人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真我と中間世界

2017-04-19 17:40:46 | スピリチュアル
私が初めて人生の裏側に踏み入れてしまった時、まずその戸口の前に立たされていました。
戸口の向こうにどういうものが開かれているのかは…薄れゆく思考の中で徐々に知らされていきました。
実にこの告示が私をここに連れてきたともいえるのです。見えざる導きを受けていたのです。
そして、思考機能が停滞して行くにつれて鮮明になってくる感じです。
”そこにあるものは、私がこれまでの人生で、いや生まれる以前から求めてやまなかったものなんじゃないか…この目で見なくとも分かる…いや目で見ていないからこそ、間近に分かる、直接伝わってくるではないか!”
しかし、わずかに残された思考はその扉から踏み入れるのを止まらせていました。
”どう考えてもオカシイではないか、私はこんな信じられないような賜物に預かるに値しないはずなのに…第一私にはまだ果たさなければならない宿業があるではないか…まだまだ修行途上の身なんだから…私には私相応の世界を通らなければ、こんなところに来てはいけないハズなんだから…これはきっとずっと低い段階の幽界かなんかの入り口なのだろう…”
とか、なんとかのジタバタした頭の抵抗はすぐ、上よりの力による私の全ての機能のマヒ状態と共に無力となりました。
そして、もう何も為すことは出来ない、すべてを受け入れるしかありませんでした。

ある覚者は、「誰でも神の世界とか高級霊界へは幽界を通らなければ行くことは出来ない」という意味のことを述べていました。神への道には段階があるということです。
その言葉によれば、彼は例えば邪霊からの試みに遭わされるとか、所謂幽界的な道を辿らされているのです。
彼は自ら体験したことを述べている訳ですが、彼以外の人にもそれを当てはめようとしているようです。
私は知識としては知っていますが、何が幽界で何が霊界といったことは直接分かりません。自覚している範囲で、そういう道を辿らされたことが無いからです。
ハッキリ、アリアリと知らされていた事といえば、その扉の際には”思い、マインドが超えられる絶対的境域がある”ということです。
思いが超えられないと裏側の世界は現前してこないのです。思いが超えられるとは相対次元も超えられるという事を意味しています。
五井先生などが語っていることによると、幽界とは思いの世界であるとのことです。してその上に霊界の下層が有り、その上には又高層霊界…と、このように何段階もの階層があるという事自体、それは相対の様相を表してしていると言えるでしょう。
私にはどこで相対次元が超えられるのかが全く分かりません。
又、そもそも越えようとしても、そう意志し、為すことが出来ない事態になってしまっては、どうしようもありません。
こう言ったからといって、それは自分とは別の意志の為されるがままになるという事では全くありません。
全く分別とか迷いを超えて、そのように為さしめられてしまうという事です。
真我というか、自己の真っ中心にまみえた!という実感があるから迷いが無いのです。
無条件にその現臨にゆだねられてしまうのは、そこに平安があるからです。
”これは真実の世界なのか、邪霊の誑かしによる幻想を見させられているのか、自分は霊界のどの段階に居て、どう進めばいいのか…”こういう想念的世界にまつわる迷いのようなものはどっからも出て来ないのです。
真の自己にあることに、こういう中間的な世界を通らなければならないものなのでしょうか?
おそらく、そう信じられている人にはそうなのでしょう。
霊界的なものだろうと、幽界、物質界的なものだろうと、真我は常にあらねばおかしいでしょう。そうでなければ、自己の帰趨に導かれることなく、果てしなく、あてどなく迷い続けるしかありません。
幽界的な道を通ろうと、通るまいと、自分を人間以下の諸力だと信じていようと、遠回りの道を歩もうと、ダイレクトにつながろうと、真我は常に真我…
真我でない人は何処にも居ないのではないでしょうか…







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スブド❼ー人間の真姿ー

2017-04-18 18:36:18 | 秘教、その他団体
スブドはメンバーが一定せず、辞めて行く人も多いのです。
ある全国的規模の集会で、感情を爆発させている人間が現れ、その集まりが一時騒然となったことがあり、鎮まったところで日本における創設以来(スブドに人生を掛けたといってもいいくらいの方で、これは実にスゴーイことだと思います!)のメンバーであるTさんを中心に一寸した交流がもたれました。
「スブドには昔からこういう人間関係の縺れや紛糾事が付き物でねえ…」と語るTさんに私は「そういう事が原因で辞めて行く人も居るんですか?」と尋ねたところ、「いや、ほとんどの人間はそれで辞めて行くんだよ…」と言われたのには、ビックリするやら呆れる思いがしたものです。
こういう事はアチコチで、大人の社会ではあからさまに言うのをはばかるような言葉が飛び交い、子供の喧嘩のような事が行われるのをしばしば目にしました。
神に至る道を目指すと標榜するスブド人というのは、普通の人たちより数段落ちると思えました。
だけどねえ…紳士淑女の皆さん!”ごリッパな人間の仮面なんて一皮剥けばこんなもんじゃないか…”と、私はつくづく感じましたよ!
そこでは、普段はオブラートに包まれて隠れている我々の自我が剥き出しにされているのです! まるで”堅苦しい理性だの、道理だのは制圧された!”とばかりに自我が解放を喜んでいるようでした。これを表向きの自我がもっと奥の抑圧された自我に追いやられたと観るべきでしょうか?
この赤裸々なる自我の表出…いやあ、実に人間的でありすぎるではないか!ヒューマニズムはいずこへ…いやこれぞその暴かれた人間の真姿というべきでしょうか?
ラティハンの修練においては理性の力は抑えられるのですが、現実世界に戻ってもこのようである、というのは実に由々しき事だと思いますが、ラティハンに限らず、こうした裏側の無為のハタラキによる修練は、皆このようにアブナイと判断するのは早計だと思います。
スブドには何か重要なことが抜け落ちているか、余計な事が付されているのか、この団体に特有のものだったと私は思っています。
勿論私は、すべてを知っている訳では無いですが、他流との関わりではあまり見受けられませんでした。
私には、有り様が違うと言ったらそれまでですが、例えばキリスト教の聖霊によるコンヴァージョン(回心)と言われるもの…言葉ではよく使われてはいたものの、恩寵の光を受け意識が変容されていくということが、グループ内にあまり受容されていないという印象を受けました。
恩寵…それはただ受けるしかありません。その前では我々は無とされることを知らされます。
ここに魂の段階的進化などの教説が入り込む余地など無いでしょう。こういうものは逆に自我、エゴを助長させるものと言えます。
無力、無為である事態から一体どうやって進歩させたらいいのか…恩寵というものの理解は中途半端な分裂したものになってしまうばかりです。
そして私は、小池辰雄先生が何故、あれほど”十字架と聖霊は不離の事態である”事を力説していたのか…この事を通して初めて分からされたのです。それは”イエスの贖罪”という命題を信じるという事では無く、恩寵の光による自我性の突破のことを言い表していたのです。

実は私自身も何のカルマか、ギクシャクした人間関係を抱えていました。
私にいつも挑発した言動を繰り返す会員に、何度も倍返ししてやろうかと思い立ちましたが、大体は首一枚の理性により踏みとどまっていたと思います。
それは私の良識ある人間像に傷が付くからでしょうか? フフフ…私にそういう吹けば飛ぶよな自尊心なんてものは…あるとも!
しかし…私はこうした渦中にあっても、何とか消え入りそうな自分自身に立ち返り、”お前は本当の魂の平安というものを知らされているではないか!そこに留まりなさい!”という声なき声の促しを聞いていたのです。
人間の真姿とは如何?…私はどうしても、こうしても本当の平安というものから外れた相にそれを見たくはなかったのです。そう促されていたのです。
そして私自身のこういう問題、スブドのアチコチに見られる軋轢、混乱状態…一体何がそうしているのか…疑心暗鬼な思い、許しがたき思いが段々募っていきました。
実はバパに対して信頼を失った平成元年くらいから、スブド脱退の意志が芽生えたのですが、平成三年の冬、第一次湾岸戦争が勃発した頃のことです。(今お隣の国がキナ臭いようですが)世界に暗雲が立ち込めている…魂の本当の平安?…どうなるのか分からないけど、もう留まれない…
そして、意思を固めたのでした…。




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神を試みるなかれ

2017-04-16 18:55:51 | スピリチュアル?
秘教団体?スブドでは”テスト”と言われる、こちらの問いかけに対し神意を伺うという”試み”が行われています。
これは事前にある問いを提げ、そのままその事を頭から離し、預けたままラティハンを行い、その自然なる動きの中である反応が示されることで、神からの応答とされているのです。
これが我々の判断が及ばないような問題に直面した時、こうしたものに頼るというのも理解出来なくも無いですが、全く下世話な事柄でも持ち込まれることがあるようです。
例えば”某賢者と誰賢者とではどちらが上か?”とか…
一体そういう事を問うているものが何者で、応答するものは又何者なのでしょうか?
神はそういう事に答えるものなのでしょうか?…神は我々の好奇心を満たすためのダシにされるのでしょうか?
とはいえ、私も実は好奇心旺盛な人間で、例えばバパ・スブーとグルジェフでは、どちらが優れているか、という事に興味ない訳ではありません(笑)
ちなみにオショー・ラジニーシは自著で「比べ物にならない…」(どっちがどう?どっちでもいいです!)と決めつけていましたが、確かに”話者”とか”まとまった理論”という観点では全くお話になりません。それは両者の本を読んだらすぐ分かることです。
では、ラティハンとグルジェフのメソッド(これはバパ、グルジェフそれぞれ、そのオリジネーターとは言い切れないものがありますが)とはどちらがいいかといったら話は別です。私にはグルジェフの道には向かない…一度も関わったことがありません…つまり好きじゃないのです。
(もっとも私にはラティハンは受容できるが、バパの教説は?…なのですが…)
このようにある人にとって、どっちが上で優れているか、という事は、そこで如何にもっともらしいことが語れていようと”人の好き好き”って事に尽きるんじゃありませんか?…それが縁、カルマ、又世の中というものでしょう。おそらくところ変われば、違った答えが示されるでしょう。
お分かりかと思いますが、こういう事というのは全く相対次元のことなのです。
相対界のことは自分で考えて、感じて分かることなのです(正しいかどうかは別のことですが)。神に決めてもらうのなら何のために思考や感性が与えられているのでしょうか? こっちとあっちの答えが違ったらどうなのでしょう(本来あり得ん事でしょうが)。どうしたって我が道を行くのが人間のサガだと思いますが…
相対で示されることは何だろうと、どこまでも相対の事態に過ぎません。
相対的な事柄でお伺いを立てたりするものと言ったら、それは”占い”でしょう。
私は別に占いを否定したりしないですが、そういうものに”神意は如何?”などと、御大層な事を取って付けたりしないで、これは”占い事”と割り切ることにしています。それに応答するものもそれ相応(世話好きな神サマ?)のものだと理解しています。(だからと言って的中することも多くバカになりません)

私は見えざる導きというものと意識の中で交流したりしますが、”お伺い”を立てる何て発想はほとんどありません。(ただ、その気は無くとも感じる事はままあります)
いちいち応えてはくれないものだと感じていますし、、前記したように、どうしても伺おうという気にならないのです…声なき声で伝わるものは、”お前はどう思い、どう感じるのか?”と、私に主体性を持たせるような促しばかりです。
相対次元のことは、それを超えたものに答えを求められないでしょう。第一決められたものなど何も無いのですから…決めつけるのは相対的な人間しか居ません。
ちなみに相対的な世界の事について、それを超えたものからの答えを求めていいか?と、ちょっと意識してみると…
何だかザワザワと気持ちが落ち着かなくなり、偏頭痛がしてきます。答えは最初から与えられているようなものです。
”神を試みるなかれ、汝試みに遭わんがため…”と告げられているように…。







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はからいでなしに

2017-04-15 00:04:27 | 仏教関連
「念仏は行者のために非行、非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからいにてつくる善にもあらざれば非善といふ」(歎異抄)

宗教的な道に関わると、誰もが今の自分は、こうあるべき自分に悖るので、心がけ、心持ちを変えなければならない、という思いに駆られるのではないでしょうか?
何かのお教えに触れて、恨み、憎しみ、エロさ、怠惰…次から次へと善くない、克服しないとならない心の性情が明るみに出され、”自分は間違っていた、罪なことだった…心を変えないと…”と悪い自分との終わりなき闘争の日々が始まる訳です。
又、その教え、例えばキリスト教だったら神の子イエスと通さなければ救われないと信じ、聖書の無謬性を認めるとか無理にでも自分の考えをその信仰に合わせようとするものです。
そうしないと神は許してくれない、自分は救われないと自分で思っているか、その宗派から思わされているからでしょう。
このような神経症じみたものでなくとも、心に調和をもたらしたい、愛深い気持ちを持ちたい…ということでも、やはり現状の心を変えたい、変えなきゃという思いが強く働くようです。果たして何人の人がこうあるべき自分になれるのかどうかわかりませんが…
私にも勿論こういう思い方というのは馴染みがあるものですが、ある時から自分の思いで自分を変えようという発想はほとんど持たなくなりました。
まず、それで心が変えられた試しがないですから。
しかし…変えようとしなくても、突然平安、愛に満たされてしまう事は知らされています。
心がけを変えようとか、出来そうにないことをしなくとも、いつも言うように意識を向けるとも、中から呼び覚まされるものに向いちゃうともいうような事で…
これは何かをやろうというような事じゃなく、自ずと思いを超えたハタラキと意識が合わさり、まさに無為的なものがハタラクという事です。
法然や親鸞の本願念仏とは、こういう消息を伝えているものでしょう。
阿弥陀仏を憶念する、というより回向させられるという事でしょう。
恨み、憎しみを持っていようと、思いは勝手に平安あるものへと振り向けられます。
いつもそうなるとは限らないですが、そうならなかったらならないで構わないのです。
至らない自分、罪な自分、そうならない自分が居る…そんな事よりも何よりも…
”自己を超えたものがある、生きハタライているものがある”という気付きがあるのです。
だから限界ある自己など問題にしなくなります。
こういう事で中々思うようにならない自分に対する不信、自己嫌悪に陥ることがありません。
スピなどでよく言われる”そのままでいい”とは、はからいで自分を変える必要がない、という事なのでしょう。
愛、平和、調和というものは我々の信念と努力によって実現するのではない…では我々が神仏に祈ることによって実現するのでしょうか?
神的ハタラキが我々が考える愛、平和、調和の実現に答えてくれるかどうかは、与り知れないのではないでしょうか?
そして、知らず知らずに我々の願望の実現のために、神をダシにするようなことをやっているのではないですか?
はからいから出たものは、はからいに捉われてしまう事になるでしょう。
信仰や修行に捉われ、神的なものそのものから意識が離れる事でそうなってしまうのです。
神的なものはそれ自体でハタライているものです。
神が存在して、何かを実現するのでなく、神ご自体が愛そのもの、平和そのもの、調和そのものなのです。
自己を超えたハタラキがこちらに通るという事があるだけです…こちらはただ受け入れ、まかせるのみ…
自然法爾な事は、当たり前すぎて気付かないものですね…。
















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実感

2017-04-12 18:31:31 | スピリチュアル
精神的世界には様々な教えというものがあります。
中にはナントカの原理だとか、実に取ってつけたような、勿体ぶった装いのものもあります。
人は自分の縁、機根などに応じて、そのうちのある教えに依拠してゆくものですが、一体何人の人が本当に腑に落ちて、自然に受け入れられていることでしょうか?
”自分が帰依している宗教、教師がそう唱えているんだから、信じ従わなければならない…”
本当に自然に受容されているわけでもないのに、”ねばならない”と迫る、どっかからの声に屈服してしまうのです。これは何かのカルマなので仕方のないことですか?
こんなところには自由はありません…全き自由の実感など生まれ出ようはずが無いのです!
この世界に一人の人間として生まれ出てたという実感の中にこそ、カルマならぬ運命、天命というものがあるのではありませんか?
その教えで説かれる神は、信者に服従を強いるのでしょうか?…あなたの神はそう告げたというのですか?
神に遠く悖る人間は、一歩一歩学び、努力精進して果てしない行程を辿った後に神へと到達するのでしょうか?
しかし、もしその教門をくぐる以前に神的ハタラキ、恩寵というものを実感したらどうでしょうか?
人の手になる宗教などでは、神に成り代わった人間が、その教えを神の言葉とスリ替えて説いているだけなのです。
神の御心というものは誰にも分からないものです。
だが、神的なハタラキ…それの流入、それに包まれてしまう事は誰にでも実感出来ます。
そこにある神的意志というものも感じられないでしょうか?
我々に全き自由、幸福というものを与えてやまないような意志というものを…
この実感に預からずして、仕方ないで済ませてしまうのですか?
意志という表現は人間的な視点のものであれ、そういうものを実感してしまうのだからしょうがありません。
そして、神に到達するも何も、このもの無しでは何一つ始まらないという事…私自身ここに居ることが出来ないという事も…
最近は下火になった感もある、所謂ノンデュアリティでは”私は居ない、自由意志というものも無い”という定理のようなもの?がありますが、もし直接経験から”私は居る、全き自由意志がある”と実感されたらどうでしょうか?
このように実感されることは、すべての他からの教え、原理、定理、法則といったものを笑うものです!
誰がどう実感するかは、それぞれの感じ方、有り様というものがありますが、それぞれの主体において一切の”こうである、こうでなければならないもの”は二義以下のものとならざるを得ません!
この意味で直接経験には”こうである”という説明は成し得ず、意味が有りません。
それは一人一人の内に開示されるものだから…
精神世界には又、どこからも実感されようがない事柄も随分と信じられています。そう…それはただそう信じられているのであって、信じざるを得ないようには、どうしたって実感出来ようのないものです。
低次元に高次元…神に至る何段階ものレベル…前世、天国、地獄…このような思いの中で果てしなく周り続け、漂っているものなど永久に実感出来そうにありません!…
本当に霊なるもの、神なるものとは、思い描いたものでない、リアルなものに導かれるものです。否、このもの無しには我々は本当の現実を実感することが出来ないのです。
多くの人は、客観世界のどこかに不変の真理があるかのように思い、宗教や教師に走ってしまうようです。
そうして数多の異なった真理が生み出されて、相克しあっているこの世の喧騒は収まる気配がありません。
一人一人の内に愛、平安、真理は実感されるものなのに…
ここに例外は一つも無いのです。
あなたと私に本当に実感されたものこそが、他にどこにもない不変、普遍の真理なのです…。



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