何でもないし...
その後もキリストを受け入れたことなど一度もありません。
しかし...「"先生と同じように考えなくては"...なんて、そんなことは一つもない...天地一如の世界だ」「"私がお前か、お前が私か"と、分からないような世界が本当の世界なんだ」
私はいつの間にか、こうした言葉に頭のことじゃなく、頷かざるを得なくなってしまったのです。先生の口ぐせ「ざるを得ないi」
分かっても、分からなくてもどうしようもありません。
集会でよくあるような、"聖霊のバプテスマ"のような劇的回心などがあった訳でもないのですが...ただ、どうもこれは、ある時、あの霊なるハタラキが、心身に浸透してくるのを覚えて以降のことのようです。
私を私在らしめるもの...それがキリストなのかどうかは分かりません。
でも、僭越ながら、私は小池先生と同質のものに与っているようなのです。
これはもはや、OO教とか特定の信仰に関わるものじゃありません。
先生は終生、相対的にはキリスト者という立場で活躍されていました。
しかし、先生が指し示していたものは、全くその立場からは越え出してしまう世界にあったと言わざるを得ません。それが普遍的キリストの事態なのかも分かりません。
これは信仰じゃないですよi...聖書信仰でも、先生信仰でもない...そういうものからは破れてしまうのですi
「私はもう破れかぶれだi」
もう、誰が言っているのか分からなくなってきた...
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無のハタラキ

2021-03-14 05:32:03 | 現臨、ハタラキ
私が所謂ノンデュアリティなどのスピの教えに接してみて、いつも疑問に感じるのは、例えば、苦しみの要因となるのは、私という個人が居るという思い込みにある、という基本原理?に絡めて、"そういう思いを無くせばいいのです"、とか"囚われなきゃいいのです"、"意識しなきゃいいのです"...と、出来そうにないことを言い放つ、というところにあるのです。
言われた方は、"どうやったらいいのだろう"と当惑するか、"無くそう、囚われまい、意識しまい"、と意志想念を働かせるしかなくなるでしょう。
すると又"だからそう思ったり、やろうとするあなたは居ないのですi"、と追い討ちをかけられ、そして"悟るあなたも居ないのです"となり、"じゃ、私は何で(何かのセミナーであれば)ここに居るのだろう..."と、地球を一回りして又元に戻るようなことになってしまうのです。
しまいに教師の口から衝撃の発言が..."こういうことは、頭で理解出来ることじゃないのですよi"...じゃ、何でそういう説法に付き合わなきゃならないのでしょう。
ここには思いを超えたもの、そう導くものの消息が伝わってこない、ということに尽きるのです。
その教師たちは如何にして、その...居るような、居ないような境地に導かれたのでしょうか?...彼らは何らかの苦境にあって、その解決のため、幸福に与らんため、求め心というものがあったのではないでしょうか? 彼らの下に集まる人たちと同様に...
こういうことは分かりきったことじゃないですかi
"それまで、頭で分かったつもりになっていたことはすべて幻想だった..."、"私、私、私...ずっと私を苛み続けたこの私にまつわる思いは幻想だったi(これが私が、"私は居ない"という真理?について感じていることです)
これ、すべてがそのものに出くわしたことによって示されたものじゃないですかi
それ無くして私はどこにも、真実、リアリティというものを見い出すことが出来ません。
そして、覚醒、エンライトメントと言われるものは、そのものを"受け入れる"、ということの他には無いと思います。
そして又、思われた私は無化されない限り、思いを超えたものに与ることは無いだろう...
無のハタラキがある...聖霊、ダンマ...名称はどうあれ、これは老子や禅の研究家、伊福部隆彦先生の目からウロコの老子解釈の通り、思われた自分が無為にしてなど為しようがないのです。
"囚われまい、思うまい"としなくても、無為にして為さしめるものがあるのです。
日常の諸相においては取っ掛かりとして、"受け入れよう"と意志したりする訳ですが、より精神の内奥~純粋意識の次元に関わる地点においては、思考する自己、人為的な思いは、無為的なハタラキに明け渡さなければならないのです。
少なくとも私はそれに与ろうとして、そうなったことは一度もありません。思われたままの自己からは、それを受け入れることは出来ないのです。
ただ、その思いを超えたものの後押しというものは感じられるのです。
これは、仏教で言われる発心、祈り、待ち望むことの内にもそのハタラキを感じられるはずです。
だから...あれこれ考えている自分は、受け入れることが出来ないものですが、いつの間にか(思いを超えて)受け入れられてしまうのでしょう。
これは、裏側からのサポート無くしては考えられません。
そうして考え続けている自分を受け入れられたら、一瞬でも思いの波が切れるのが感じられるでしょう。
それが深まってくると無の世界の扉が開く...かもしれません。
やはり、菩提達磨が言ったように、悟る時は真理の方が迫ってくるのでしょう...。

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受け入れること

2021-03-12 10:31:09 | 求道、探究
毎度のことながら、私が書いているものは、何かの法則であるとか、"こうすれば必ずこうなる"、という決まりごとみたいなことには触れていないのです。
これには私の信仰ややり方(そういうものは無いのですが)を読者に押し付けるつもりはない、ということも含んでいるのです。
私自身のために書いているという側面が強いのです。それで何かしら共感するところがあればな、と思っている次第なのです。
ただ、今日書くことは生きる上で一寸したヒントになるかも...という内容なのです。

で...."受け入れること"...前回、受け入れることは、意識的になることにつながる...すると思いの隙間が出来、思いの波が切れる、というようなことを書いたのですが、これは実に昨日その通りのことになったのでした。これまでにも何度も...
テキトーでも何でも書いてみるべきなんだな、って改めて思いました。
受け入れるってことは簡単なことなのか、難しいことなのか、簡単には言えませんが、私はこのちっぽけな自分だけからは、出来そうにないものを感じています。
といって、ポカーンと何もしなくても勝手にそうなるという訳にはいかないでしょう。何ごとでもそうですが、取っ掛かりとしては、"受け入れよう"という意志も必要なのは言うまでもありません。
言葉を整理しますと、これは人為的意志想念のことを言っているのであって、いつも言っている思考を超えた意識のことではありませんよ。
ただ、そういう意志は、思考を超えた意識の世界を引き込むことがあるのです。もっと言えば、その意志にはその世界からの後押しみたいなものが感じられるのです。
思われた自分は、中々現実を受け入れられないものでしょう。
例えば、仕事でイヤなヤツと組まなければならない時...そうでない場合は、口を訊かないとか、なるべくヤツと接しないように図るのじゃないですか? それは現実逃避につながるものですが...
ここで付け加えておきたいことは、受け入れるということは、イヤなものを無理に、現実を直視するということじゃありません。"イヤなものは、イヤなんだ"も受け入れてみる...これだけで"ヤツを遠ざけようとする"ことでいっぱいの思いの波が切れる感じになりますよ。
しかし、置かれた状況(現実)は変わって行くのです。そして、ついにイヤでもヤツと組まなきゃならないハメに...
して、この現実を受け入れてみると...ツカツカとヤツがこっちに向かってきたぞお...そして"いやあ、君、よろしくなi"だって...ヤツって案外いいヤツなんだなあi
...ってこと誰しも経験したことあるんじゃないですか?
このように、受け入れることは、思いの壁を突破する口となり得るものです。この場合は状況ですが、そこには自分の意志以外の他動的要素も関わっているのではないか?
とまあ、どこにでもある日常生活の例を挙げているのですが...
"受け入れる~思考を超えた意識の次元が開かれる"...このことには人生、いや、思われたものでないすべての私、すべての人生に関わることとつながっていることは、ずっとこのブログを読まれている方には感じて頂けるでしょう...?
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意識とリアリティ

2021-03-11 12:18:12 | 意識、照明
"意識を何かに向ける、意識的になる...すると現臨、現存するもの、リアリティとつながる..."
と、いうようなことをいつも書いている訳なのですが、このリアリティというものは、どういうものなのか? いつも言うように、それは客観的に証明されるものじゃありません。そんなものがあったところで、"へえ、そうなんだi"、でおしまいでしょう。
宗教やスピ界隈では、この事実というものが、ちっとも我々一人一人のうちに、生きたものとならずに言葉だけが一人歩きしていることが実に多いですね。
"(実体をもった)神や霊界、前世の存在は事実なんだi"とか...霊感者とか、そういうものを見たり、感じたりする人にとっては、そう言い得るのかもしれませんが、多くの人は、そう突きつけられても信じるか、信じないか...つまり思考を巡らし、観念の世界だけで事実性らしきものを求めなければならなくなるのです。それはどこまでも仮想の事実に過ぎないのですが...
同じようなことが神や霊界についてほとんど語らない、ノンデュアリティの道にも言えます。
"あなたという個人などまやかしであって、存在しないのは事実なのですi"...と言われても大抵の人は、"そうかあ、まやかしだったのかあ、事実に目覚めなきゃならないのかあi"と、どんな教えでも、今より生きやすい、幸福になれる生き方を謳ってるものなので、そう信じよう、思おうという心的作用が働くものでしょう。
そして、中々そうならない(なる訳がない?i)し、思えないので、結局は迷い、かえって別の悩みを作り出してしまうのでしょう。
"スピリチュアル、ノンデュリアリティ難民よどこへ行く..."
ここには事実、リアリティというものは、自己に"直に"示されて、開かれるものである、という当たり前のことが蔑ろにされているのです。
あなた自身が、"これこそは事実だ、リアリティだi"、と感じずしてそういうものは、どこにもあり得ようはずなど無いじゃありませんかi
他人がそういう信仰を振りかざすのは、越権以外の何ものでもなく、一種の暴力に等しいと言わざるを得ませんi それこそまやかしの最たるものでしょう。
スピ界隈には、このようにあまりにも意識というものを、意識していない発言が多すぎるのではないでしょうか?
そう、こういうことは、考え巡らすのでなく、少しく意識的になってみたら分かってくる...かもしれない(無理に信じなくてもいいですよi)
今、現在何か問題を抱えていたとして、それは現に苦しみや悩みをあなたは感じていることに他ならない訳で、それは当面の事実なのでしょう?
それを"苦しんでいる私は居ない、苦しみなんて幻想..."、といくら思い込もうとしたって、一時的に暗示にかかったようになったりするかもしれないけど、所詮は思い描いた世界のことに過ぎません。
根本的にはどうか知らないけど、今苦しんでいるという事実は受け入れないとならないのです。
この受け入れるということが、意識的になることと言い換えてもいいでしょう。"向ける"、とか"向かう"という意味もここにあるのですi
事実を受け入れると、思いの波が切れる、思いの密閉空間に隙間が出来ることが実感出来るでしょう。
そうして始めて、自分の思考を超えたものを感じられるようになる...すなわち意識の次元が開かれるのです。
そして自然な意識の動きが起きる...これを向くとか言っている訳です。意識を向けようと思おうとしなくてもそうなるってこと。
これがもっと深まると神的になってくる、現臨が降りてくると言っているのですが...
私は何度も経験しています。意識的になる、思いが切れる...すると、問題だったものが消えてしまうことを...
これは事実なんだから受け入れざるを得ません。そこに事実、現実をそうたらしめているものがある...現臨。これがリアリティなんだi 信じようが、信じまいが地球は回るi、
リアリティというのは、あなたがそう感じたものに他ならない訳ですが、私の場合はフツーに現実、事実と言われている、状況によって変わるものよりも、もっと動かない、形容で無しに疑うことが出来ない現実、事実のことを多く言っています。
この地点からは、何人でも、私の感ずるリアリティというものを共有出来るはずなのですが...
これを数多ある信仰の一つと感ずるか、究極のリアリティと感ずるかはあなた次第ですi
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真理の方が迫ってくる

2021-03-10 10:07:30 | 覚醒
「悟らないでいる時は人の方が真理に迫って行こうとするが、悟る時は真理の方が迫ってくる...」(菩提達磨)

ある本に引用されていた言葉だけど...これは来たあi...
"じんじん"...耳も"きんきん"鳴りっぱなしi...
来るものがあるi...思いの雲間を破ってやって来る、臨んで来る...
如来さまか?...その語源は諸説あるようだけど、正に"来るが如きもの"に違いありません。
"悟りたいi、目覚めに与りたいi"...苦しく、生きづらい浮き世にあって、その切なる願い...分かりますよ。
でも、中々そうならないでいる人は、その現実にしっかり向き合い、この言葉を味わってみて下さいi
達磨さんと言えば、インドから中国に禅を伝えた、いわゆる禅宗の始祖とされる人です。
しかし、この言葉には、禅も念仏も、自力も他力も、いや仏教もキリスト教も他の宗教も超えられている消息が感じられるでしょう。
人が悟りを救いを求める先に、悟らしめ、救わしめようとするものがあるi...否でも応でも、人をその下につなぎとめずにおかないものがあるi
ここから外れて、如何なる悟りも、目覚めも、救いも無いでしょう。
否応無しに...ここに大いなる逆説があります。
あなたはどうしてそれを拒み続けるのか?
あの御方が迫ってくる、手をかけようとされる...もう、そうなると逃れようがありませんよi
あの御方はあなたの性向、因縁、すべてのことをご存知なのです。何時、そのみ手の内に落ちてしまうかということも...
何時?...あなたがその迫りを感じた時でしょう。
もし、そのヒタヒタと迫りくるものを感じたなら...それにうち任すしかありませんi
任そうとしないのは、思われた自分が拒み続けているということでしょう。
彼は知らないのです。み手の内に落ちることがどういうことかを...任すしかない、任せられてしまうということがどういうことかを...
最愛なるものとの出会いというものがどういうものなのかを...彼の中には次愛なるもので一杯だ、あの御方によって粉砕されるまでは...
どうやったら悟れるのか、と血迷ったことを目論み、その導きを遮ってはなりませんi...すべては主なる御方が主導されるのだから...
そして、その悟り、救いというものは、主なる御方と一つになることの他にはありません。
ここから外れてそういうものは無いのですi

と、どうして又私は、いつになく(?)偉そうに決めつけたことを書かされているのでしょう。
しょうがないのです。そう迫ってくるものを感じているので...
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