私が初めて人生の裏側に踏み入れてしまった時、まずその戸口の前に立たされていました。
戸口の向こうにどういうものが開かれているのかは…薄れゆく思考の中で徐々に知らされていきました。
実にこの告示が私をここに連れてきたともいえるのです。見えざる導きを受けていたのです。
そして、思考機能が停滞して行くにつれて鮮明になってくる感じです。
”そこにあるものは、私がこれまでの人生で、いや生まれる以前から求めてやまなかったものなんじゃないか…この目で見なくとも分かる…いや目で見ていないからこそ、間近に分かる、直接伝わってくるではないか!”
しかし、わずかに残された思考はその扉から踏み入れるのを止まらせていました。
”どう考えてもオカシイではないか、私はこんな信じられないような賜物に預かるに値しないはずなのに…第一私にはまだ果たさなければならない宿業があるではないか…まだまだ修行途上の身なんだから…私には私相応の世界を通らなければ、こんなところに来てはいけないハズなんだから…これはきっとずっと低い段階の幽界かなんかの入り口なのだろう…”
とか、なんとかのジタバタした頭の抵抗はすぐ、上よりの力による私の全ての機能のマヒ状態と共に無力となりました。
そして、もう何も為すことは出来ない、すべてを受け入れるしかありませんでした。
ある覚者は、「誰でも神の世界とか高級霊界へは幽界を通らなければ行くことは出来ない」という意味のことを述べていました。神への道には段階があるということです。
その言葉によれば、彼は例えば邪霊からの試みに遭わされるとか、所謂幽界的な道を辿らされているのです。
彼は自ら体験したことを述べている訳ですが、彼以外の人にもそれを当てはめようとしているようです。
私は知識としては知っていますが、何が幽界で何が霊界といったことは直接分かりません。自覚している範囲で、そういう道を辿らされたことが無いからです。
ハッキリ、アリアリと知らされていた事といえば、その扉の際には”思い、マインドが超えられる絶対的境域がある”ということです。
思いが超えられないと裏側の世界は現前してこないのです。思いが超えられるとは相対次元も超えられるという事を意味しています。
五井先生などが語っていることによると、幽界とは思いの世界であるとのことです。してその上に霊界の下層が有り、その上には又高層霊界…と、このように何段階もの階層があるという事自体、それは相対の様相を表してしていると言えるでしょう。
私にはどこで相対次元が超えられるのかが全く分かりません。
又、そもそも越えようとしても、そう意志し、為すことが出来ない事態になってしまっては、どうしようもありません。
こう言ったからといって、それは自分とは別の意志の為されるがままになるという事では全くありません。
全く分別とか迷いを超えて、そのように為さしめられてしまうという事です。
真我というか、自己の真っ中心にまみえた!という実感があるから迷いが無いのです。
無条件にその現臨にゆだねられてしまうのは、そこに平安があるからです。
”これは真実の世界なのか、邪霊の誑かしによる幻想を見させられているのか、自分は霊界のどの段階に居て、どう進めばいいのか…”こういう想念的世界にまつわる迷いのようなものはどっからも出て来ないのです。
真の自己にあることに、こういう中間的な世界を通らなければならないものなのでしょうか?
おそらく、そう信じられている人にはそうなのでしょう。
霊界的なものだろうと、幽界、物質界的なものだろうと、真我は常にあらねばおかしいでしょう。そうでなければ、自己の帰趨に導かれることなく、果てしなく、あてどなく迷い続けるしかありません。
幽界的な道を通ろうと、通るまいと、自分を人間以下の諸力だと信じていようと、遠回りの道を歩もうと、ダイレクトにつながろうと、真我は常に真我…
真我でない人は何処にも居ないのではないでしょうか…
戸口の向こうにどういうものが開かれているのかは…薄れゆく思考の中で徐々に知らされていきました。
実にこの告示が私をここに連れてきたともいえるのです。見えざる導きを受けていたのです。
そして、思考機能が停滞して行くにつれて鮮明になってくる感じです。
”そこにあるものは、私がこれまでの人生で、いや生まれる以前から求めてやまなかったものなんじゃないか…この目で見なくとも分かる…いや目で見ていないからこそ、間近に分かる、直接伝わってくるではないか!”
しかし、わずかに残された思考はその扉から踏み入れるのを止まらせていました。
”どう考えてもオカシイではないか、私はこんな信じられないような賜物に預かるに値しないはずなのに…第一私にはまだ果たさなければならない宿業があるではないか…まだまだ修行途上の身なんだから…私には私相応の世界を通らなければ、こんなところに来てはいけないハズなんだから…これはきっとずっと低い段階の幽界かなんかの入り口なのだろう…”
とか、なんとかのジタバタした頭の抵抗はすぐ、上よりの力による私の全ての機能のマヒ状態と共に無力となりました。
そして、もう何も為すことは出来ない、すべてを受け入れるしかありませんでした。
ある覚者は、「誰でも神の世界とか高級霊界へは幽界を通らなければ行くことは出来ない」という意味のことを述べていました。神への道には段階があるということです。
その言葉によれば、彼は例えば邪霊からの試みに遭わされるとか、所謂幽界的な道を辿らされているのです。
彼は自ら体験したことを述べている訳ですが、彼以外の人にもそれを当てはめようとしているようです。
私は知識としては知っていますが、何が幽界で何が霊界といったことは直接分かりません。自覚している範囲で、そういう道を辿らされたことが無いからです。
ハッキリ、アリアリと知らされていた事といえば、その扉の際には”思い、マインドが超えられる絶対的境域がある”ということです。
思いが超えられないと裏側の世界は現前してこないのです。思いが超えられるとは相対次元も超えられるという事を意味しています。
五井先生などが語っていることによると、幽界とは思いの世界であるとのことです。してその上に霊界の下層が有り、その上には又高層霊界…と、このように何段階もの階層があるという事自体、それは相対の様相を表してしていると言えるでしょう。
私にはどこで相対次元が超えられるのかが全く分かりません。
又、そもそも越えようとしても、そう意志し、為すことが出来ない事態になってしまっては、どうしようもありません。
こう言ったからといって、それは自分とは別の意志の為されるがままになるという事では全くありません。
全く分別とか迷いを超えて、そのように為さしめられてしまうという事です。
真我というか、自己の真っ中心にまみえた!という実感があるから迷いが無いのです。
無条件にその現臨にゆだねられてしまうのは、そこに平安があるからです。
”これは真実の世界なのか、邪霊の誑かしによる幻想を見させられているのか、自分は霊界のどの段階に居て、どう進めばいいのか…”こういう想念的世界にまつわる迷いのようなものはどっからも出て来ないのです。
真の自己にあることに、こういう中間的な世界を通らなければならないものなのでしょうか?
おそらく、そう信じられている人にはそうなのでしょう。
霊界的なものだろうと、幽界、物質界的なものだろうと、真我は常にあらねばおかしいでしょう。そうでなければ、自己の帰趨に導かれることなく、果てしなく、あてどなく迷い続けるしかありません。
幽界的な道を通ろうと、通るまいと、自分を人間以下の諸力だと信じていようと、遠回りの道を歩もうと、ダイレクトにつながろうと、真我は常に真我…
真我でない人は何処にも居ないのではないでしょうか…