人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無為でない無為

2020-09-14 11:39:17 | 意識、照明
"無為のハタラキの前には、如何なる人為的な思いも行為も退かざるを得ない。何故ならばそれは至福の世界へと誘うものだから..."

私は精神世界に目覚めて以来、ずっと無為の道に憧れ、求め、導かれてきたと言ってもいいのです。
これは有為の世界のみしか知らない、知ろうともしない、多くの忙しそうな人たちには求むべくもないものなのでしょう。
ああ...毎日毎日おツカレさん、ご苦労さんなことです。
私の日常生活というのはですね、そりゃもう、万事がこちらが為すんじゃなくて、自動的に成ってしまうという感じでして、物事を考えることも、対処することも無く、只々起こってくる流れに任すっきゃないという次第...んな訳ないi
私の"表側"の生活というのは、全くそんなんじゃありませんi
"無為"って聞くと、受動的なものを連想するようですが、私の性向は、どちらかと言うと能動的と言っていいでしょう。
とにかく、無為ならぬ、ダラダラとした無益、無駄な、暇を持て余したような時間を費やすというのが大キライです。
何かの集まりでの要領を得ない在り方とか。議事が行われているのか、休憩時間だかハッキリしないこと...思い思いに始まる内輪での雑談...進行役の思い付きの、場当たり的な仕切り...
そういうチンタラ.ムードに付き合わされるのはイヤなので、控えめで目立たない私も時に文句を言ったりします(ある人たちには私の"一言主の神サマ"ぶりは知れ渡っているかもしれません)。又どうしても無秩序な感じになってしまう場合には、仕切り役を買って出ることもあります。
こういうムードに無為のままに流されるのはマッピラです。ホントにツカレますよねえ...。
こういうものと、あの無為自然なる在り方とはまるっきり違いますよ! 
何よりも意識状態が違うi ダラダラしたムードというのは、意識が散漫になっているのです。
言い換えると、そこにはあの"無為のハタラキ"(現臨と言ってもいい)が無いということです。
何も無いのではないi そういうもので満ちているのですi
自ずと意識がある中心に収斂されて行く...自ずから律して行くような主体性が生まれる(これは主我的なものでなく、もっと真我的なものについてのものです)。
無為的な意識状態は、テンデバラバラなものでなく、明晰さが保たれているのです。
こういう在り方をフツーに考えられているように、受動的だとかは単純には言えません。
日常では感じられない、生き生きとした主体が顕わになるという点で、能動的とも言えるのです。そういうことは思議を超えていることなのでしょう。
今、言ってきたことは、もっと端的に言えば"人生の表側と裏側"の違いということであり、けっしてゴッチャにしてはならないのです。
もっとも私の場合、ただ単に二重人格の有り様を表しているだけなのかも分かりませんが...
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それぞれの波長

2020-09-13 10:18:40 | 求道、探究
昭和46年、中三の秋、私は初めてロック.コンサートへ行きました。
そのアーティストは、当時おそらくロック界でもっとも注目を集めていたであろう、「レッド.ツエッペリンi」
会場の日本武道館も初めてでした。
"広いi、しかし、それを埋めつくす人間の塊がうじゃうじゃi(これがコロナ禍だったらどういうことになるだろうか?)、帰りたいi...やたらと待たされたがいよいよ始まったi...デカイ音量、眩しいライトi...帰りたいi...これはグッド.タイムスなのかバッド.タイムスなのか分からなくなってきた..."
数人のクラスのロック.フリークたち(私もその端くれだったのですが、"コミュニケーション.ブレークダウン"を抱えていたのか、その仲間には加わっていなかったのです)と行ったのですが、他の人らは、立ち上がって手拍子したりしてノッていた中で、私は何だか、立ち上がらなければいけないような気がして、お不動さんのように立ってただけです。
"ノル"という感覚がどうもよく分からなかったのです。
というより、元々私は、何かの祭りとか、こういう全体と一つになってしまうような環境に、容易に溶け込むことがほとんど無いということなのです。
ともあれ、そのことを機に、私の当時の自分にフィットする音楽を模索する中で、"ハード.ロック"路線は挫折せざるを得なかったのです。
ずっと後年、全く趣は異なりますが、集団的な熱狂を伴う、キリスト教の聖霊降臨を喚起する集会においても、ある種の感応は認められましたが、一度もその人知を超えたエネルギーの渦に巻き込まれることはありませんでした。
私は、常に理性がガンバってる人間なんでしょうか? こういう人間は救われないのでしょうか?
先の例といい、随分肩身の狭い思いをさせられたものです。
それで、よくもまあ、"意識を向けると、現臨が臨むと、ぱっと思考から離れられる..."などと日頃書いてるものですが、それもホントなんだから仕方ありません。
こういうものは、"ワイワイ、ワッショイ"というノリでは来ないのです。"じんじん"、"そくそく"と、静かーな感じで、染み渡ってくるように来るのです。
熱狂的にならない、静かに集団で祈るキリスト教の集会では、しばしばそういう感じになりました。
これは良い悪いでなくて、人にはそれぞれ固有の振動性があり、その波長に合う、合わないという問題があるということなのです。
音楽の嗜好のことなら、元より感覚的なこのことなので分かりやすいですが、宗教など精神的な道では、その信条的な面ばかり意識が行ってしまい、このより身体的波長面のことが盲点になりやすいようです。
一人一人の個性というものは、頭で考えている以前に身体面で示されているのでしょう。
このことを弁え、自覚すれば、マイノリティだろうと、何だろうと大手を振って歩けるというものだ...
何ーんて、そうしないで万事控えめなのが、私のマイナーな個性なのでした。

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憂愁なる幸福

2020-09-10 09:49:06 | 独語
私は今までに全身で、心の底から喜びを表したことがあっただろうか?
屈託のない笑顔、遠慮を知らないオーバーな仕草、デカイ声...
ああ...憂鬱だi うるさいi うっとおしいi
なるべくそういうものとは接したくないi
小さい頃、母にプールに連れて行ってもらった時、プールの中で母に向かって思いっきり喜びを表したことがあった
しかし、それはそういうフリをしていただけだった...そういう私を見て、いつも病気勝ちで、冴えない表情している母が喜んでくれたからだ...
クラスで、休み時間になるとアチコチで、わいわいガヤガヤと"騒音"を投げかけてくる塊が出来た
"お前はどうして皆と一緒に楽しまないんだ? いつも憂鬱な顔して何が楽しいんだ?"
ほっといてくれi その要らん気遣いこそが憂鬱の種だってのに...
会社の飲み会やらの"騒ぎ"ほど苦痛な時間はないi ゲコだということもあるが、何が楽しくて"かんぱーいi"なぞやらなきゃならなんだi
"楽しそうな顔をしなければならないi"という空気...何という責め苦だi

ベルジャーエフは「私は人生の幸福な機会において、最大の憂愁を感じた」と言った
彼は憂鬱と憂愁とを区別していた
そうなんだi それでこそ、私の居場所が見つかるというものだi この違いは実に大きいi
私が一寸ばかし、メランコリックになってたからと言って、何で幸福でないと決めつけるのかね?俗人の皆さんi
"あなたは今、深い悲しみを抱えているみたいだけど、それは時間が解決してくれますよi"
冗談じゃないi 私はこの憂愁なる幸福の時間を失いたくないのだi
ああ...どうかこの哀切に満ちたひとときが、日常の喧騒の中に消えてしまわないように...
私に固有な幸福感は、多くブルーな気分と共にあった...
それは確かに哀しい...しかし、苦しみはない...月の光にも似た淡い輝きがある...
ここには失われたものの悲しみがある...失われてゆくものの悲しみがある...
すべてが明るく、ポジティブではない...すべては愛?
私はこの陰影をもった光を通して、初めて血潮と共に流れるような愛というものを知った気がする...
今、"失っている"ということには、"帰る"、"復活する"、"再びやって来る、会える"ものへの待望がある
このゾクゾクする待ち望みにこそ、喜びは感じられないだろうか?
失っていることは、何もかもが無くなったということではないのだ!
何もかもが有り、何もかもが無かったなら、一体何を愛したらいいのだろう...
失われたものの悲しみ、失われてゆくものの悲しみ...
それは人間に特有の幸福な気分ではないだろうか?
だが、落ち着きのない世の中は知ろうとしない...

ああ...暑い中にも秋の虫がさえずり始めた
私の季節がやって来たようだ...

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内なる律法

2020-09-09 12:28:08 | 雑感
毎日、動物や植物、虫などの動画、画像を観て楽しんでおりますが、時にその可愛らしさに和まされると同時に、昔の悪行の数々のことが思い出され、自責の念で胸が締め付けられそうになることがあります。
蝶々を生きたまま天ぷらにしたこともあった...バッタの羽をもいで跳べるかどうか見たりした...傘で道端に咲いている花を、チャンバラみたいに花びらだけをバサッ、と切り捨てたりもした...
よくも、あんな酷いことをしたものだと我ながら思います。(と言いながら、今年もゴキブリ、ハエ、蚊などの害虫を何匹殺したか分かりませんけど...)
私は二重人格の自覚があり、ああいう悪魔性は多分、今でもどっかに巣くっているのでしょうけど、かつてはこういう気持ちにさせられたことはほとんど無かったのです。
この胸が締め付けられる思いは、自責、後悔からだけから来るものではありません。
何とも言えない、じわじわーっと迫る哀(愛)感のようなもの、そのように具体的に感じられるものがあるのです。これは数年前、夢の中で弾みとはいえ、人を殺めてしまった(!)時にも感じられたものです。
そして自責の思いと、その具体的に感じられる愛感とは一つのものだということが分かるのです。
事の善悪ということなら、私はそういう無益な殺生が悪いことだとは、頭では少しは分かっていたつもりでした。しかし、たかが虫や草花のことなど、どっからも罰せられないではないか?...悪いことなのか?
善悪など国や時代によっても変わることだし、スピの先生だって"善悪は本来無い"、と言っているではないか?
しかし、この胸に心臓の鼓動のようにも、血肉に訴えかけるようにも迫る感覚は、社会生活を律する法、モラル、善悪の抽象的観念によってはけっして捉えられないものなのです。
外側の律法にいくら照らしてもこの感覚は分かりません。しかし、この内側からの律法に照らして、我々はそのハートから迫り来るものに堪えられるだろうか?
この感覚こそは、人々が善悪について感じているものの根底にあるものでしょう。
そして、このものに根差したものでない、外的な律法のみでは、我々は主体的に自らを律することは出来ず、それはもう破綻しているように感じます。
このことは、益々荒廃した様相を呈した現代社会が物語っている通りでしょう。
我々の多くはその内なる律法を久しく失ってしまったままなのです。
一つ言えることは、我々の生活を律する法は、あまりにも"生命の尊厳"に根差したものとは言い難いということです。これが端的にそれを蔑ろにしている要因になっているのでしょう。
具体的な愛の感覚は、具体的な生命に接することなどによってある程度養われるものでしょう。よく言われるように幼い時から自然に、動植物に具体的に接して親しむことは実に大切なことだと思います。
私が実感していることは、それは確かに私に本源的に息づいていたものだけれど、久しく失っていたものだということです。決して無くなってしまったものではない...ハートの声に聞くべしi
こういうことは、依然として問題児、いやもう、手遅れの問題オヤジの私がエラそうに言えることじゃないのですが...
外側の律法は益々廃れて行くように感じる一方、内なる律法が復活する兆しも仄かに表れて来ているようにも感じています。

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祈りは方法無き道

2020-09-07 11:44:38 | 祈りと瞑想
「私たちは、ものを祈り求めるのではなく、その与え手を祈り求めなければなりません。命ではなく、命の与え手を求めなければならないのです」(サンダー.シング)

これを書いている今、経験したことのない強い勢力であるという台風10号が九州地方を襲っていますが、やはりこういう際には、"大きな被害にあわれませんように..."、と誰しもが祈らされるものですね。
一体、何人の人がその問題に直面している、いないに関わらず、祈りを通して平安に導かれるのか、どうかは分かりませんが...
不幸災難から救われようと、又願いが叶えられようと祈るのも自然なことでしょうが、愛、平安というものは、私は何度も経験しているように、実に神的なものと共にある、ということにあるのです。
だから、何か事が起こった時には祈るが、普段は忘れられているのがフツーなのですが、起こってしまったら手を合わせてしまう、というのが、おそらく世界人類に共通した自然な心情の表れなのでしょう。心のどっかにはやはり神的なものが意識されているのでしょう。
私がいつも書いていることというのは、ある方法に則り、心や行いを整えたり、変えようとしたり、鍛練を重ねて行くようなこと(多分、それはそういうことで、幸福に与らんとするのでしょうが)でなしに、その幸福の与え手を頂く...それによって心が自ずと整えられたり、変えられたりする、というようなことなのです。
神に臨んで頂く、神の息吹きに通って頂く...もう、そういうこと自体が幸福に与ることと言ってもいいのです。
して、その方法は...やはり祈りということになるのです。(広い意味では瞑想とつながるものでしょう。しかし、何か事が起こった時、フツーは瞑想しようとはしないし、そう呼ばないでしょう)
これもある意味で方法かもしれませんが、こちら側でこうしよう、ああしようなんてのはありません。方法は即手放しになってしまうのですから...これは意識を神に向ける、向いちゃうということと同じなのです。祈っているうちに、あるいは祈るより先に祈らされている感じがしてきます。
これが、思う、行う私じゃなくて、そう為さしめる、その私あらしめるものがお在す、ということなのです。
インドの神秘家サンダー.シングは、祈りは呼吸と同じだとも言っていますが、それは命そのもの、命の与え手を頂く、ということなのだから、実に頷けることです。
このことに意識的になれば、命のみ親とつながることになるのも、自明なことではありませんか?
呼吸にも等しいみ親との交わりに、特定の祈りの形や文句などに囚われるなんてどうかしています。囚われることほど祈りの在り方からズレたことはありません。
自分の思い、祈りでなしに、神的なものに意識がつながることが肝心なのです。
それは方法無き、最愛のものに自己を明け渡す道なのです。
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